マトゥラー~ネーパーラ | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む

 
 


【マトゥラー(秣莵羅)】(大小兼○灰×外○)Ⅱp141
 
伽藍は二十余ヶ所。僧徒は二千余人。大小二乗兼学。天祠は五ヶ所。異道の人々が雑居している。アショーカの三つのストゥーパあり、過去四仏の遺跡が非常に多い。釈迦の聖弟子の遺身のストゥーパ多数。シャーリープトラ(舎利子)、マーウドガリヤーヤナ(没特伽羅子)、プールナマイトラーヤニープトラ(布剌拏梅呾麗衍尼弗呾羅)、ウパーリ(波釐)、アーナンダ(阿難陀)、ラーフラ(羅怙羅)、マンジュシュリー(曼殊室利)の諸菩薩のストゥーパあり。年の三長(一月、五月、九月)、月の六斎(八、十四、十五、二十三、二十九、三十)に僧徒は仲間を引き連れ、供養の品をもって供養を行う。アビダルマ衆は、シャーリープトラを供養し、禅定の徒はマーウドガリヤーヤナを供養し、経を誦持するものはプールナマイトラーヤニープトラを供養し、ビナヤを学ぶ者は、ウパーリを供養し、比丘尼はアーナンダを供養し、具足戒を受けていないものはラーフラを供養し、大乗を学ぶ者は諸菩薩を供養する。「この日になると多くのストゥーパを競って供養を奉修し、りっぱな旛を並べ立て宝で飾った傘を両側に連ねる。香煙は雲の如く花の散るさまは雨のよう。日月をも覆いかくすほどの人出で、谷々を震うほどの雑踏である。国王や大臣も善行を修することに務めている」。城の東に五、六里で一つの山に伽藍がある。ウパグプタ(、付法蔵の第四祖或は第五祖)が建てたものである。如来の手爪のストゥーパがある。伽藍の北の石室でウパグプタが説法をし、夫妻を教化指導した。石室の東南二十四、五里の池の側にストゥーパがある。猿猴献蜜の伝説あり。池の北側に大きな林があり、過去四仏が散策したところである。シャーリープトラとマーウドガリヤーヤナら千二百五十人の大阿羅漢が禅定を修めた所である。如来はしばしばこの国に遊化した。

(筆者撮影)


【スタネーシュヴァラ(薩多泥湿伐羅)】(大×小○灰×外○)Ⅱp148
 
 
言わずと知れた『マハーバーラタ』戦争の舞台クルクシェートラである。伽藍は三ヶ所。僧徒は七百余人。小乗である。天祠は百余ヶ所。異道は甚だ多い。城の最北四、五里にストゥーパあり。中に舎利が一斗ほど入っている。アショーカの建造である。城の南百余里に倶昏荼僧伽藍がある。 

(クルクシェートラのブラフマサローヴァに設置されたクルクシェートラを歩く玄奘図  筆者撮影)


(クルクシェートラのスタネーシュヴァル寺院とそのリンガ  筆者撮影)
 
 
【スルグナ(窣禄勤那)】(大△小○灰×外○)Ⅱp152
 
デーハラードゥーン地方のスグである。伽藍は五ヶ所。僧は千余人。小乗を学ぶ者が多く、その他の部派を学ぶ者は少ない。天祠は百ヶ所。異道は甚だ多い。大城の東南、ヤムナー(閻牟那)の西に大伽藍にアショーカのストゥーパがある。如来の爪や髪が納められている。シャーリープトラやマーウドガリヤーヤナの髪・爪をストゥーパが左右を取り巻いている。スリーランカのデーヴァ(提婆)菩薩がここで異道を教導した。

(デーハラードゥーン  筆者撮影)

 

