福江島から長崎市にもどり、長崎市観光を再開します。

 

まずは腹ごしらえからと四海樓という店に長崎名物のチャンポンを食べにいきました。四海樓は明治32年創業で、ここがチャンポンや皿うどん発祥の店とのこと。

 

 

 

 

ただし、私も女房も数えるほどしかチャンポンを食べたことがないため、このチャンポンのウマいマズいがよく分からず、無感想のまま店を出ました。

 

驚いたのはこの店の構えです。

 

広場の真ん中に店がズドンとそびえ立っており、近代的なビルではあっても要所要所には中国的な装飾が施されていて、いわば現代風の竜宮城といった感じです。

 

 

 

長崎といえばポルトガルやオランダといった西洋との窓口というイメージが強いのですが清との交易も続けており、唐人屋敷という地域に清国人を住まわせていました。

とはいってもキリスト教徒ではない清国人に対しては監視が緩く、何度かの唐人屋敷の火事をきっかけになし崩し的に雑居が認められ、明治後は長崎新地中華街に再集結していったようです。

 

 

 

 

その結果、長崎の街には西洋よりむしろ中国が多分に混じり込んでおり、朱色や龍のモチーフが長崎くんちや「ペーロン」と呼ばれるドラゴンボートなどにも使用され、独特の風情を醸し出しています。

 

 

出典:ながさき旅ネット

 

 

それに対して、横浜ではガラスで囲われているかのように中華街の中に中国が閉じ込められていて、長崎に比べると中国の影響が街全体に及んでいる割合が少ない気がします。

 

ちなみに「ちゃんぽん」という言葉は、「酒のちゃんぽん」と言うように「混ぜる」という中国語が華僑によって伝えられ、沖縄のチャンプルーやインドネシア語のナシチャンプル、朝鮮語のチャンポンハダなどに変化したとのこと。

 

話は脇道にそれますが、華僑という人々はモノや文化の伝播者として、あるいは政治の一主体者として世界各国に影響を与え続けており、その移動意欲や他国への浸透度、固有文化を守り続ける頑なさなどは他に比較するものがありません。

 

イスラエル建国前のユダヤ人やジプシーのような放浪者とも違い、小窓を開けていくかのように世界各国に小中華空間を作って定着する華僑のバイタリティーは私にはとても理解できません。

 

そういえば世界最大の中華街であるサンフランシスコの中華料理店で英語がまったく話せない店員と遭遇したことがあり、中国からの出稼ぎ者かと思いましたが、地元在住の同行者によると中華街で生まれて生涯英語を使わずに死んでいく人もいるとのこと。

 

本当に理解に苦しみますが、中国人は大昔から食べ物のある場所にぞろぞろと移動していく習性があり、「ただ食べ物のある場所に行って中国人として暮らしているだけだ」と言われれば、これ以上自然な生き方はないとも言えます。

 

その点、移動しようにも海に囲まれて動けない日本人とは行動原理の根本が違い、それが中国人とは何となく分かり合えない理由の一つなのかもしれません。

 

腹を満たした後は大浦天主堂に立ち寄ります。

 

大浦天主堂は、1864年(元治元年)に竣工した日本に現存する最古のキリスト教建築物(国宝)です。正確には日本二十六聖殉教者聖堂といい、その名のとおり日本二十六聖人に捧げられた教会堂とのこと。

 

 

 

平戸・佐世保・長崎市」でも触れましたが、江戸末期にこの大浦天主堂に浦上地区の隠れキリシタンが訪ねてきて信仰を打ち明け、神父が浦上や五島に周辺にいる隠れキリシタンの発見に努めたようですが、それが結局は幕府に知れ、かえって明治まで続く大弾圧のキッカケになってしまいます。

 

それほど由緒のある教会なわけですが、次に訪れるグラバー園も含めてこの周辺はガッツリとした観光地でもあり、観光客の増加に伴い、1975年に隣接地にカトリック大浦教会を建て、毎日のミサは大浦教会で行われているそうです。

 

建造物としては白を基調とした国宝にふさわしい荘厳かつ絢爛なもので、私には教会建築はまったく分かりませんが、「3本の塔を持つゴシック風の構造ながら壁面はバロック風、天井はリブ・ヴォールト天井」とのこと。

1879年(明治12年)に大規模な増改築を行ったそうで、その前の外壁は何と和風のなまこ壁という特殊なデザインだったようです。

どうせならそれが見たかった・・・

 

敷地内には古くから伝わる多くの像や旧神学校、博物館などの見どころも多く、揃いのブレザーを着たボランティアガイドの方々が修学旅行の小グループの生徒を案内されていました。

 

 

 

 

大浦天主堂を出て、隣接するグラバー園に移動します。

 

