第4章 第2節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む



गूढव्रतः ॥२॥

 
guuDhavrataH ॥2॥
 

【隠匿された誓戒[1]、】
 
 
[1]vrataは、誓戒という意味である。
 
 
 第三章において述べられたように、定住生活から放浪生活に移行したパーシュパタの修業者は、全ての獣主派の印を捨て去り、単なる軽蔑された最低辺の浮浪者となって世界を巡ることになる。それはサンニャーシンとしての最低限の矜持を保ちうる印さえ捨て去るということであった。彼は好色な者として若い女性に媚態を振り撒き、脚を引きずる身体障害者を装い、瞑想するそぶりをも見せずいつも怠け者の如く狸寝入りをし、或いは、何らかの奇妙な病に侵された者の如くに突如痙攣して震えるのであった。こうして獣主派の誓戒そのものを隠匿することによって彼は、この世界で軽く取り扱われ、恥ずかしめられた者と共に生き、その世界を再体験するのである(しかしこうした隠匿の誓戒は、理想として語られる分にはいいが、実践するとなると心理的に甚だしいストレスとなる。彼らはもともと誇り高いブラフマンであったから。かくてこうした隠匿の誓戒は、『マヌ法典』や『ヤージュニャヴァルキヤ法典』にも記述のあるブラフマン殺しというブラーフマニズム社会で最も重い罪を負ったものが実践すべきものとされる、自らが殺したブラフマンの頭蓋骨を所持して放浪する姿を取り入れて、獣主派のラディカルな姿から心理的に妥協した姿へと変容していくことになる。軽蔑すべき小者から憎むべき大罪人を偽装することへの変化。これが恐らくアティマールガにおけるカーパーリカの起源である。詳細は今後論じる予定)。

エローラ石窟寺院のラクリーシャ(筆者撮影)

 我々はこれよりシヴァ教とヨーガの歴史をメインとするインド中世一千年史という時空を超えた恐るべき荒野と密林、未開の蛮族達が蔓延る、日本の一般読者層においては未知の、空白の時代へと分け入る。それはインド亜大陸を空間的に縦横無尽に縦断横断するにとどまらず、時間的にも飛び回らなくてはならない過酷な時空の征服作戦の様相を呈することになろう。そしてまたその土台となりうる諸々の基本文献に日本語訳はほとんどなく、尚且つインド人特有の歴史感覚の欠如がそこに未曾有の真空地帯を無数に作り出しているのであるから、その困難は想像に難くない。アレクサンドロスが率いた当時世界最強を誇るマケドニア軍でなくとも、その空漠として曖昧模糊たる時空間を戦場とするインド中世一千年の征服作戦など、インダス川を渡河してすぐのインドの入口パンジャーブ地方ぐらいで引き返したくなる類のものである。しかし『パーシュパタスートラ』を読破しなくてはならない我々にとって、この空白の一千年史の理解は避けては通れない重大事である。従って我々はまず手始めに神の加護を求めると共に、この重大な事業の成功を祈念し、征服戦争開始の合図として、古の時代より我らが野蛮な先祖の常套手段であった生け贄を屠る無慈悲な犠牲祭を挙行し全軍の士気を高めることにしたい。
 まず最初にカーラバイラヴァ神への生け贄として捧げるのは、以前にもこのブログで取り扱って、アメリカに隠し子がいたことが判明しているインドの不良スワーミーであるスワーミー・ラーマである。ただこれはかなり我々にも痛みを伴う内容である。端的に言うと、それは以前、我々が第1章第34節 で取り扱ったスワーミー・ラーマとソームバーリー・バーバーとのヤジュニャに関する対話が真っ赤な嘘であったということなのである。筆者は、その記事の中でソームバーリー・バーバーが述べたとされる集合的知性のプールというキーワードを度々引用してアーカーシャ・ガルバ(アーカーシャ年代記)の存在について言及してきた。しかし、このような会話は実際には存在していないのだ。何故ならスワーミー・ラーマの生年は1925年ぐらいであり、ソームバーリー・バーバーがパダムプリー・アーシュラムで普段の瞑想からサーマディに達し、そのままマハーサマーディに入ったのが1920年であるのだから※1。これだけでも嘘を平気でつくサイコパス気質なインド人が嫌いになるのに十分であろう。それにしても何故スワーミーを名乗りながら、こんな少し事情に詳しい人が調べれば、すぐにバレるような嘘をつくのか甚だ疑問である。相手がインドの歴史や地理に暗いアメリカ人の弟子だとしても、本にしたならば事情通にはすぐに嘘と分かるはずなのである。1920年に亡くなり、インドでも忘れられたヒマーラヤ聖者であるソームバーリー・バーバーについて詳しくソースを確認する人などいないだろうと高を括ったとしか思われない。しかし相手が悪かった。我が国におけるソームバーリー・バーバー研究の第一人者である筆者の目をくらますことはできなかったわけだ(6年ぐらいまんまと騙されていたが)。弟子に手を出し隠し子がいて、尚且つ自分が生まれる前に既に死んでいるソームバーリー・バーバーとあたかも何ヶ月間か過ごしたような嘘を平気でつく、これがスワーミー・ラーマという男なのである。


