日本一周旅行は長崎県に差し掛かります。

 

長崎県は地形が複雑ですので行った順というより分かりやすい順で書こうと思っていますが、長崎はとにかく観光資源が多く、うまく整理がつきませんので、まずは総評を申し上げたいと思います。

 

キャンピングカーという乗り物の利点はたくさんありますが、キャンピングカーを停められる駐車場が少ない都市部では途端にお荷物になります。

 

特に長崎県の都市部ほどキャンピングカーで観光しづらい場所はありません。

 

長崎県は平野部が小さいために土地が狭く、駐車場が少ない上にキャンピングカーを停められる平置き駐車場がなかなか見つかりません。あったとしても狭すぎて中で身動きが取れなくなったり、ゲート部分の屋根が低くて入れなかったりで、堂々と環境のいい車中泊場所は見つからず、一クセ二クセある駐車場に何とか停め、四苦八苦しながらの観光になりました。

 

 

やっと見つけた遊休地利用の駐車場。ゲートの軒が低く、その横を数センチですり抜けて入ります。

トイレは150mほど離れた公園まで借りに行きます。

 

 

スーパーもやはり平置きが少ないために郊外の大型スーパーまでわざわざ買い物に行くなどの工夫が必要です。

 

しかし、その苦労を補って余りあるほど長崎はステキな場所でした。

 

現在はすでに日本一周旅行を終えていますので、都道府県別に観光ランクを勝手につけるとすれば、一位は都市も自然も歴史も文化もすべての要素を持っている神奈川県、そして二位がここ長崎県なのではないかと思っています。

 

長崎県の一番の特徴はやはり「異国情緒」でしょう。

と言っても、同じ異国情緒を持つ横浜や神戸とは本質的に違います。

 

横浜や神戸の異国情緒の根は明治期の文明開化であり、キラびやかで希望に満ち、西洋へのあこがれや艶気とセットになっています。現在の横浜なんかは「おしゃれな異国情緒のテーマパーク」と言っても過言ではないでしょう。

 

それに比べ、長崎の異国情緒は文明開化よりずっと以前に不本意ながら入ってきてしまった西洋が仕方なく融合し、眉をひそめられながら文化として固着してしまった感じがあります。そこにはあこがれやおしゃれさではなく、躊躇や困惑、苦悩、恐れ、抵抗というような負の感情が少なからず練りこまれ、中世史の重要な一ピースを構成しています。

 

色彩も夜景にキラキラ光る横浜と違って、古い油絵のようなマットで少し暗いトーンのイメージです。

 

しかし、その独特な色調に魅せられる人は多く、女房は長崎のとりこになりましたし、ある知人は引退後に縁もゆかりもない長崎に引っ越してしまいました。私はそこまでではありませんが、それでも長崎の魅力が圧倒的であることは間違いありません。

 

まずは伊万里市から海沿いをめぐり、平戸に向かいます。

 

 

平戸の城下町

 

 

鏡山、名護屋城跡、大川内山」で少し触れましたが、ここら辺一帯は松浦(まつら)氏が支配した地ですのでとりあえず松浦史料博物館によりました。

 

残念ながらコロナで松浦史料博物館は休館でしたが、どっちにしろいいことしか書かれてないと思いますので私の方で解説すると、松浦氏とは嵯峨源氏を祖としているということになっていますが、簡単には鵜呑みにできません。

 

話はいきなり横道にそれますが、現在の日本の家系で「〇〇天皇につながる」というのは99.9%ウソです。

 

現在の我々の名前は「姓」と「名」で構成されていますが、前時代の支配層の名前には「氏(うじ)」や「姓(かばね)」という要素があり、とにかく官職につく人は「源平藤橘」つまり「源氏」、「平氏」、「藤原氏」、「橘氏」のどれか(であるはずだ?、でなければいけない?)ということになっています。

 

この源平藤橘の各氏は天皇家の後裔か古代からの密接な縁戚関係にあり、逆説的に源平藤橘を名乗ることで天皇家の親戚になれるのです。

 

そこで官職を得るにあたって織田信長は「平」を名乗って「平朝臣(あそん)信長」となり、徳川家康は「源」を選んで「源朝臣家康」となって法制上は天皇家の後裔になりました。豊臣秀吉はすでに出自が知れ渡っていたからなのか、「豊臣氏」を朝廷にごり押しして源平藤橘に加えることに成功しましたが、滅亡とともに豊臣という氏は消えました。

 

 

松浦資料博物館の入り口(コロナで入れず)

 

 

