脳死は人の死か。


この問いは二元的なものである。




ひとつは、医学的な問いだ。


脳死とはどのような状態をいうのか、そしてその状態にあれば二度と意識は回復しないのか。


これはいわば現実的な問題であり、僕にはよくわからない。


ただ、日本でも脳死法案が可決され、脳死基準のもと、脳死が人の死とみなされるようになったことは事実だ。




ふたつめは、哲学的な問いだ。


脳死を人の死と考えてよいのか、という、いわば形而上学的な問いである。



世間一般に、人は脳に支配されていると考えられている。


脳が僕らを統制し、僕らを僕らたるものにしている。


ゆえに、脳の死は人の死だと。



ほんとにそうなのだろうか。


おもしろい実験がある。


Aという動物とBという動物の受精卵を用意する。


そしてその後、Aの脳胞を取り出し、Bに移植する。


すると、Aの脳を持ったBが生まれる。


この一種のキメラとも言える動物は、Bの声で、Aの鳴き方をするという。


ところが、である。


生まれたこの動物は、生後数日で死んでしまったのである。


原因は、Bの免疫系統によって、Aの脳が拒絶され、脳機能障害を起こしたことだった。


これは、驚くべきことを意味する。


僕らの命は、僕らを守るために、脳すらも犠牲にする可能性があるということだ。


この事実は、脳本位主義の脳死概念に、一石を投じるものだ。


僕らの命は、脳を超えたところで、生きようとしているのだ。



僕らの祖先に目を移せば、たしかに、生物は脳で生きているわけではないことがわかる。


脳は、あくまでも僕らが生存するためのひとつの機能にすぎない。


僕らの命のために、脳があるのである。


脳のために、僕らの命があるわけではない。


とすれば、脳死を人の死とすることにも、疑問が生じうる。



僕らは、生きていることに、なにかの意味を持っているのではないだろうか。


それがなにかは、わからないし、なんとなく、わかりたくもないが。





仏教のある挿話に、「天国と地獄は同じものだ」というものがある。



天国も地獄も、ご馳走の入った池のように巨大で深い釜の前に、長い箸を持って立っている状態だという。


地獄にいる者は、長い箸でご馳走をつまみ、口へ運ぼうとするが、箸があまりに長いため、食べることができない。


ゆえに、永遠の苦しみがつづく。


天国にいる者は、長い箸でご馳走をつかみ、離れたところにいる他人に「どうぞ」と食べさせてあげる。


そうして互いが互いを思いやり、すべての者がご馳走にありつける。


ゆえに、永遠の幸せがつづく。



なるほど、これは現世でも言えることかもしれない。


つまり、幸せとは外在的なものではなく、内在的なものだと。


幸せと不幸せは、いつも自分の中にある、ということか。


「いつかは幸せに」なんて、まやかしなのかもしれない。


いまを幸せになれない人は、将来も幸せになれない。



なんか、自己啓発本にありそうな文句を並べてしまった。



ただ、僕はこういう言葉が大嫌いだ。


こんなもの、自己洗脳、自己暗示、自己救済でしかない。



現世は地獄だ。


だって、そのほうがおもしろいじゃないか。









午前10時過ぎ、僕は近鉄電車に揺られ、大阪へ向かっていた。


到着まであと3時間あまり。鈍行列車は、遅い。


とは言うものの、僕は鈍行電車での移動が、嫌いではない。


本を読んだり、イヤフォンで音楽を聴いたり、束の間の「自分の時間」がもてるからだ。



その日も僕は、マイルス・デイビスのkind of blueを聴きながら、篠田節子の小説を読んでいた。


端の座席に陣取り、手すりにもたれ掛かりながら。



弥富駅を過ぎた頃、ひとりの女の子が乗車してきた。


