अल्पे महित वा शब्दे स्फोटकालो न भिद्यते ।
परस्तु शब्दसन्तानः प्रचयापचयात्मकः ॥१०३॥
〔ドゥヴァニ(音声)として顕現する〕シャブダが大小いずれであっても、スポータ・カーラは分割されることがない。しかしながら〔スポータ・カーラ以外の〕残余のシャブダの連続が、増減の性質を有する。(103)
दूरात्प्रभेव दीयस्य ध्वनिमात्रं तु लक्ष्यते ।
घण्टादीनां च शब्देषु व्यक्तो भेदः स दृश्यते ॥१०४॥
遠くからの灯明の光の如く、ドゥヴァニ(音声)だけが知覚されるとしても、諸々のシャブダに関して、まさに諸々の鐘などの有する、その明白な区分(増減するナーダ(音)とスポータ)が認められる。(104)
द्रव्याभिघातात्प्रचितौ भिन्नौ दीर्घप्लुतावपि ।
कम्पे तूपरते जाता नादा वृत्तेर्विशेषकाः ॥१०५॥
実体が衝突されることによって、延長された、ディールガ(長母音)・プールタ(重長母音)の両者が区分されるも、しかるに震動の減衰する際には、諸々のナーダ(音)に、ヴリッティ(ドゥルタなど)の差別が生じる。(105)
अनवस्थितकम्पेऽपि करणे ध्वनयोऽपरे।
स्फोटादेवोपजायन्ते ज्वाला ज्वालान्तरादिव ॥१०६॥
器官において、震動の止まらざる場合においても、諸々の後続のドゥヴァニ(音声)が、まさにスポータから、近くの炎より出ずる炎の如くに、生まれる。(106)
वायोरणूनां ज्ञानस्य शब्दत्वापत्तिरिष्यते ।
कैश्चिद्दर्शनभेदो हि प्रवादेष्वनवस्थितः ॥१०७॥
ある者たちにより、ヴァーユ(息)、諸々のアヌ(原子)、ジュニャーナ(認識)の、シャブダ性への変移が認められる。何となれば、論争において見解の相違は、止まるところがないから。(107)
लब्दक्रियः प्रयत्नेन व्क्तुरिच्छानुवर्तिना ।
स्थानेष्वभिहतो वायुः शब्दत्वं प्रतिपद्यते ॥१०८॥
〔ヴァーユを原因とする者達は、〕話者の意欲に従う注力によって、動勢を得たヴァーユ(息)が、部位に打たれて、シャブダ性を獲得し、(108)
तस्य कारणसामर्थ्याद्वेगप्रचयधर्मणः ।
सन्निपाताद्विभज्यन्ते सारवत्योऽपि मूर्तयः ॥१०९॥
かかる原因に即して、速度を増す諸々の性質があり、衝撃に従い、同様に諸々の有核有形のものに分割される〔と語る〕。(109)
अणवः सर्वशक्तित्वाद्भेदसंसर्गवृत्तयः ।
छायातपतमःशब्दभावेन परिणामिनः ॥११०॥
〔アヌ(原子)を原因とする者達は、〕諸々のアヌ(原子)は、あらゆるシャクティ性に従い、分離し、連結する種々の働きがあり、チャーヤー(影像)・アータパ(熱光)・タマス(闇)・シャブダとなって、様々に変化し、(110)
[cf.शब्दबन्धसौक्ष्यस्थौल्यसंस्थानभेदतमश्छायातपोद्योतवन्तश्च ॥५.२४॥ (音声・結合・微細・粗大・形・区別・闇・影像・熱光・冷光を有するものとが〔、プトガラ(物質)の状態である〕。) ジャイナ教教義綱要書『तत्त्वार्थसूत्र』(2世紀~5世紀)]
स्वशक्तौ व्यज्यमानायां प्रयत्नेन समीरिताः ।
अभ्राणीव प्रचीयन्ते शब्दाख्याः परमाणवः ॥१११॥
自己のシャクティの発顕されつつある時に、注力によって発出された、シャブダと名付けられた諸々のものは、雲集するかの如き、パラマーヌ(微小原子)である〔と語る〕。(111)
अथायमान्तरो ज्ञाता सूक्ष्मे वागात्मनि स्थितः ।
व्यक्तये स्वस्य रूपस्य शब्दत्वेन विवर्तते ॥११२॥
しかれば、〔ジュニャーナを原因とする者達のとある説において、〕この内的な認識者は、微細な言語本体において確立し、ヴャクティ(個体化)の為に、スヴァ・ルーパ(自らの形姿)のシャブダ性によって展開する。(112)
स मनोभावमापद्य तेजसा पाकमागतः ।