 世界的なヨーギンであるスワーミー・ラーマを生け贄の子羊として犠牲に屠った血も涙もないタントラ崇拝者の我々が、続いてマハーカーリー女神に生け贄として捧げるのは、中国のクンルンネイゴンの継承者であり、西野流呼吸法の指導者でもあったKan.氏である。氏は、2013年出版のその著書『時空を超えて生きる』で2週間マハー・アヴァター・ババジ共に過ごしたと称し、その時に撮影したものとして一枚の写真をその著書に掲載している。それが筆者のグルであるハイラーカーン・バーバーが1970年初頭にハイラーカーン近くのアーディカイラース(別名チョーターカイラース)で帰依者達と撮影した写真と瓜二つなのである(瓜二つというよりかその写真をたんにボカしただけなのだけれども)。



 このインターネットが普及した現代において、ちょっとググれば出てくる1970年の写真をさらに不鮮明にし、自分で撮った写真として自己の著書に載せる精神構造がどういうものなのか筆者には甚だ不可解である。ちなみに1970年と言えば、50年前である。氏はどうみても現在において60才以下ぐらいの見た目である。氏の主張を鵜呑みにすれば、氏は小学生の時にハイラーカーン・バーバーと一緒にアーディ・カイラースで過ごしたということになろう。スワーミー・ラーマにせよクンルンネイゴンの継承者であるkan.氏にせよ嘘をつくことについて無邪気というか、人間というものを甘く見過ぎである。嘘はもっとバレないように周到に用意すべきであると筆者は声を大にして言いたい。



 かくて我々はカーラバイラヴァ神にスワーミー・ラーマを、マハーカーリー女神にkan.氏を立て続けに生け贄としてタントラ行者よろしく捧げたのであったが、次にヤーマラタントラ聖典の一つである『ブラフマヤーマラタントラ』の主神であるチャンダーカーパーリニー女神に生き贄として捧げるのが、現代インドで活躍するシュリー・M氏である。筆者はシュリー・M氏の著書である『Apprenticed to a Himalayan Master』を英語の原著で読んだのだが、今ではこの書は、青木光太郎訳、武井利恭監修で素晴らしい翻訳書が蓮華社より出ているので、読者はそちらを参考にして欲しい。


 シュリー・M氏に関する疑義は、幾つかあるのだが、彼は過去世ではマハー・アヴァタール・バーバーの弟子であり、今生ではマハー・アヴァタール・バーバーの直弟子であり兄弟子のマヘーシュワルナート・バーバージより教えを受けたと主張している。