化粧っけのない顔で、肩まで伸びた黒い髪もたぶん、櫛で梳いてきたぐらい。


灰色のパーカーにデニム、アディダスの白いスニーカーという、ありきたりな服装。


僕とそう変わらない年。


身なりからして、おそらく大学生だ。


彼女は、僕の真向かいに腰を下ろした。


ふと目が合い、僕はあわてて視線をはずす。


ちょっと凝視しすぎた。



頃合いを見て、僕は再び彼女を見た。


なにやら、本を読んでいる。


ちょっと内股気味に閉じた足が、なんとも愛らしい。



僕は、なぜかこんな女の子に惹かれる。


引かれるんじゃない、惹かれるんだ。


いや、だからって凝視するから引かれるのか。


とにかく、こんな女の子、つまり、質素な身なりで、電車で本を読むような、そんな女の子が僕は好き。



僕らを乗せた電車が、四日市駅に着いた。


にわかに、乗客が増え始めた。


女の子は、本を読みふけっている。


カバーがあるせいで、何を読んでいるかはわからない。


これで、太宰治とか読んでたら、最高なのにな。


僕はといえば、彼女のせいで、本に全く集中できない。


彼女の情報を微塵も取り逃すまいと、僕は五感を集中させる。


イヤフォンも、形だけで、すでに音楽は止められている。



僕らの電車が塩浜駅を過ぎたころ、僕は彼女を「ゆか」と名付けた。


なぜって、僕は複数の「ゆか」を好きになったことがあるから。


一番、愛情を持てる名前なんだ。


ゆかは、いまも本に集中している。


こんなにもゆかを虜にする本が、いまは憎い。



二人の電車は、白子駅に到着しようとしていた。


ゆかは、まだ降りる気配を見せない。


ゆかはどこまで行くのだろう。



ふいに、僕の視界に、ゆかのとなりに座っていた、杖を持ったおばあさんが立ち上がるのが写った。


白子駅で降りるのだろう。


しかし、ひどく不安な足取りだ。


大丈夫か、と僕はゆかから視線をはずす。



そのとき、停まりゆく電車の揺れに、おばあさんがバランスを崩した。


そして、ゆかのとなりの座席に、手をついた。



「大丈夫ですか」



イヤフォンで軽く塞がれた僕の耳が、たしかにゆかの声をとらえた。


おばあさんは少し照れたように、「ええ、ありがとう」と微笑んだ。


ゆかも、微笑んだ。


ゆかの左手は、そっとおばあさんの手に添えられていた。



初めて聞く声、初めて見る笑顔だった。


それは柔らかく、温かい、なんとも女性的なものだった。


おばあさんの、じゃないよ?



ゆかは、再び本に目を移していた。


僕は、もう彼女から目を離すことができなくなっていた。


引かれるくらい、惹かれていた。



二人だけの電車が、江戸橋駅に到着しようとしていた。


彼女はふいに、本を閉じた。


どうやら、お別れらしい。


なるほど、三重大生か。


彼女は立ち上がり、ドアの前に立つ。


髪型も、灰色のパーカーも、僕はなぜか、ゆかにとっては必然的なもののような気がした。


ゆかを取り巻くすべてが、ゆかをゆかたるものにしている。


そんな気がした。



ドアが開き、ゆかは改札へ歩き出す。


寒いのだろう。


腕を組みながら歩いている。


遠ざかっていくゆかの後姿を、僕はそっと見送る。



ドアが閉まり、空っぽの電車が動き出す。


車輪がゆっくりと運動をはじめ、二人の距離を遠ざけていく。


10メートル、15メートル・・・


動き出してしまえば、僕らの人生の曲線は、もう二度と、交わることはない。




そんな僕の気持ちなどつゆ知らず、電車は加速してゆく。





はじめから、なにもなかったのだと、僕は僕に言い聞かせる。


そう、いままでもこれからも、ずっと空っぽの電車だ、と。


そんな僕に、心の奥の、本当の僕はこう言う。



「でも、たしかにその45分間、キミは恋をしていたよね」