वायुमाविशति प्राणमथासौ समुदीर्यते ॥११३॥
それは、テージャス(火)により焼成され、マナス(意)からなるものに達し、プラーナ(生気)であるヴァーユ(息)へと進入する。かくて、かの言挙げがなされる。(113)
अन्तःकरणतत्त्वस्य वायुराश्रिपतां गतः ।
तद्धर्मेण समाविष्टस्तेजसैव विवर्तते ॥११४॥
ヴァーユ (息)は、諸々の内的器官の原理に従属しつつあるものによって進み、その性質を具備して、まさにテージャス(火)によって展開する。(114)
विभजन्स्वात्मनो ग्रान्थञ्छ्रुतिरूपैः पृथग्विधैः ।
प्राणो वर्णानभिव्यज्य वर्णेष्वेवापलीयते ॥११५॥
種々様々なシュルティ(聴聞されるもの)の姿によって、自己自身との結び目を割り当てながら、プラーナは、諸々のヴァルナ(音節)を顕示して、まさに諸々のヴァルナ(音節)に結着する〔と語られる〕。(115)
अजस्रवृत्तिर्यः शब्दः सूक्षमत्वान्नोपलभ्यते ॥
व्यजनाद्वायुरिव स स्वनिमित्तात्प्रचीयते ॥११६॥
〔別の説では、〕尽きるざる働きである、シャブダは、微細性の故に感得されない。扇によるヴァーユ(風)の如く、それは自らのニミッタ(生成因)によって、聚合される〔と言われる〕。(116)
तस्य प्राणे च या शक्तिर्या च बुद्धौ व्यवस्थिता ।
विवर्तमाना स्थानेषु सौषा भेदं प्रपद्यते ॥११७॥
その(シャブダの)シャクティは、プラーナにおいても、ブッディにおいても配置され、それが諸々の部位に展開しつつ、これが区分を得る。(117)
शब्देष्वेवाश्रिता शक्तिर्विश्वस्यास्य निबन्धनी ।
यन्नेत्रः प्रतिभात्मायं भेदरूपः प्रतीयते ॥११८॥
まさに諸々のシャブダに依拠したシャクティは、この世界の基盤であり、その眼から、プラティバー(先験的構想力)を本体とする、この区分の姿が明瞭となる。(118)
षड्जादिभेदः शब्देन व्याख्यातो रूप्यते यतः ।
तस्मादर्थविधाः सर्वाः शब्दमात्रासु निश्रिताः ॥११९॥
シャドジャ(インドの七楽音サ・リ・ガ・マ・パ・ダ・ニの第一音のサ音)などの区分は、シャブダによって説明され、形を与えられるのであるからして、それ故、あらゆる種類のアルタは、シャブダのみに立脚する。(119)
शब्दस्य परिणामोऽयमित्याम्नायविदो विदुः ।
छन्दोभ्य एव प्रथमेतद्विश्व व्यवर्तत ॥१२०॥
諸々のチャンダス(ヴェーダ)のみによって、最初にこの世界は展開された。これはシャブダのパリナーマ(転変)であると伝承を知る者達は知る。(120)
इतिकर्तव्यता लोके सर्वा शब्दव्यपाश्रया ।
यां पूर्वाहितसंस्कारो बालोऽपि प्रतिपद्यते ॥१२१॥
世において、全てのかくなすべしということがらは、シャブダに依存する。嬰児でさえも、宿世に据えられたサンスカーラ(印銘)が、それを受け入れるように。(121)
आद्यः करणविन्यासः प्राणस्योर्ध्वं समीरणम् ।
स्थानानामभिघातश्च न विना शब्दभावनाम् ॥१२२॥
最初の器官運動、プラーナ(息)の上方への始動、そして諸々の部位への衝突は、シャブダ・バーヴァナー(シャブダの素質)なしには存しない。(122)
न सोऽस्ति प्रत्ययो लोके यः शब्दागमादृते ।
अनुविद्धमिव ज्ञानं सर्वं शब्देन भासते ॥१२३॥
世において、シャブダに従わざる、かかる観念はなく、全ての認識は、遍満するが如き、シャブダによって明らかとなる。(123)
वाग्रूपता चेदुत्क्रामेदवबोधस्य शाश्वती ।
न प्रकाशः प्रकाशेत सा हि प्रत्यवमर्शिनी ॥१२४॥
覚知の後に、もし一定のヴァーグ・ルーパター(言語形成体)が思い浮かばぬならば、光明が照射することはないだろう。何となれば、それこそが把持するものであるから。(124)
