何だかんだ忙しく、昼夜合体のような食事パターンにうんざりする。先々月からの不調が、昼抜きを契機としたことに神経を尖らす。という訳で、お通じにもやさしい、ボトムの確りしたエアロスミスの初期傑作アルバムを聴く。エアロスミスを聴くと、70年代のトビー・フーパーやロメロ、カーペンターハーシェル・ゴードン・ルイス他の、アングラで血生臭いけども、妙に人間味のある微妙に歪んだ作品群との共通点を感じるのである。ビートルズやストーンズが分かりやすいが、時代の先端を行くバンドやミュージシャンは、高性能のアンテナみたいなもので、時代の空気を簡単に表現する能力に長けている。当然ながら、彼らは自分の型が完成しており、時々の「時流」に合わせるのではなく、時流の最大公約数的要素を抽出して昇華し、己が表現を組み立てる。70年代のエアロスミスは間違いなくこのタイプである。しかし凡人は、そういう「普遍性」に到達出来ない。私小説とかプロレタリア学のような、特定ジャンルとして消費されるような表現形式を疑問なく受け入れることは、パンク、ハードコア・パンクとか、スラッシュメタルとかデスメタルとか…に共通する精神的な足枷を感じるものである。所謂プログレバンドにこそ、より自由な精神性を私が感じるのは、陰毛の先程くらいでも、プログレミュージシャンが反商業的を謳いながら創造性の欠片もなく、怠惰な生活様式に浸りきった連中よりも表現行為に拘りがある分、好ましいと思っているからである。若い頃はパンク原理主義みたいに、中味不問のレッテル貼りで優良バンドを悪くいうみたいなゴミクズであったが、自分が表現活動を少しでも真摯にやろうとして以降、根本的に思考回路が組み換えられたのは間違いないことである。
カントリー、ブルース、ジャズやロックンロール他の伝統に根差した音楽を、自己流に表現する系譜の末席につねにいたいと強く思う。