【マティプラ(秣底補羅)】(大×小○灰×外○)Ⅱp157

王はシュードラ種である。仏法を信じず、異道を信じている。伽藍は十余ヶ所。僧徒は、八百余人。天祠は五十余ヶ所。異道の人は雑居している。大城より南四、五里に小伽藍あり。僧徒五十余人。昔、グナプラバ(瞿拏鉢剌婆=グナマティ=徳慧)論師がここで『(辯真論)』などの論書百余部を作った。もともと大乗を学び、後に小乗を学ぶ。グナプラバの伽藍の北三、四里に大伽藍あり。僧徒は二百余人。みな小乗を学んでいる。サンガバドラが寿命を終えたところである。サンガバドラとバスヴァンドゥの対立について詳細あり。近くにストゥーパがあり、説一切有部で出家した、カシミール出身のヴィマラミトラ(毗末羅密多羅)論師の遺骸の塔である。サンガバドラとバスヴァンドゥの対立後、サンガバドラの墓の前で大乗を論難する決意を固めたらたちどころに亡くなったという逸話あり。ガンジス(殑伽)川の東岸にマユーラ(摩裕羅)城あり。大きな天祠がある。今のハリドワールである。

(ハリドワールのハリキーパウリー  筆者撮影)


【ブラフマプラ(婆羅吸摩補羅)】(大△小△灰×外○)Ⅱp168
 
伽藍は五ヶ所。僧徒は少ない。天祠は十余ヶ所。異道の人々が雑居している。ガルワール地方の今のシュリーナガルとされる。国境の北にスヴァルナゴートラ(蘇伐剌拏瞿呾羅国)がある。
 
 
【ゴービシャーナ(瞿毗霜那)】(大×小○灰×外○)Ⅱp171
 
今のカーシプルである。マハーバーラタ時代の北パンチャーラ国があったところであり、アシュヴァッターマンの父でパンダヴァ五兄弟の武芸の師ドローナが治めていた国である。ドローナ・キラー(ドローナの城)と呼ばれる遺跡が遺る。伽藍は二ヶ所。僧徒は百余人。みな小乗を学ぶ。天祠は三十余ヶ所。異道の人々が雑居している。大城の側にアショーカのストゥーパがある。過去四仏の座所、経行の場所。その側に如来の髪と爪を納めたストゥーパが二つ立つ。



(伝ドローナ・アーチャリヤ城跡  筆者撮影)
 
 
【アヒチャットラ(亞醯掣呾羅)】(大小○灰○外)Ⅱp173
 
伽藍は十余ヶ所。僧徒は千余人。小乗のサンミッティーヤ(正量部)を学ぶ。天祠は九ヶ所。異道の人々は三百余人。自在天に仕える塗灰の仲間である。城外に竜池の側にアショーカの建てたストゥーパがある。過去四仏のストゥーパもある。
 
 
【ヴィラシャナ(毗羅冊刪拏)】(大○小×灰×外○)Ⅱp 175
 
外道を信仰し、仏法を信じるものは少ない。伽藍は二ヶ所。僧徒は三百余人。みな大乗である。天祠は五ヶ所。異道の人々が雑居している。大城中にアショーカのストゥーパがある。『蘊界処経』を説いた場所とされる。
 
 
 
【カピタカ(劫比他)】(大×小○灰△外○)Ⅱp
 
伽藍は四ヶ所。僧徒は千余人。みな小乗のサンミッティーヤの教えを学ぶ。天祠は十ヶ所。みな大自在天に奉事している。城の東二十余里に大伽藍がある。仏の尊像は荘厳の限りを尽くす。僧徒は数百人。正量部の教えを学んでいる。数万人の浄人が寺の側に住む。如来が天宮に上がり、降って帰られた所である。宝階がある。左右に帝釈、梵天の像あり。近くにアショーカの石柱あり。過去四仏のストゥーパあり。ウトゥパラヴァルナー(蓮華色苾蒭)が天輪王の身なりをしたところである。


