大変残念なご報告になりますが、父、坂東竹三郎が令和4年6月17日午前11時前28分、骨髄異型性症候群により89年の生涯に幕を閉じました。
 
生前は、父が大変にお世話になり心よりお礼を申し上げます。
晩年は体調不良による休演も多く、ご迷惑をおかけしたこともお詫びいたします。
 
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今際の様を書き連ねるのは、故人を冒涜するようで心苦しいですが、身近でその役者魂を見届け、心を揺さぶられた僕にとっての覚書として、ここに記しておきたいと思います。
 
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歌舞伎役者としての70余年に及ぶ道のりは、膨大で壮大で別記を要しますのでここでは割愛しますが、晩年に当たるここ5〜6年は、病との闘いでもありました。
 
2ヶ所の圧迫骨折による激しい腰痛、突然の大量下血、脳内出血、肺気腫など、毎年のように大病を患い、入退院、手術を繰り返す中、それでも不死鳥のごとく蘇り、舞台に向かい続け、颯爽と振る舞う姿は、タフ、頑丈、不死身、超人などと形容してもしきれないほどでした。
 
惜しむらくは、2020年から21年にかけて、身体の状態が驚くほど優れ、気力も充分で、最後の自主公演として米寿の会も企画し、今一度の輝きを放てる時期に差し掛かったと周りも期待していましたが、コロナ禍による活動自粛と重なり、地団駄を踏む日々が続きました。
 
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そして2021年12月の南座顔見世興行が、事実上最期の舞台となりました。
 
この時期から、骨髄異型性症候群、簡単に言うと、骨髄で血液を作り出す機能が低下する症状で、白血球や赤血球などの成分量がジワジワと下がりはじめました。
 
50歳程度であれば移植手術も可能でしたが、年齢的にも無理があり、対処療法という形で対応していましたが、いよいよ2022年2月ごろより、体感的に貧血による「目眩」などの症状も出始めました。
 
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そんな中、3月には松尾芸能賞功労賞の授賞式のために東京へ同行しました。
 
リハーサルでは杖無し支え無しでは歩けず、登壇の階段も一人では難しかったのですが、本番ではスタスタ歩き、階段も一人で登り、キリッとした佇まいで、しっかりとコメントをされていました。
 
また次の日にはお披露目会ということで、少人数のご贔屓の方々の前で、朗読とインタビュー形式のトークをこなされました。
 
肺気腫による呼吸困難と貧血の89歳とは思えぬ、この二日間の底知れない生命力に驚いたものです。
 
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そして迎えた6月。
 
7月松竹座公演への出演依頼をいただき、
「さあやるぞ!」という意気込みとは裏腹に、症状の悪化が進みました。
 
6月の初頭に自宅で倒れ込み、ついに
「もうあかんかもしれんなあ」
と初めて弱音を吐きましたが、僕は励ます意味で
「でも7月出はるんやろ?」と尋ねると
「出たいなあ。これで最後や」と口にしました。
 
 
直ちに、もう何度目かわからない入院をし、回復を祈りましたが、この時に初めて主治医から「心の準備」を伝えられました。
 
 
10日ほど過ぎ、改めて入院中の父と電話で話をし
「7月出はりますか?」と尋ねると
「出たいねん。これが最後や」と、聞き取りにくくはありましたが力強くつぶやきました。
 
僕はその心意気を受け、頂いた本役をこなせるほどの体力はないけども、せめて初日だけでも、幕開きにちょっと座っているだけでも、端役で良いので、なんとか舞台に立たせてあげたい。そこで斃れてもいい。お医者さんと喧嘩してでも、無理やり退院させて引っ張っていこうかと、そこまで考えていました。
 
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しかし主治医との相談の結果、やはり今回は無理だと判断し、断腸の思いで父を説得しました。
 
直接の面会は無理でしたので、リモート画面を通じての会話でした。
「お父さん。ごめんなあ。もうちょっとだけ、治療の様子を見なあかんから、今回はお休みして、次の舞台に懸けよう」
 
しばらく沈黙していましたが、やがて
「そうか、休まなあかんのか…」
と、力なく呟きました。
 
その瞬間、ふわ〜と、全身の力が抜けていく父の様子が今でも忘れられません。
 
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これが6月15日の出来事で、おそらく、緊張の糸が切れたのでしょう、その2日後の6月17日に
「わし治るんやろか。舞台に出れまっか」
という最期の言葉を主治医に残し、まるで電池が切れるように、静かに息を引き取ったそうです。
 
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あの時、「休む」という言葉を使わなければ、もしかしたら、生きることへの執念は維持できたかもしれないなあと、悔やんだこともありました。
 
しかし、おそらく、肺気腫で呼吸量も通常より大幅に少なく、貧血もひどい状況で、この3カ月ほどは、立つことも、座ることさえも辛かったのでしょう。
さぞかし、しんどかったことでしょう。
 
ギリギリ限界の所で、天寿を全うされたんだと…
今では思っています。
 
最期の最期まで舞台に立つ意志を貫いた壮絶な幕引きでした。
 
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…5月に、父がご贔屓の方に礼状を出されました。
 
手書きの文面の一部に「もう私は、きれいになれないかもしれません」と書いてありました。
 
「華」と「匂い」と「品」、そして「美」にこだわった歌舞伎役者ならではの嘆きでした。
 
旅立ちの日、近親者だけの集まりでしたが、その顔立ちは、まるで人形のように若く、美しく、艶があり、皆さんが口々に「うわー、きれい」と仰っていました。
 
最期に役者としての意地を貫いたのかと思うと、心が震えて仕方がありませんでした。
 
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戦前から歌舞伎の世界に飛び込み、歌舞伎の伝統、基本を護りながら、いかにして人を楽しませるか?
様々なアイデアを投じ、娯楽性も盛り込みながら、本公演を勤めながら、33回の自主公演を開催し、多く方を魅了しました。
 
歌舞伎のカタをしっかりと身につけ、上方歌舞伎では女形としての、「品」「匂い」を熟成させ、晩年は舞台に居るだけで、上方の匂いを醸すとまで言われました。
 
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残念ながら、僕は専門外で、これ以上その偉大さを語ることはできません。
 
しかし、お悔やみの言葉と共に届く「惜しい人をなくした」「もったいない、残念や」「もうこんな人出てけえへんなあ」などの言葉を聴くたびに、遺した印象の深さを痛感します。
 
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役者でしたので
最期は
「おつかれさまでした」
と囁いて、旅立ちを見送りました。
 
多くの先立った仲間たちと、あの笑顔(竹三郎スマイル)で芝居談義をし、踊り、演じていることでしょう。
 
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父の遺したカタチのないものを、しっかりと受け止め、自分なりにカタチを再構築していかねばなりません。
 
芝居と音楽、畑は違えど、通ずるものはあるはず。
 
この先の精進を誓います。