「きみはカントを知っているか」



こう聞かれたとき、僕はなんと答えればよいのだろう。


この問いを

「カントという人がいたことを知っているか」

という意味に解せば、答えは「YES」だ。


しかし、この問いを

「カントの思想について知っているか」

と解せば、答えは「NO」だ。



僕はカントの何を知っているだろう。


近代ドイツの哲学者だ、ということぐらいしか、僕は知らない。


なのに、「きみはカントを知っているか」と聞かれたら、僕は「うん」と答えてしまうにちがいない。



これは別にカントに限ったことではない。


ごく親しい友人のことでさえも、僕は何を知っているのだろうか。


いや、それよりも、僕は僕自身の何を知っているのだろうか。


そう、僕はなにも知らない。


そして、誰も、僕を知らない。



ソクラテスは「無知の知」により、自分はソフィストより優れていると言った。


たしかに、「無知の知」により、僕らの思索はより内省的になるだろう。


だが、それがなんだというのか。


結局、ソクラテスは、何を「知った」のだろうか。


内省的な思索で、何を得たか。



うーん。


なんだろう。


わけわかんない。