【カーニヤクブジャ(羯若鞠闍)】(大小兼○灰×外○)Ⅱp183
 
伽藍は百余ヶ所、僧徒は万余人。大小兼学。天祠は二百余ヶ所。異道の人は数千余人。大仙の呪いによる曲女城の名の由来の記述あり。玄奘当時の王は、ヴァイシャ種のハリシャヴァルダナ(曷利沙伐弾那)であり、この土地に君臨すること二世三王である。父王はプラバーカラヴァルダナ(波羅羯羅伐弾那)、二代の兄王が、ラージャヴァルダナ(曷邏闍伐弾那)である。二代目の兄王が、カルナスヴァルナ(羯羅拏蘇伐那)のシャシャーンカ(設賞迦)王に暗殺されると、仇を討ち、王となった。三代目のハルシャヴァルダナは、前世でアラーニヤ・ビク(連若苾蒭)としての福徳の力で王となったという記述あり。ハルシャヴァルダナは、シーラーディティヤ(尸羅阿迭多、戒日王)と号した。雨期の三ヶ月は、僧衆一千人、婆羅門五百人にご馳走を振る舞った。玄奘はハルシャヴァルダナと会見した。無遮大会、伽藍の火災、王の暗殺未遂事件などの記述あり。城の西北のストゥーパはアショーカの建てたものである。その側に過去四仏の遺跡があり、近くに如来の髪や爪を納めた小ストゥーパがある。ストゥーパの南、ガンジス川に臨んで三つの伽藍あり。仏牙の拝観料を取っている記述あり。その東南に大精舎あり、如来の立像がある。その近くに日天祠や大自在天祠あり。大城の東南六、七里にアショーカの建てたストゥーパあり、如来がここで身の無常、苦、空、不浄を説いた。過去四仏の遺跡や如来の髪、爪の小ストゥーパあり。大城より東南百余里にナヴァデーヴァクラ(納縛提婆矩羅)城あり。その西北ガンジスの東に重層建築の天祠あり。城の東五里に三つの伽藍あり。僧徒は五百余人。みな小乗の説一切有部を学ぶ。アショーカのストゥーパがあり、中に如来の舎利あり。過去四仏の遺跡がある。その北四里にアショーカのストゥーパがある。その側に過去四仏の遺跡や如来の髪や爪のストゥーパがある。

 
 
 
【アユダー(阿踰陀)】(大小兼灰×外○)Ⅱp208
 
現在のアヨーディヤ、ラーマが生誕した所である。伽藍は百余ヶ所、僧徒は三千余人。大小兼学である。天祠は十ヶ所。異道の人は少ない。大城に古い伽藍があり、サルヴァースタヴァーディン(説一切有部)で出家し、大乗の転向したヴァスバンドゥ(伐蘇畔度)菩薩が数十年の間、ここで大小兼の諸種の異論を作製した。説法堂あり。城の北、四、五里のガンジスの岸に大伽藍があり、アショーカのストゥーパがある。如来が天人衆に説法した場所であり、過去四仏の遺跡もある。如来の髪・爪のストゥーパあり、その北の伽藍跡は昔、サウトラーンティカ(経部)のシリラータ(室利邏多)がここでサウトラーンティカの『毗婆沙』論を書いた。城の西南五、六里に古い伽藍あり。マヒーシャーサカ(化地部)で出家し大乗に転向したアサンガ(阿僧迦)菩薩が教えを弥勒菩薩に請い、凡人を導かれた場所である。『ヨーガーチャーリヤブーミ・シャーストラ(瑜伽師地論)』『マハーヤーナ・スートラーラムカーラ(荘厳大乗経論)』『マディヤーンタヴィバーガ・シャーストラ(中辺分別論)』を弥勒菩薩の教えを受けて書いた。近くに如来の髪と爪のストゥーパあり。アサンガの弟子のブッダシンハ(仏陀僧衍)は持戒は測り知れず才高い人で、自分が亡くなった後に、どこに往生したか知らせようと徳高い人々で話あっていた。ブッダシンハが亡くなっても、何の知らせもなかった。ヴァスバンドゥが亡くなっても何の知らせもなかった。兄のアサンガの元に、一人の仙人が現れたが、それがヴァスバンドゥであった。彼は自分がト史多天の弥勒菩薩のところに転生したことを報告し、ブッダシンハが俗衆の中に転生し歓楽にふけっていることを報告した。アサンガのお堂の近くに古い伽藍がある。弟のヴァスバンドゥがアサンガの弟子が『ダシャブーミカ・スートラ(十地経)』を唱えているのを聞き、大乗の心を発したところである。大乗の論書全部で百余部がヴァスバンドゥにとって作製された。
 