また下級武士や庶民においては江戸時代に3度ほど家系図を幕府に提出せよ、という命が下り、手がかりのない人は家系図作成屋、というより家系図捏造屋に依頼し、田舎の人は物知りの庄屋さんか寺の住職にでも頼んで、それはそれはいい加減な家系図を全国規模で作り上げたのです。

 

残念ながら、これらのことによってほとんどの人のルーツは分からなくなってしまいました。

今でも「オレは〇〇の末裔だ」と自慢をする人がいますが、先祖伝来の物証がない限りは先祖がついたウソだと思っていいでしょう。

 

松浦氏に戻ります。

 

大筋で言えば、松浦氏はおそらく有史以前の海人族が起源で、その後は大陸沿岸を荒らしまわる倭寇(海賊)として恐れられ、戦国期には水軍となり、江戸期には平戸藩主を務め、明治後は伯爵に叙された古い氏族です。

 

魏志倭人伝には「末盧國(まつろこく/まつらこく)」の記述がありますので、もし「末盧」が「松浦」であったとすれば、天皇家と匹敵する、あるいはそれ以上の日本一古い家系かもしれません。

 

ただし、松浦氏は一族が栄えてかなりの分派があるため全体としての構成はよく分からず、上記の説明が一本道とは言えないのかもしれません。

 

しかし、そうだとしても源平合戦や関ケ原、明治維新を乗り越えて現在まで家名を続かせているのは奇跡と言ってもよく、その理由の一つは古くからの根拠地があったことと、航海という特殊技能を持っていたために機動力に勝り、また海人族特有の柔軟性や世界観の広さ、機を見るに敏な特性が助けになったのではないかと妄想しています。

 

平戸から九州の北西端にある生月(いきつき)島に橋で渡り、その最北端にある大バエ灯台を目指します。

 

 

生月橋

 

 

大バエ灯台は展望デッキのある珍しい灯台で、細長い岬の先にあることから360度パノラマの風景を見ることができ、今回はコロナ禍で誰もいませんでしたが、普段は映えスポットとして賑わっているようです。

 

 

 

 

灯台にくくり付けられるすみれ

 

 

「大バエ」という名はやっぱりバえるから?と思いがちですが、調べてみると正式名称は「大碆鼻(おおばえはな)灯台」というそうです。「碆」は矢じりのことで「鼻」は岬を指しますので、「とがった岬の先の灯台」という意外にそのまんまの名前です。

 

平戸市に戻って南下すると佐世保市に至ります。

 

佐世保は戦前からの造船・軍港の街であり、現在も海上自衛隊と在日米海軍が駐留していますが、最近は佐世保と言えばジャパネットたかたかハウステンボスでしょう。

 

ジャパネットたかたはいいとして、ハウステンボスとはオランダの街をそっくりそのまま持ってきた日本一広いテーマパークです。とは言え、経営は相当に苦しいようで、持ち主が何度も変わったあげく、現在は香港の投資会社の持ち物になっています。

 

せっかくですのでハウステンボスに寄ろうとも思いましたが、私は歩くことが何よりも嫌いですので日本一広いと聞いただけでお腹が痛くなり、今回はハウステンボスなんて存在しなかったことにしました。

 

代わりに、ラストサムライのロケ地にもなった石岳展望台園地に向かいます。

 

小高い丘の中腹にクルマを停め、気持ちのいい森の小道を少し歩くと石岳展望台園地があり、ここからは眼下に九十九島が一望できます。九十九島とはリアス式海岸の群島で、正確には208島あるそうです。ここからの風景は何とも長崎っぽく、「長崎に来たなー!!」という感じになります。

 

 

石岳展望台園地から九十九島を見下ろす

 

 

石岳展望台園地を出ると、ちょうど昼時ですので、ご当地グルメである佐世保バーガーを食べに行きます。

 

知らなかったのですが、佐世保バーガーとは特定のハンバーガーや店を指すのではなく、佐世保市内にある手作りのハンバーガーの総称だそうです。あれ? 東京にも佐世保バーガーの店があるけど、それって・・・

 

となると、どこの店に行くか迷いますが、その名も佐世保バーガー本店という店に入りました。

この店はやはり九十九島を見下ろす斜面に建っていますので眺めのいいオープンテラスや屋根付きテラス席があり、もし近所にこんな店があったら毎日何時間も過ごしてしまいそうです。

 

 

佐世保バーガー本店

 

 

佐世保バーガーは元は米軍関係者からレシピを教わったそうですので、店の内装は全体にアメリカンでハンバーガーもとてもおいしかったです。

 

 

 

 