सा सर्वविद्याशिल्पानां कलानां चोपबन्धनी ।
तद्विशादभिनिष्पन्नं सर्वं वस्तु विभज्यते ॥१२५॥
それ(言語形成体)は、全ての学術、芸術、そして技術の紐帯であり、その権能に従い、生起した全ての事物は分割される。(125)
सैषा संसारिणां संज्ञा बहिरन्तश्च वर्तते ।
तन्मात्रामव्यतिक्रान्तं चैतन्यं सर्वजातिषु ॥१२६॥
それ(言語形成体)が、この種々の輪廻する者の外なる、そして内なるサンジュニャー(意識)であり、全てのジャーティ(種)における、チャイタニヤ(精神原理)は、〔言語形成の〕その僅かなものも超過することがない。(126)
प्रविवागे यथा कर्ता तया कार्ये प्रवर्तते ।
अविवागे तथा सैव कार्यत्वेनावतिष्ठते ॥१२७॥
分節化における行為者は、それ(言語形成体)によって、結果へと向かうが、他方で、未分節におけるそれ(言語形成体)は、ただ結果性に留まる。(127)
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स्वमात्रा परमात्रा वा श्रुत्या प्रक्रम्यते यथा ।
तथैव रूढतामेति तया ह्यर्थो विधीयते ॥१२८॥
〔唯識論者の如く〕自己を単位とするものが、ないしは〔ヴェーダーンタ論者の如く〕最高のものを単位とするものが、シュルティ(聴聞されるもの)によって進展し、まさにそのようにして慣習へと至る。何となれば、それ(言語形成体)によってアルタが充当されるから。(128)
अत्यन्तमतथाभुते निमित्ते श्रुत्युपाश्रयात् ।
दृश्यते ऽलातेचक्रादौ वस्त्वाकारनिरूपणा ॥१२९॥
ニミッタ(生成因)において畢竟そのように在るものではないにも関わらず、シュルティ(聴聞されるもの)の支持するものの故に、旋火輪などにおける、事物のアーカーラ(形相)の確定が認められる。(129)
अपि प्रयोक्तुरात्मानं शब्दमन्तरवस्थितं ।
प्राहुर्महान्तमृषभं येन सायुज्यमिष्यते ॥१३०॥
かくて語る者のアートマンは、シャブダであり、内に安住し、その者との親密な結合が欲せられる、マハーンタ・リシャバ(偉大なる雄牛)と言われる。(130)
तस्माद्यः शब्दसंस्कारः सा सिद्धिः परमात्मनः ।
तस्य प्रवृत्तितत्त्वज्ञस्तद्ब्रह्मामृतमश्नुते ॥१३१॥
それに従って、シャブダ・サンスカーラ(シャブダの浄め)があり、パラマートマンの成就がある。その産出の本質を知る者は、かの不死のブラマンに達する。(131)
न जात्वकर्तृकं कश्चिदागमं प्रतिविद्यते ।
बीजं सर्वागमपायं त्रय्येवातो व्यवस्थिता ॥१३२॥
何人も、未だ嘗て無作者のアーガマを受け入れるようなことはなく、全てのアーガマの終焉の時には、ビージャ(種子)が、ただ三つ組(三ヴェーダ)によってのみ、これ以降、存続する。(132)
अस्तं पातेषु वादेषु कर्तृष्वन्येष्वसत्स्वपि ।
श्रुतिस्मृतयुदतिं कर्म लोको न व्यतिवत्तते ॥१३३॥
種々の言説が滅し去り、諸々の作者が他に存せずとも、世の行いは、シュルティとスムリティによって宣言されたものを、越え出ることがない。(133)
ज्ञाने स्वाभाविके नार्थ शास्त्रैः कश्चन विद्यते ।
धर्मो ज्ञानस्य हेतश्चेत्तस्याम्नायो निबन्धनम् ॥१३५॥
知識が生得的であるならば、諸々のシャーストラによるところの、いかなるアルタ(意義)も存することがなく、もしダルマが知識の因であるならば、アームナーヤ(ヴェーダの伝承)がその基である。(134)
वेदशास्त्राविरोधी च तर्कश्चक्षुरपश्यताम् ।
रूपमात्राद्धि वाक्यार्थः केवलान्नावतिष्ठते ॥१३५॥
そして、ヴェーダとシャーストラに抵触せざるタルカ(論証)は、盲人どもの眼である。何となれば、単なるルーパだけからは、ヴァーキヤ(文)のアルタ(意味)が引き離せないから。(135)