(筆者撮影)
 
【アヤムカ(阿耶穆カ)】(大×小○灰×外○)Ⅱp217
 
プラヤーグラージの東、現在のプラターガル区である。伽藍は五ヶ所、僧徒は千余人。小乗のサンマティーヤ(正量部)を学ぶ。天祠は十余ヶ所。異道の人々が雑居している。ガンジスの岸に臨んでアショーカのストゥーパがあり、付近に過去四仏の遺跡がある。如来の髪と爪を納めたストゥーパがある。その側の伽藍は僧徒が二百余人いる。ブッダダーサ(仏陀駄婆)論師がここで『大毗婆沙論』を書いた。
 
 
【プラヤーガ(鉢羅耶伽)】(大小灰外)Ⅱp219
 
ガンジスとヤムナーの合流点(サンガム)に位置する現在のプラヤーグラージ(旧名、イラーハーバード)である。伽藍は二ヶ所。僧徒は少なく、小乗を学んでいる。異道の人は甚だ多い。大城の西南にアショーカのストゥーパがある。その付近に如来の髪と爪を納めたストゥーパあり。その付近にナーガールジュナの弟子で付法蔵第十四祖の〔アーリヤ〕デーヴァ(提婆)菩薩が『チャトゥフシャタカ(広百論)』を説いた場所がある。城の中に天祠あり、その天祠の前に大きな樹があり、ピシャーチャ(食人鬼)が住んでいるという伝説がある。ヤムナーとガンガーの合流点の「大施場」の説明あり、外道の修業の様子が描写されている。「河中に高い柱を立て、日が昇ろうとすると直ちに柱に昇り、片手片足で柱の端をつかみ、傍の杙に乗せ。片手片足をただ外方に伸ばし空中で曲げない。頚を延ばし目を見開き日を見つめ。右へまわる。日がくれかかるころになって始めて降りてくる」とある。西南の大きな林に猛獣や野象が群れをなして危険であると記述あり。

(筆者撮影)
 
 
 
【カウシャーンビー(憍賞弥国)】(大×小○灰×外○)Ⅱp229
 
伽藍は十余ヶ所。僧徒は三百余人。小乗である。天祠は五十余ヶ所。外道は甚だ多い。プラヤーグラージとチットラクートの間ぐらいである。城内の大精舎にウダヤ(鄥陀衍)王が作った仏像がある。ゴーシラ(具史羅)長者の旧宅、中に仏の精舎と髪・爪のストゥーパがあり、如来の浴室がある。アショーカのストゥーパがあり、過去四仏の遺跡もある。伽藍の東南の重閣の上に古い煉瓦作りの室があり、ヴァスバンドゥが『ヴィジュナプティマートラターシッディ(唯識論)』を作製した。伽藍の東のマンゴー樹の林の中の建物はアサンガが『顕揚聖教論』を作ったところである。城の西南に毒竜石窟がある。その側にアショーカのストゥーパがある。側に如来の散策した跡や髪・爪のストゥーパがある。ここより東北に大林中を七百余里でガンジスを渡り、北してカシャプラ(迦奢布羅)城に至る。古い伽藍があり、ダルマパーラ(護法)菩薩が外道を降したところである。近くにアショーカのストゥーパがある。傍らに如来の散策の跡と髪・爪のストゥーパがある。
 