グラバー園はありのままの歴史遺産というよりは博物館に近く、元は幕末に来日したイギリス商人グラバーの邸宅だったものを三菱造船所のクラブ、進駐軍司令官公舎を経て長崎市が取得し、造成の上で近隣の同じような外国人邸宅を併合したり、市内の邸宅を移築したりして時間をかけて長崎を象徴する観光施設に仕上げていったようです。

 

 

 

 

 

 

この時期はグラバー本邸が修理中で見れなかったのですが、園内のオシャレでクラシックな喫茶店で優雅な時を過ごしました。

 

 

 

 

 

 

キャンピングカーでの犬連れ旅行は生活維持と観光に追われるあわただしいものですので、このような時間はありがたく、心のスキマを満たしてくれます。

 

日が変わって、昼飯に長崎新地中華街の西湖というド派手な外観の店でチャーハンや春巻きをおいしくいただいたあと、出島に向かいます。

 

 

 

 

出島とは、江戸期の鎖国政策の中、唯一オランダ商人と交易するために長崎港に作られた扇形の人工島で、原則としてオランダ商人は出島の中だけで暮らしていました。

 

初めはポルトガル商人のために作られましたが、後にオランダがポルトガルやイギリスに貿易競争に競り勝って幕府に唯一の貿易国として認められたとのこと。この経緯は複雑ですので割愛しますが、オランダがキリスト教の布教禁止と武装放棄という条件を飲んだことが決定打になったようです。

 

出島の面積は東京ドームの1/3程度の約4,000坪ほどであり、私のような出不精な人間には広すぎるくらいですが、活発な人が「ここから出てはいけない」と言われればやはり監獄でしょう。

 

 

 


ただし、いったいどういう線引きかは分かりませんが、シーボルトなど特定の人物は出島の外を出歩けたようです。

ちなみにシーボルトは出島外に医学塾まで開き、日本人女性との間に娘をもうけますが、帰国の際に禁制の日本地図などを持ち出そうとしたことがばれ、国外追放となります。

 

この人工島にどのくらいの人が住んでいたかは季節によるようです。

オランダ船は毎年7 - 8月ごろに2隻が入港し、その年の11 - 12月に出港にするまでの約4ヶ月間滞在していたようですので、その間は100人に満たないくらいの外国人がここで暮らしていたのではないでしょうか。

しかし、それ以外の時期はカピタン(商館長)をはじめとする15人くらいだけが常駐し、その他に日本人の管理者や通訳、事務員、料理人、船番、番人などの100人くらいが出入りしていたようです。

 

 

 

 

そういえば以前に出島に行ったときには教科書で見た人工島は影も形もなく、バスの上からガイドさんが何の変哲もない市街地の一区画を指して「ここら辺が出島です」と言い、「え?どこが出島ですか?」と聞き返した覚えがあります。

それ以上はなすすべもなく、「あそこら辺が出島だったらしい」というだけの観光にガックリした覚えがあります。

 

明治以降、長崎港がどんどん埋め立てられ、出島も陸地に飲み込まれてしまいます。大正11年には出島はすべて民有地となり、住宅や商店が立ち並んで人工島は完全に消滅してしまったとのこと。

しかし、戦後にオランダからの強い働き掛けもあって出島の復元計画がスタートし、長崎市が民有地を収用して当時の構造や建物を現在も復元している最中のようです。

 

 

 

 

今回は水辺まで復元されて出島の形がはっきりと分かるようになり、それどころか出島の中にはすでにいくつもの建物が再現され、当時の出島の雰囲気を十分に堪能することができました。

 

それにしても日本とオランダの関係は複雑です。

 

日本とオランダの付き合いが始まったのは、1600年に大分県に漂着したオランダ人、ヤン・ヨーステンが徳川家康に拝謁した時からであり、家康に気に入られて江戸城近くに家を買い、日本人と結婚したとのこと。その居住地が彼の名前からとった現在の「八重洲」であり、東京駅の八重洲地下街にはヤン・ヨーステンの像が立っています。

 

 

カピタン(商館長)の住居

 

 

それから明治維新までの260年間に渡って日本と交易を行うだけでなく、「オランダ風説書(ふうせつがき)」という幕府に提出する書物を通して世界情勢を日本に伝え、また蘭学を通して近代文明の基礎をもたらし、間接的とはいえ明治以降の日本の近代化に大きな影響を与えたことは間違いありません。

 

オランダにとっても、1810年に本国がフランスに占領され、1815年にネーデルランド王国が成立するまでの5年間は日本の中にしかオランダがなかったり、資料が見つからないので正確には忘れましたが、一時は国家予算の何分の一かを日蘭貿易に頼っていました。

 

 

 


いわば持ちつ持たれつの関係が数百年も続いたわけですが、第二次世界大戦前には一転して角を突き合わせます。

 