सतोऽविवक्षा पारार्थ्यं व्यक्तिरर्थस्य लैङ्गिकी ।
इति न्यायो बहुविधस्तर्केण प्रभिवज्यते ॥१३६॥
〔文中に〕あっても言わんとせざるもの、他を含意するもの、リンガ(指示)に付随しアルタ(意味)の現れるものといったニヤーヤ(論理的範型)は、タルカ(論証)により、多くの種類に分かたれる。(136)
शब्दानामेव सा शक्तिसतर्को यः पुरुषाश्रयः ।
स शब्दानुगतो न्यायोऽनागमेष्वनिबन्धनः ॥१३७॥
まさに諸々のシャブダにとり、人に依存するタルカ(論証)は、そのシャクティ(力)とはなれども、諸々のアーガマなきところでのかのニヤーヤ(論理)は、シャブダに追従したところで基盤とはならない。(137)
रूपादयो यथा दृष्टाः प्रत्यर्थं यतशक्तयः ।
शब्दास्तथैव दृश्यन्ते विषापहरणादिषु ॥१३८॥
諸々のルーパ(形姿)などは、アルタ(対象)毎に、種々の特化されたシャクティが観察されるのと同様に、諸々のシャブダは、解毒などに関して、まさにそのようなことが見られる。(138)
यथैषां तत्र सामर्थ्यं धर्मेऽप्येवं प्रतीयतम् ।
साधूनां साधुभिस्तस्माद्वाच्यमभ्युदयार्थिनाम् ॥१३९॥
かかる〔解毒の〕有効性が、その場合にあるように、ダルマにおいても、こうしたそれぞれに特化されたものがあり、それ故、繁栄を望む正統なる者達は、諸々の正統なものを通して語るべきなのである。(139)
सर्वोऽदृष्टफलानर्थानागमात्प्रतिपद्यते ।
विपरीतं च सर्त्र शक्यते वक्तुमागमे ॥१४०॥
あらゆる者達は、見えざる種々の結果として諸々のアルタを、アーガマに従い受け入れる。かくて、あらゆる場面にあって、反対のことがアーガマにおいては語りうる〔という批判がなされる〕。(140)
साधुत्वज्ञानविषया सैषा व्याकरणस्मृतिः ।
अविच्छेदेन शिष्टानामिदं स्मृतिनिबन्धनम् ॥१४२॥
かの正統性の認識に関するこれが、文法学のスムリティである。これはシシュタ達の、途絶えることなきスムリティ〔全般〕の紐帯である。(141)
वैखर्या मध्यमायाश्च पश्यन्त्याश्चैतदद्भुतम् ।
अनेकतीर्थभेदायास्त्रय्या वाचः परं पदम् ॥१५२॥
ヴァイカリーとマディヤマー、そしてパシヤンティーの故に、これ(文法学)は、未曾有のものであり、多くのティールタ(階段状)の区画を有する、三つ組の言語の故に、最高の地位にある。(142)
[ バルトリハリの言語の三相説は、リグ・ヴェーダの非顕現の言語の四分の三が、ヴァイカリー・マディヤマー・パシヤンティーに配当されたものである。後のカシミール・シヴァ派の言語の四相説は、顕現している四分の一がヴァイカリーとされ、残り四分の三が、マディヤマー・パシヤンティー・パラーに配分されたものである ]
तद्विभागाविभागाभ्यां क्रियमाणमवस्थितम् ।
स्वभावज्ञैश्च भावानां दृश्यन्ते शब्दशक्तयः ॥१४३॥
それ(文法学)は、ヴィバーガ(分析)とアヴィバーガ(無分析)の二つにより、布置されたものである。またスヴァ・バーヴァを知る者によって、諸々の存在の種々のシャブダ・シャクティ(言葉の力=言霊)が看破される。(143)
अनादिमव्यवच्छिन्नां श्रुतिमाहरकर्तृकाम् ।
शिष्टैरनिबनध्यमाना तु न व्यवच्छिद्यते स्मृतिः ॥१४४॥
始まりなく途絶えることなきシュルティは、人為にあらざるものと言い、シシュタ達によって編纂されつつも、スムリティは断絶されることがない。(144)
अविभागाद्विवृत्तानामभिख्या स्वप्नवच्छ्रुतौ ।
भावतत्त्वं तु विज्ञाय लिङ्गेभ्यो विहिता स्मृतिः ॥१४५॥
シュルティにおいて、部分なきものから、展開された諸々のものの眺望は、夢のようなものである。それに対して、スムリティは、存在の本質を識別し、諸々のリンガ(証相)に従い、形作られる。(145)