 
【ヴィサーカー(鞁策迦)】(大×小○灰×外○)Ⅱp239
 
伽藍は二十余ヶ所。僧徒は三千余人。サンマーティヤ(正量部)である。天祠は五十四ヶ所。外道は甚だ多い。城の南に大伽藍がある。昔、サルヴァースタヴァーディン(説一切有部)のデーヴァシャルマ(提婆設摩)阿羅漢がここで『阿毗達磨識身論』を書いた。我と人となしと説き、ゴーパ(瞿波)阿羅漢が『聖教要実論』を作り、我と人とありと説き論争となった。またダルマパーラがここで小乗の百人の論師を屈伏させたところである。アショーカのストゥーパがあり、過去四仏の散策の跡と如来の髪・爪のストゥーパがある。如来が昔、歯を掃除されてその残りの枝が成長して大樹が残る。

【シラーヴァスティー(室羅伐悉底)】(大×小○灰×外○)Ⅱp243
 
伽藍は数百あるが、倒壊したものが多い。僧徒は少ない。正量部を学んでいる。天祠は百余ヶ所。外道の人々は甚だ多い。如来在世の頃のプラセーナジト(鉢羅犀那恃多)王の国都である。その妃の中で有名なのは、マッリカー(『勝鬘経』で有名な勝鬘夫人である)。上に小さなストゥーパのある如来の為に建てた大法堂の跡あり。プラセーナジト王が如来の母方の叔母のプラジャーパティー(鉢羅闍鉢底)ビク尼の為に建てた精舎跡とストゥーパあり。東隣のストゥーパはスダッタ(蘇達多)の宅跡である。その側にアングリマーラ(利摩羅)が邪心を捨てたところである。城の城南五、六里にジャータ(逝多)林がある。ジェータヴァナ・アナータピンヂカーラーマ(逝多林給孤独園)すなわち祇園精舎がある。


(筆者撮影)

プラセーナジトが建立したとされる仏像が残っている。仏が病気のビクを洗われたところにストゥーパがある。シャーリプトラをマーウドガリヤーヤナが神通で持ち上げようとして持ち上がらなかった所にストゥーパがある。近くに仏の用にあてた井戸があり、アショーカの建てたストゥーパがある。伽藍の近くに外道のブラーフマナ(梵士)が淫女を殺して如来を誹謗した場所や、デーヴァダッタ(提婆達多)が毒薬で仏を害しようと思い、生身で地獄に陥ち込んだところがある。その南にデーヴァダッタの仲間のコーカーリカ(瞿迦梨)苾蒭が仏を誹謗し生身のまま地獄に陥ちた抗や、チンチャー(戦遮)婆羅門女が如来を誹謗し地獄に落ちた深い抗などがある。伽藍の東に精舎があり、仏像がある。その側に天祠がある。天祠は精舎を影で覆えないが、逆は影で覆えるので精舎は影覆と呼ばれる。その側にシャーリプトラが外道と論議した所にストゥーパがある。その側に如来が外道を論破した場所にストゥーパがある。その南はプラセーナジト王の息子のヴィルーダカ(毗盧択迦)王が軍隊を起こし、釈族を滅ぼそうとした時に如来が王を帰らせた所である。その側にストゥーパがある。ヴィルーダカ王が釈族の女を殺戮した所であり、如来がビクに仏の教えを釈族の女達に説かせた所である。その側にヴィールダカ王が地獄に陥ちた所がある。伽藍より西北三、四里に得林眼がある。大城より西北六十余里にカーシャパ如来が誕生した城があり、アショーカ王が建てたカーシャパ如来の正覚の地のストゥーパとまた別にカーシャパ如来の舎利を入れたストゥーパがある。
 
