キリスト教求道者の信仰の揺れについて
リライト2023.1.14
上記、きゅうどうしゃとはオイラのことです。
キリスト教界隈の「求道者」は「きゅうどうしゃ」と読みます。『ぐどうしゃ』とは意味も異なります。
もうかれこれ2年以上求道者を続けていますが、一向に洗礼は受けていません。
一度、洗礼に至るチャンスがあったのですが、自分で不意にしました。
「洗礼にはまだ、ふさわしくない」と心がズキズキ痛んだからです。
結局、マシになってから受けよう、と考えていると一生受けることはないそうですよ。
もうそれでいいですよ。
どーでもいいですよ。
クソ食らえですよ。
ただし、聖書解釈をまともにできないくせに妄想して、めちゃくちゃ言ってるバカとは一緒にされたくありません。
神は全知全能だから未来もわかっていたはず、それなのになぜ、罪が生まれたか?
なんでそこでわからないの🤔
それは簡単です。
人間には自由意志が与えられているからです。
それはわかるはずです。
これがなかったら今、コレ書いてません。
要は決まった演算しかでかないマシーンじゃないってことです。
好きに未来を決められる。というか選択できる。不確定な未来を。
選択の数だけ未来がある。宇宙も然りでしょう。
そんな当たり前の発想もできないバカは要りません。
全知全能だからといって、未来を決定しきって人間の自由意志を束縛することはしない。
そんな心の広い方なのでしょう。たぶんね。
事実、神を試してはならない、とはありますが(イエスの旅の初め、荒野の試練で有名)、神様は人を何度も試しています。
こちらが自由意志をもって「選択できる」からです。
そこが人生の面白いところでもありますが、僕のように落ちぶれると苦しいところでもあります。
求道者として、なんて信仰が弱いのか、それとも他の信徒もこんなにグラグラ揺れるのか?
こんなに、揺れてばかりいたら世間一般からは「一貫性がないな」と見られます。
また、「主体性がないんじゃないか?」と。
「何がキリスト教だ」などと言われました。
こんなことでは、駄目なのに、どうにもならない。
朝方は運良く調子が良かったとしても、
夕方から夜になるに連れてどんどん悪くなる、揺れる。
入浴すれば思考のSTORM。嵐のまた嵐。
安堵できる一瞬は束の間の眠りのみ。それもごく短く。
いろいろ工夫しても、眠りは長くはとれない。
(ごくたまにヘンに爆睡するけどそれは逆に困る)
将来は金欠で苦しみしか待っていない。
そもそも一人で生活する力はない。
共同生活に耐えうる能もない。
信仰が確かな人ってこんなに悲観しないでしょ?
プロフィールにもあるけど病気です。
でも、それだけじゃない。
障害もたくさんあるし、病もたくさんあるし、怪我も痛むところもわんさかある。
それに加えてキリスト教なんかに寄ったから信仰してもぐーらぐら。
人は信じるな、神だけを信じろ、それは牧師の言ったことだ、牧師は人間だ、牧師に頼るな、神に頼れ、学校にいけ、いや行くな、教会に来い、だのなんだのいろんなのから言われましたよ。
反駁させてもらいますけど、人を信じるなっちゅーなら、アンタも信じられませんな、アンタも人に過ぎない、信じるに値しない、ただの民間人だ、牧師が聖霊の力が宿って語ることはないのかい?神に頼れっちゅーが、人に頼ったらいけないなんて何時代の人だ?お前も人だろ!信用できん。ゆうこと自体がな!学校にいけだのエラソーに語っといて騙しやがって!
教会行っても説教なんざ理解できません、こちとら自閉スペクトラム症ですよ。少しは病の勉強したら?呆れるね!
一部の牧師は高齢化で呆けてるし、それをマトモに家族にでも言うのは憚られるから言わないだけ。自覚なさすぎ。
高齢者は基本みんな呆けてます、まずこの自覚に立つことがスタートラインぜよ。己の力を過信しすぎてる時点で慢心・驕り高ぶりというもの。
この国の高齢者は特に不健康な人が多い。
目くじらたててねーで、テメーを疑えやー!
不満噴出現実指摘の一記事でございました。
最後までご覧下さり誠にありがとうございます。