開戦のキッカケになったABCD包囲網のDはオランダであり、日本に宣戦布告し、直後にオランダ領インドネシアを日本軍に占領されています。最終的に戦勝国となったオランダは秋田の八郎潟の干拓事業に不要な技術輸出をねじ込んできたり、現在に至っても反日感情が根強く残っています。

 

やはり国際政治は弱肉強食、昨日の友は今日の敵なのでしょう。

 

 

 

 

そもそもオランダという国はチューリップや風車の牧歌的なイメージとは裏腹に変に負けん気が強く、小国の知恵なのか差別化戦略を駆使するところがあります。

例えば昔から移民をドンドン受け入れたり、カトリックに反発してみたり、東インド会社を作ったり、現代では大麻使用や安楽死や管理売春が認められていたり。

最近でもオランダのASML社が半導体露光装置の85%のシェアを持っており、どの国もオランダ抜きに先端半導体を作ることはできません。

 

そう考えるとポルトガルやイギリスを制して江戸期の貿易利権を勝ち取ったのも、その後一転して日本と角を突き合わせたのも何か自然に思えてきます。

 

さて、今回は行っていませんが、亀山社中にも少し触れておきたいと思います。

 

どこに行っても大人気の坂本龍馬は長崎にも足跡を残しています。

長崎郊外の小高い丘の中腹にある亀山社中は坂本龍馬が結成した団体で、一言で言えば他藩船の回航業者ですが、商社や私設海軍も兼ね、資本を外部調達した日本初の株式会社であるとも言われ、また土佐藩の海援隊の前身にもなったとも言われています。その流れから、現在でも海上自衛隊においては坂本龍馬を海軍設立の功労者の一人として扱っているそうです。

 

が、これらのほとんどは裏付けがなく、亀山社中の実態はよく分かっていません。

 

坂本龍馬については高知の稿で詳しく書こうと思っていますが、私の印象では思想的で過激な他の志士とは違ってそもそも政治に興味がなく、維新前夜に突然開いた小窓から海の向こうの新世界を見つめ、「いいなぁー、オレもあーしたいなぁー」とワクワクしながら夢想していた子供のような人であり、子供ゆえに政治とは関係なく無邪気にそれを実現しようとしていただけなのではないかという気がします。

 

その行動がたまたま維新活動とベクトルがピッタリ合ってしまったために、不本意ながら維新の先導者の一人に祀り上げられただけなのではないかと思っています。

 

その龍馬が小窓のある長崎に拠点を持つことはごく自然なことであり、亀山社中の機能がどうあれそれは二次的なものに過ぎないと感じます。

 

やはり江戸期の長崎の特別感は、現在とは比較にならないほど大きかったに違いありません。

 

ちなみに前回長崎に行ったときには亀山社中に登り、階段の途中にいかにも観光客ウケしそうな龍馬のブーツの銅像などがありましたが、あまりの階段の長さに亀山社中なんてどうでもよくなり、結局ブーツ以外は何の記憶も残っていません。

 

長崎県最後の訪問地として稲佐山に登りました。

 

長崎はそれぞれの施設も魅力的ですが、長崎港を中心とする景観が実に味わい深いものがあります。

 

長崎港は小半島や島々に守られた入り江のさらに奥にあり、どの角度から高波が押し寄せても港を直撃しない天然の良港です。港はそれほど広くない市街地に縁どられ、その背後にはどの方向からも山が迫っており、それだけでも変化に富んだダイナミックな景観を形成していますが、さらに造船所の赤いクレーンが随所に立ち並んでアクセントになっており、美しいというよりいつまでも見飽きない複雑さや面白さを持っています。

 

そんな長崎港を一望に見渡せるのが、長崎市西方にある標高333mの稲佐山です。

 

 

稲佐山山頂から長崎港を見下ろす

 

 

稲佐山はよく整備されていて、自動車でもロープウェイでもスロープカーでも山頂に行くことができ、8合目には公園や動物園、野外ステージなどもあります。

 

山頂にはテレビやラジオの電波塔と並んでガラス張り3階建ての今風の展望台が設けられており、その周りもちょっとした公園のようになっていてとても気持ちのいい場所です。

どちらかというと稲佐山は夜景スポットのようですが、日中の眺めも噂にたがわず素晴らしいものでした。

 

 

 

 

一通り景色を見終わってもこの居心地のいい山頂を離れがたく、CRUISEの中でどっかで買ったカステラを食ったり昼寝をして過ごし、気づいたら長居をしていました。


これで長かった長崎県は終わりですが、一つだけ心残りがあります。

 

私が今回一番楽しみにしていたのが初めての軍艦島だったのですが、船を予約した日に腹にできたオデキが突然腫れ、コロナ禍でどの病院でもよそ者は門前払いをくらい、やっと診てもらえる医院にたどり着いたら一日が終わっていました。

 

残念ですが、気持ちを切り替えて熊本に向かいます。

 

つづく