 その著書を読んでの筆者の第一印象は、マヘーシュワルナート・バーバージーが、全く生きた人間のようには思われず、薄っぺらな理想化されたヨーギンとしてしか描かれていないというものであった。筆者はソームバーリー・バーバーの伝記をコツコツと翻訳しているのだが(あと一年ぐらいで終わりそうである)、そうした書物には聖者のイデアルな姿が当然描かれているわけだけれども、それ以外にも生きた人間としての不可解な部分や割り切れない謎の言動や行動、癖などが描かれているのが一般である。何故なら聖者を観察する我々は世俗的な人間であり、どうしても聖者のそうした人間的な部分が気になってしょうがないからであり、聖者は自分の言行の全てを弟子や帰依者に説明するわけではないから、どうしても謎としてそうした割り切れない人間的な部分が印象として残るのである。聖者としては蛇足だが人間としては普通の、余りに人間的な趣味嗜好など。しかしシュリー・M氏の文章からは本当に長年、師であるマヘーシュワルナート・バーバージーと一緒に暮らしてたのか疑問を抱かざるを得ないような、絵に書いた理念的な聖者像しか見えてこないのである。しかしこれは三歩譲って単にシュリー・M氏が人を描写するのが下手くそということだけかもしれないので、疑わしきは罰せずの方針で見逃してあげたい気持ちにも傾くのであるが、氏が、マヘーシュワルナート・バーバージーに重要な書物の手ほどきを受けたということで羅列している書物の一覧を見て、筆者は暗澹たる気持ちに陥らざるを得ないのである。『ウパニシャッド』、『ヨーガ・スートラ』、『ハタヨーガ・プラディーピカー』、『シャット・チャクラ・ニルーパナ』、『ゴーラクシャ・シャタカ』、『クラールナヴァ・タントラ』、『マハーニルヴァーナ・タントラ』、『般若波羅蜜経』※2。とりあえず『ウパニシャッド』、『ヨーガ・スートラ』、『ハタヨーガ・プラディーピカー』、『般若波羅蜜経』はいいとして、『シャット・チャクラ・ニルーパナ』、『ゴーラクシャ・シャタカ』、『クラールナヴァ・タントラ』、『マハーニルヴァーナ・タントラ』の一覧を見ると、どうしてもこれらが偉大なマハーアヴァタール・バーバーの直弟子であるマヘーシュワルナート・バーバージーが弟子に重要な書物として教えるヨーガとタントラの文献の一覧として不可解過ぎるのだ。何故ならそれらは当時英語で読めた文献の一覧であるということが多少、ヨーガやタントラ文献に精通している人間ならすぐに察しがつくから。『シャット・チャクラ・ニルーパナ』は、アーサー・アヴァロンの筆名でジョン・ウッドロフが、1919年に出版した『サーペント・パワー』の種本の一つである。『ゴーラクシャ・シャタカ』は、1951年にスワーミー・クヴァラヤーナンダが英訳したものがある。『クラールナヴァ・タントラ』は、これもジョン・ウッドロフが1916年に序文を書き、M.P.パンディットが英訳して出版している。そして『マハーニルヴァーナ・タントラ』も、同じくジョン・ウッドロフが1913年に、英訳して出版している。つまりここで列挙されている書物は全て当時、英語で読めたものであり、しかもタントラ教典に至ってはジョン・ウッドロフが入手可能であった手近な教典でしかなく、我々がこれから取り扱うインド中世一千年史におけるタントラ教典の重要教典とさえ見做せない新しい時代層に属するものがほとんどなのだ。


 そもそもハイラーカーン・バーバーや、ニーブ・カラウリー・バーバー、ソームバーリー・バーバーが、本を通じてヨーガやタントラの教えを授けたという例を筆者は知らないし、まして英訳されている本に限定して講義したというのは聞いたことがない。そもそも旅のサンニャーシンが何故英語の翻訳書ばかり持ち歩いているのか意味が分からない。マハーアヴァタール・バーバーの直弟子であるマヘーシュワルナート・バーバージーともあろうものが、まさかヨーガやタントラの教義を当時入手可能な英訳書の範囲で学んだにすぎないのではなかろうか?と邪推させるに十分な列挙の仕方である。筆者としては出来ればまだ英訳されていないタントラ経典をせめて1冊ぐらいは使って講義して下さいと思うわけである。とは言え、百歩譲ってムスリムの家の出自で、サンスクリットなど知らない南部出身のシュリー・M氏の為にそうした英訳の書物ばかりを特別用意したという無理な仮説も成り立つのかもしれないけれども。
 そして、そもそも氏の書物の内容が全くもって薄過ぎるのである。英訳のそれ系の関連書を15冊も読めば、書けるような内容ばかりである。絶対にこれは他の本に書いていない情報だヤバいなこれ!あんたやっぱ免許皆伝の達人だわいという感想を読後に筆者が抱くような内容が全くなかったのは本当に残念であった。シュリー・M氏は、どうやら我々がワトスン博士レベルの推理能力もなければ読書家でもないと思っている節がある。筆者はかくて暗澹たる思いを募らせ、馬鹿にされたような気になってインド人や神秘家への不信が増すのを覚えるのである。彼らには、銃で撃たれた後に手術中に死ぬことになる友人を見舞にもいかずFaceTimeで話しただけだったことを後悔し自己嫌悪に陥ったケンドリック・ラマーぐらいの良心の呵責 さえもないのであろうか。とりあえず嘘をつくならもう少し用意周到に自己を韜晦すべきであろう。またスピリチュアルな方面に関心のある人は、人を疑うことを知らず、全ての良い面をなるべく見ようとする善良な人が多いのだから、こうした嘘八百で騙すのは止めて欲しいわけである。イエス・キリストはこうしたことを考慮して、求道者は鳩のように素直で、蛇のように狡猾であれと説いたのだった(筆者は幸運にも15歳の時に高校受験にわざと落第して、家で哲学書をひたすら一年間読みまくった中二病期があり、その時にニーチェから心理学と文献学を活用した邪推術を学んでいるので、他人の文章の背後に暗い心理的背景を読む癖が習慣付けられていて、その動機や典拠を確認し、確実に試罪法にかけるので、鳩のように素直に他人の文章を読んだりはしないのである)。