 
【カピラヴァストゥ(劫比羅伐窣堵)】(大×小○灰×外○)Ⅱp266
 
 
伽藍の跡は千余ヶ所。宮城の側に伽藍あり、僧徒は三千余人、小乗の正量部を学んでいる。天祠は二ヶ所、異道の人々が雑居している。宮殿の中に建物跡があり、シュッドーダナ(浄飯)王の正殿である。そこは精舎が建っていて、中に王の像がある。近くにマハーマーヤー(摩訶摩耶)夫人の寝殿であり、そこにも精舎が立ち夫人の像がある。その側の精舎が釈迦菩薩が母の胎内に入った場所である。中に菩薩降神の像がある。その東北にアシタ(阿私多)仙が観相した所である。城の南門にストゥーパがあり、太子が釈族の青年と角力をし、象を投げたところである。その側に精舎があり、太子の妃のヤショーダーラー(耶輸陀羅)の寝宮であり、そこに妃の像がある。ラーフラの像もある。近くに太子の学堂の跡があり、そこの精舎には太子が学業を受けている像がある。城の東南に精舎があり、太子が白馬に乗って虚空を駆けている像があり、城の四門の外には精舎があり、老・病・死・沙門の像がある。城の南五十余里で故城に至る。クラクチャンダ(迦羅迦村駄)如来の誕生地した城である。正覚をして父に会った所と舎利を納めた場所、それぞれにストゥーパが建つ。遺身ストゥーパの前に師子の像を刻んだアショーカの石柱がある。そこから三十余里に古い大きな城があり、中にストゥーパがある。カナカ(迦那迦)牟尼が誕生した城であり、正覚をして父に会った所と舎利を納めた場所、それぞれにストゥーパが建つ。遺身ストゥーパの前に師子の像を刻んだアショーカの石柱がある。城の東北四十余里にストゥーパがある。太子が座禅をした所である。城の西北に数百千のストゥーパがある。ヴィルーダカ王が釈種を殺戮した所である。その西南に四つのストゥーパがある。四人の釈種が軍勢を防いだ場所である。その四人は一人はウッディヤーナの、一人はバーミヤーンの、一人はスマタンラの、一人はシャミの、それぞれ王となった。城の南、三、四里のニグローダ(尼拘律)樹の林にアショーカのストゥーパがある。如来が帰郷し父に説法したところである。その近くにストゥーパがある叔母の金縷の袈裟を受けた所であり、それに並んで、八人の王子と五百人の釈種を得度した所である。城の東門内の路の左にストゥーパがある。サルヴァールタ(一切義成)太子がここで諸種の技芸を習った所である。門の外に自在天祠がある。祠中に石造りの自在天の像がある。太子が赤子の時に入れられた祠である。城の南門外にストゥーパがある。太子が釈族の人々と角技をし。鉄鼓を射た所である。東南に小さなストゥーパがあり、ここで太子が射て、泉が湧いた所である。その泉より東北八、九十里でルンビニー(臘伐尼)林に至る、釈種が水浴する所であり、その北すぐに無憂花樹があった所であり、そこで菩薩が降誕した所である。東にアショーカのストゥーパがあり、二匹の竜が太子を沐浴させた所である。そこに二つの泉と二つのストゥーパがある。一つは暖かく、一つは冷たい泉である。その南にストゥーパがあり、インドラ(帝釈)天が菩薩を捧げ受けた所である。その隣に四天王が菩薩を抱き抱えた所に四つのストゥーパがある。その近くにアショーカの石柱があり、上に馬の像がある。その近くに油河が流れている。マーヤー夫人がお産後、沐浴した所である。
 
 
【ラーマ(藍摩)】(大?小?灰×外×)Ⅱp293
 
故城の東南に煉瓦造りのストゥーパあり。その近くに竜池あり。さらに伽藍あり。象がストゥーパに供養をするのを見て、具戒足を受けたビクがその身を一段低くして雑務を行う沙弥となりストゥーパの供養をし、その沙弥の為に国王が建てたのがこの伽藍である。代々、僧務は沙弥が掌握している。そこから東に百余里で、アショーカのストゥーパがある。太子が宝衣を脱ぎ従者に帰るように命じた所である。近くに太子が剃髪したところを記念したアショーカのストゥーパがある。そこから東南に百八十、九十里でニグローダ(尼拘盧陀)林に至る。如来を焼いた残りの灰と炭を集めてストゥーパを建てたものである。側の伽藍の中に過去四仏の座所および散策された遺跡がある。その左右にはアショーカが建てたストゥーパがある。
 