कायवाग्बुद्धिविषया ये मलाः समवस्थिताः ।
चिकित्सालक्षणाध्यात्मशास्त्रैस्तेषां विशुद्धयः ॥१४६॥
カーヤ(身体)・ヴァーチ(言語)・ブッディ(知性)の中には、諸々の汚れが共立し、チキトサー(治療)・ラクシャナ(定義)・アートマンに関する諸々のシャーストラによって、それらの浄化がある。(146)
[cf.लक्ष्यलक्षणे व्याकरणम् । (定義されるもの(ラクシヤ)と定義(ラクシャナ)において文法学がある)『マハーバーシヤ』より]
शब्दः संस्कारहीनो यो गौरिति प्रयुयुक्षिते ।
तमपभ्रंशमिच्छन्ति विशिष्टार्थनिवेशिनम् ॥१४७॥
まさに「ガウ(牛)」と云うことを必要とする時に、シャブダのサンスカーラ(正しい構成)の欠如した〔「ガーヴィー」などを用いた〕それは、特定のアルタをもとにして、アパブランシャ(卑俗語)となす。(147)
अस्वगोण्यादयः शब्दाः साधवः विषयान्तरे। निमित्तभेदात्सर्वत्र साधुत्वं च व्यवस्थितम् ॥१४८॥
「アスヴァ(無所有)」「ゴーニー(袋)」などの諸々のシャブダは、他の対象においては、正統なるものであり、あらゆる場面で、ニミッタ(生成因)区分に従い、かくて正統性が布置される。(148)
ते साधुष्वनुमानेन प्रत्ययोत्पत्तिहेतवः ।
तादात्म्यमुपगम्येव शब्दार्थस्य प्रकाशकाः ॥१४९॥
それら(アパプランシャ)は、諸々の正統なるものにおいて、推論により観念を生じさせる原因となるのであり、同一のものに接近したかの如くに、シャブダのアルタ(意味)の明示者となる。(149)
न शिष्टैरनुगम्यन्ते पर्याया इव साधवः ।
ते यतः स्मृतिशास्त्रेण तस्मात्साक्षादवाचकाः ॥१५०॥
それらは、シシュタ達により、正統なるものの同義語の如きものとしては、取り扱われない。何故ならば、スムリティ・シャーストラによっても、それらの故には、明瞭に諸々の言明するものとはならないから。(150)
अम्बाम्बेति यथा बालाः शिक्षामाणः प्रभाषते ।
अव्यक्तं तद्विदां तेन व्यक्ते भवति निश्चयः ॥१५१॥
「アムバームバ」と嬰児が、学びつつ話すように、不明晰なかのもの(アムバー)を知る者にとっては、それによって、明晰なものにおける確信が生じる。(151)
एवं साधौ प्रयोक्तव्यं योऽपभ्रंशः प्रयुज्यते ।
तेन सादुव्यवहितः कश्चिदर्थोऽभिधीयते ॥१५२॥
このようにして諸々の正統なるものが発せられるべき時に、アパブランシャが発せられ、それによって、正統なるものが遮られても、ある者達によっては、アルタが考慮される。(152)
पारम्पर्यादपभ्रंश विगुणेष्वभिधातृषु ।
प्रसिद्धमागता येषु तेषां साधुरवाचकः ॥१५३॥
アパプランシャが流行するに至ったのは、諸々の欠陥的な表現者のもとでの伝統の故である。かくて彼らにとり、言明するもののとならないのは、正統なるものの方である。(153)
दैवी वाग्व्यतिकीर्णेयमशक्तैरभिधातृभिः ।
अनित्यदर्शिनां स्वस्मिन्वादे बुद्धिविपर्ययः ॥१५४॥
諸々の無能なる表現者を通じての、神的な言語のこの交雑があり、〔シャブダを〕無常と見る者達の、〔アパブランシャが先行し、それを人工的に加工した正統なるシャブダが後であるという〕自身の言説における、ブッディ(知性)の倒錯がある。(154)
उभयेषामविच्छेदादन्यशब्दविवक्षया ।
योऽन्यः प्रयुज्यते शब्दो न सोऽर्थस्याभिधायकः ॥१५५॥
〔ブッデイの倒錯したシャブタ無常論者が〕両者の途絶することなき故をもって、あるシャブダを言わんとする意図により、別のシャブダを発しても、それはアルタについて表現するものとはならない。(155)
इति वाक्यपदीये ब्रह्मकाण्डं समाप्तम् ।
以上、『ヴァーキヤ・パディーヤ』における「ブラフマ・カーンダ」完。