『迷い』それは人間の本質

リライト2023.1.2

早朝、Eテレのある番組を観ていた。途中まで視聴いたしまして

そこで言われていたことがある。

だいたい以下のような感じ。私見も含みます

 

迷うこと(迷う人間)に宗教は寄り添わねばならない

「離れる人のことも祈ってこそ宗教だ」

「そこ(離れる場合)で引き留めようとすれば拘束(縛り)である」

「また、恐怖(『地獄』の恐怖や『サタンの囁きだよ』『悪いことをするとこういう目に遭う』や『死ぬ時に解る』等の脅し文句)で縛る、或いは拘束していれば、それ(集団・組織)はもはやカルトである」

反体制と反社会は全く違う。反体制の一例はマハトマ・ガンジーらによる独立運動など。反社会については、キリスト教なども一歩間違えれば反社会的な組織に傾く。カルトになりうる」

迷いとは疑うことである

 

そこで思い至った

『疑う(迷う)からこそ人は信じることができる。迷いという「一見、欠陥のような能力」こそ人の本質だ』と。

『礼拝は義務ではなく権利、という原則(権利)も守られるほうがよかろう』と。

『まず間違いなく【献金ありき】はカルトであろう』とも。

自分が所属している教会が献金ありきでなかったのでそれはよかったと思っています。

信徒の方々のなかにもいろんな考えの人がおられるわけですが、献金よりも祈りが重要です。

具合悪かったら行かなくても(礼拝できなくても)良いし、ただ座っているだけだって良いはずです。

それでも何かの役に立っています。自分が役に立たなくても神様が恵みを与えてくださるのだと思います。

 

まだこれから温めていく考え(の記事)ですが、見た目(表象)ではなく本質(深淵)を見つめていきたいと深く思っています。

 

そのうち時が経てば、その時その時で随時リライトしたいと思います

最後までお読み頂きまして、誠にありがとうございますm(_ _)m