 
【クシナガラ(拘尸那掲羅)】(大?小?灰×外×)Ⅱp302
 
 
城内の東北隅にアショーカのストゥーパがある。チュンダ(准陀)の邸宅である。アジタヴァティー(阿恃多伐底)を渡り、西岸にサーラ(娑羅)林があり、そこに精舎がある。如来の涅槃像があり、その側にアショーカのストゥーパがある。


(筆者撮影)

その近くにジャータカ説話の雉王救火のストゥーパがある。その側に救生鹿本生譚のストゥーパがある。その近くに如来の最後の弟子であるスバドラ(蘇跋)のストゥーパがある。その近くに執金剛のストゥーパがある。その側に如来が寂滅されて七日間供養した所にストゥーパがある。その側にマハーマーヤー(摩訶摩耶)夫人が慟哭した所のストゥーパがある。城の北に如来を焚焼した所に建つストゥーパがある。


その側にマハーカッシャパの為に両足を如来を見せられたのを記念したストゥーパがある。その側にアショーカのストゥーパがある。八王が舎利を分配したところである。そこから西南二百余里でラーフラの伝説が残る村がある。
 
 
 
【ヴァーラーナシー(婆羅痆斯)】(大×小○灰○外○)Ⅱp327
 
 
多くは外道を信じる。伽藍は三十余ヶ所。僧徒は三千余人。小乗の正量部の法を学ぶ。天祠は百余ヶ所。外道は一万余人。みな大自在天を信奉しており、或るものは断髪しており、或るものは髻を高く結う。露形で服を着けぬもの。身に灰を塗るものなど。苦行に精励し、生死の境より出離することを求めている。天祠は二十ヶ所。鍮石の天像は百尺足らず、その威厳は厳かである。城の東北ヴァルナ(婆羅痆)川の西にアショーカの建てた石柱がある。

(ヴァルナ川  筆者撮影)

そこより東北に十余里で鹿野伽藍がある。僧徒は一千五百人、みな正量部である。その西南にアショーカのストゥーパがある。如来が始めて法輪を転じたところである。アージュニャータカウンディニヤ(阿若憍陳如)が禅定を習したところである。その近くに五百人の独覚が同時に涅槃に入ったところのストゥーパや、過去三仏のストーゥパなどがある。近くに弥勒菩薩授記を受けたストゥーパ(現在のダーメーク・ストゥーパ)がある。


(筆者撮影)

近くには六牙象王本生譚や雉本生譚、鹿王本生譚を記念したそれぞれストゥーパがある。五人の最初の弟子が仏を迎えたところにストゥーパがある。鹿野伽藍より東に二、三里にストゥーパがある。救命池がある。その側に三つのストゥーパがある。兎王本生譚を記念したものである。
 
 
【ガルジャパティプラ(戦主)】(大○小○灰×外○)Ⅱp355
 
伽藍は十余ヶ所、僧徒は千人足らず、みな小乗を学ぶ。天祠は二十。異道の人々が雑居している。大城の西北に伽藍の中にアショーカのストゥーパがある。この隣に弥勒菩薩の像がある。大城より東に二百余里で旅僧の為のアヴィッダカルナ(阿避陀羯剌拏)僧伽藍がある。そこから東南百余里でマハーシャーラ村がある。その近くのガンガーの北岸にナーラーヤナ天祠がある。その東三十余里にアショーカのストゥーパがある。その側に大乗を学ぶ僧徒のいる崩れかかった伽藍がある。そこから東南百余里で舎利を量ったブラーフマナがその瓶を塔内に安置したストゥーパがある。
 