ハンバーガーはドイツが発祥ですが、世界に広めたのはアメリカであり、ホットドッグやクラムチャウダーとともに私は勝手にアメリカの3大料理に認定しています。ただし、アメリカ人はハンバーガーをカチカチに焼きますので大してうまくなく、私は日本の柔らかいハンバーガーが好きです。

 

そういえば、イギリス人もフィッシュアンドチップスを石膏で固めたようにカチカチになるまで揚げますが、カチカチにしないと死んでしまう病気とかにかかっているのでしょうか・・・

 

佐世保からさらに南下して長崎市に入ります。

 

私は長崎市には何度か来ていますが、女房は初めてですので割とベタな観光地を巡ります。

 

まずは浦上天主堂へ。

 

浦上天主堂は正式名をカトリック浦上教会と言い、長崎大司教区の司教座聖堂、つまりカトリックの制度における長崎の頂点に立つ日本最大規模のカトリック教会です。

 

江戸末期に西洋人が来日してキリスト教会を建てはじめ、ここより少し南にある大浦天主堂に隠れキリシタンが信仰を打ち明けに来たことから隠れキリシタンの存在が明らかとなり、後に幕府にも知れることになります。

 

この時期は時代の端境期である上に外国からの働きかけなどもあり、禁教が解かれるのではないか、という淡い期待とそれに伴う気の緩みが信者側にあったのではないでしょうか。

 

ところが事はそううまく運ばず、信仰を許されるどころか再弾圧のキッカケとなって多くの信者が拷問を受け、流刑となりました。ちなみに「有福温泉、津和野」で述べた津和野の流刑者はここ浦上から来ました。

この弾圧は明治になっても続き、それどころか江戸時代よりもさらに過酷になり、多くの信者が殉教したそうです。

 

やっと禁教が解け、各地に配流された信者が戻って建てたのが、この浦上天主堂ということです。

 

 

 

 

先の大戦では浦上天主堂は原爆の爆心地から近かったため跡形もなく吹っ飛び、現在の建物は再建されたものです。

 

中の写真撮影は禁止でしたが、広い教会の前後には巨大な十字架とパイプオルガンが置かれ、特にステンドグラスと屋根の形が美しく、司教座聖堂としての荘厳さを感じさせるものでした。

 

次に平和公園に向かいます。

 

第二次世界大戦末期の1945年8月9日に米軍によって長崎市に原爆が落とされました。

それによって長崎市の人口の1/3が亡くなり、建物も1/3が全半壊しました。

 

この平和公園は恒久平和への願いと犠牲者の供養のために作られた公園で、有名な平和祈念像が鎮座しています。

 

 

 

 

平和祈念像の前の献花台には多くの花が手向けられ、参道に当たる像の建つ広場に続く回廊の両側には、やはり平和を願う小ぶり(といっても大きいですが)の像が何体も並んでいました。

 

 

 

 

詳しくは忘れましたが、これらの像は様々な外国政府から贈られたものだったと記憶しています。

 

原爆の話は広島の稿でジックリしたいと思いますが、この平和公園で驚いたのが駐車場です。

 

地下には巨大な駐車場があり、天井高も十分にありますので、なんと高さ3mのキャンピングカーも楽勝で駐車できるのです。

CRUISEで屋内駐車場に入ったのは初めてかもしれず、おまけにエレベーターに乗ると平和祈念像の真横にストンと出て再び驚きます。

 

 

 

 

この公園の背景にある原爆の悲惨さを考えると、快適に観光することがかえって申し訳なくも感じてしまいました。

 

この日は早めに車中泊場所にクルマを停め、大通りを少し歩いてみると歴史建造物風の建物が突然現れました。入ってみるとこの建物は旧香港上海銀行長崎支店とのこと。

 

 

 

 

1904年に竣工したイギリスの銀行のようで、長崎市内の石造り洋館として最大の規模を持ち、その後長崎市が買収し、国の重要文化財にも指定されています。

現在は記念館として観光施設や多目的ホールになっているようですが、内装はほぼ当時のままであり、内外装ともに私好みのとてもステキな建物でした。

 

 

 

 

他の地域であればこの建物は地域第一の名所になるはずですが、そんなものが何の予告もなく道端に転がっているあたり、長崎の観光資源の豊富さを遠回しに物語っているようでした。

 

旅はここでいったん五島列島の福江島に渡り、福江島から戻ってから長崎市の残りを巡ります。

 

福江島は弾圧を逃れようと多くの隠れキリシタンが渡った島であり、現在でも隠れキリシタンの方がいるそうです。

 

つづく