昔はレンタルビデオ屋に行って、1本1本品定めをして借りていた。

映画にはメッセージがある。そう信じて疑わなかった僕は、常に映画から何かを見出そうとしてみていた。


殆どは僕には何も訴えてこないつまらない映画ばかりだけど、時々胸に何らかの振動を与える映画がある。


そんな映画の中の1本


「愛の形」(1989年)


今はもう殆ど覚えていないが、見た時の衝撃は今でも忘れないし、究極の愛について、いまでも自問自答する事がある。


男と女は凸と凹、アダムとイブに裂かれた時、お互いを求め合う事を課せられた。


若かりし頃、好きな子の寝顔を見ながら殺してしまいたいと思った事が何度もある。

これは、常に一緒に居たいと言う気持ちから咄嗟に思った事だ。

でも、それは独占欲でしかなく、究極の愛と呼べるような物では無かったのは、その当時でも解っていた。

だから、当然そうする事は出来なかった。(だからって言う訳ではないが、、、、)

それをしてしまたら、話も旅行も、SEXもできなくなるからだ。


いや、SEXはできる。でも僕はネクロフィリアでは無いので、暖かく反応する女体が好きだ。

(そう思っていた時点で愛では無く欲だったのだけど、、、)



援交をして青田買いをしているエロ親父がマグロ校生を抱く時、ネクロフィリアの素性が露になっているのかもしれない。

若しくは、アキバで平然と売っている等身大フワフワフィギアを購入して、着せ替え脱がせての繰り返しをしているキモオタ君もネクロフィリアの素質満点だ。



話はそれた。


究極に愛すると言う事、それは1つになる事、心も体も1つになる事。


もうそうなると喰うしかない。



喰ってしまったら、その時は心が満たされるかもしれない。

でも、1つになれた喜びは、一体いつまで持続して至福の時を実感し続けられるんだろうか?



僕には究極の愛は無い。

そう思った時、僕には愛は無くなったのかもしれない。


「この背中に吸収されたい」


そう言われると、僕は


「私を食べて!!1つになりたいから!!」


そう聞こえる。


そして、あの映画を思い出す。



愛する人を喰らう。


究極にして終局の愛の形