 
 
【ヴァイシャーリー(吠舎釐)】(大?小○灰×外○)Ⅱp363
 
 
伽藍は数百あるが、ほとんど崩壊していて残存しているのは三つ五つ、僧徒は稀少。天祠は数十ヶ所。異道の人々が雑居している。露形の徒(ジャイナ)が実にその仲間が多い。宮城の西北五、六里で伽藍がある。僧徒は少なく正量部を学ぶ。傍らにストゥーパがあり、『ヴィマラキールティ(毗摩羅詰、維摩)経』を如来が説いたところである。近くにシャーリプトラが無学の果を証したのを記念したストゥーパがある。その近くにヴァイシャーリーの王が建てた仏舎利塔がある。その西北のアショーカのストゥーパと獅子の像のある石柱がある。近くに猿の取蜜、奉蜜の説話を記念したストゥーパがある。伽藍の東北三里にヴィマラキールティの故宅跡に立つストゥーパがある。さらに近くに霊妙な家があり、ヴィマラキールティが病人となって法を説いたところである。その近くに息子の宝積の家の址がある。近くにアームラ女の家の址に立つストゥーパがある。さらに人々が世尊に随従して佇んだ所にストゥーパがあり、最後に世尊がヴァイシャーリーの城を眺めた所にストゥーパがあり、アームラ女が園を世尊に奉献したところに精舎とストゥーパがある。ここで如来がアーナンダに涅槃を告げられたところである。その近くに千仏本生譚のストゥーパがある。その東にストゥーパがあり、『普門陀羅尼』の経を説いたところである。近くにアーナンダの半身の舎利のストゥーパがある。さらに数百のストゥーパがあり、千人の独覚が寂滅に入ったところである。大城より西北五、六十里で大きなストゥーパがある。リチャヴィ(婆子)が如来にお別れしたところである。大城から西北二百里に古い城がある。中にストゥーパがあり、マハーデヴァ(摩訶提婆)本生譚の舞台である。城より東南十四、五里で大ストゥーパがある。マハーサンギカ(摩訶僧祇)が分離することになった第二結集の場所である。釈迦入滅後、百十年。長老のヤショーダ(耶舎陀)はコーサラに、サンボーガ(三菩伽)は、マトゥラーに、レーヴァタ(釐波多)は韓若に住み、サールハ(娑羅)はヴァイシャーリーに、クブジャソービタ(富闍蘇弥羅)パータリプトラに住んでいた。彼が集まり第二結集(第一回は入滅直後)を行った。そこから南へ八、九十里でシヴェータプラ(湿吠多補羅)僧伽藍がある。みな大乗を学ぶ。その側に過去四仏の遺跡と、アショーカのストゥーパがある。そこから東南三十余里のガンジスの南北岸にそれぞれにストゥーパがあり、アーナンダがの舎利が半々に分けられた所である。
 
 
【ヴリジ(弗栗恃)】(大○小○灰×外○)Ⅱp389
 
多くは外道であり、仏法を信じるものは少ない。伽藍は十余ヶ所。僧徒は千人足らず。大・小兼学である。天祠は数十。外道の人は非常に多い。大河の東北に伽藍がある。西に漁夫の教化を記念したストゥーパがある。東北百余里で、アショーカのストゥーパがある。如来が六ヶ月間説法されたところである。近くに小さいストゥーパがあり、比丘の為に戒を制定されたところである。西に如来の髪・爪のストゥーパがある。
 
 
【ネーパーラ(尼波羅)】(大○小○灰×外○)
 
僧徒は二千余人。大小兼学。外道の数は多い。王はクシャトリヤでリッチャヴァ族である。アンシュヴァルマン(鴦輸伐摩)という王がいた。学深く聡明で、自ら声明の論著がある(彼の娘のブリクティはチベットのソンツェン・ガンポの妃となった。第二妃は有名な文成公主)