 かくて現代の野蛮なタントラ教徒である我々は、スワーミー・ラーマをカーラバイラヴァ神に、Kan.氏をマハーカーリー女神に、シュリー・M氏をチャンダー・カーパーリニー女神にご焼香よろしく人身御供として捧げたわけである。一同犠牲となって下さったお供え物の方々に感謝と合掌。これで我々の時空間を縦横無尽に駆け巡るインド中世一千年の歴史を向こうに回した、斬り取り勝手次第の大遠征もタントラの神々の加護の下で大成功すること間違いなしであろう。さあそれでは今回の記事の本題に入ろう。

 シヴァ教とヨーガの歴史研究に着手するにあたってまず装備を整えることが重要である。今の我々の手元にある装備は、第3章第21節 ~第3章第26節 で研究したナーローの六法に関する大まかな知識と、今後詳しく解説するが、筆者が以前翻訳して掲載しておいたジャーバーラ・ダルシャナ・ウパニシャッドにおけるヨーガの知識ぐらいなものである。これに現代ハタヨーガの知識とみんな大好きクリヤー・ヨーガの知識を補完することにより、大遠征の最初の装備品とすることにしたい。というわけで、我々は次回から詳しくクリヤーヨーガの技法を見ていくことにする。そういうわけであるから、差し当たって今回は、みんな大好きクリヤーヨーガをこの世界にもたらしたとされるマハーアヴァタール・バーバーとは誰かということに焦点を当てて論じていきたいと思う。

 マハーアヴァタール・バーバーの文献的な初出は、一般的にはパラマハンサ・ヨーガーナンダの『あるヨーギーの自叙伝』と見てよいであろう。そこでラーヒリー・マハーシャイにドゥワーラーハート近くのドローナギリ山の洞窟で伝家の宝刀クリヤーヨーガを授けた若いサードゥが、マハーアヴァタール・バーバージーとされる。不死身の聖者として言及されているがその実体について『あるヨーギーの自叙伝』では、イマイチ曖昧であり、写真はなく、ヨーガーナンダが画家に描かせたという筋骨隆々のマッチョな長髪のヨーギンの姿が一般的に流布している(顔から下はボディービルダーのヨーガーナンダの弟をモデルにでもしたのだろうか)。またそれ以降マハーアヴァタール・バーバーについてヨーガーナンダが作ったクリヤーヨーガを通信教育で広める団体SRFから何も新情報は出ていない。しかしながらヨーガーナンダの系統とは別の方面で、夢に出てきたという証言や、ヒマーラヤで実際に会った、クリヤーヨーガを実際に授かったという話はしばしば聞くわけだが、自己の箔付けや売名行為めいた胡散臭い印象が残るものが殆どである。とりあえずラーヒリー・マハーシャイを震源としてその弟子のシュリー・ユクテーシュワル・ギリ、ヨーガーナンダ、SRFへと続くクリヤーヨーガの団体とその周辺においてマハーアヴァタール・バーバー伝説が形作られていったわけである。



 しかし上記の正伝的系列とは別の方面において、ビハール州出身のマヘーンドラ・バーバーが幼年時代から自分の前に姿を現す謎のヨーギンの探索行の果てに至った結論というものがある。彼は、自分の前に度々現れる謎のヨーギンが、クマーウーン地方で1840年から1922年まで活動していたハイラーカーン・バーバーであり、彼こそがラーヒリー・マハーシャイにクリヤーヨーガを授けたマハーアヴァタール・バーバーその人であるという説を発表したのであった。この説について、クマーウーン地方の別の大聖者ニーブ・カラウリー・バーバーの弟子であるバーバー・ハリダースもその著書で賛同している※3。このマヘーンドラ・バーバー説は、クマーウーン地方を実地とし、フィールドワーク的に伝承を蒐集した結果に基づく説である。そもそもラーヒリー・マハーシャイもヨーガーナンダもクマーウーン地方出身ではなくよそ者である。従ってヨーガーナンダ系統のマハーアヴァタール・バーバー伝説は、クマーウーン地方にやって来たよそ者のお客さん目線というパースペクティブで形作られたものなのである。一方でマヘーンドラ・バーバーは、彼もビハール出身でよそ者とはいえ、クマーウーン地方の現地の多くの人々の証言から得た情報を基に綜合した結論であり、バーバー・ハリダースに至ってはクマーウーン地方の現地人である。
 このことから二つの説を大雑把に図式化すると、ヨーガーナンダ系統のマハーアヴァタール・バーバー伝説は世界規模に拡がった大きな物語に属する話だが、些か現地情報に乏しいきらいがある。そしてそれとは対極的にマヘーンドラ・バーバーやバーバー・ハリダースのハイラーカーン・バーバー=マハーアヴァタール・バーバー説は現地の地域限定、小さな圏内の物語に属する話ということになる。しかし当然のことながら大きな物語の方が小さな物語に対してより真実に近いということにはならない。


マヘーンドラ・バーバー


 ここで筆者の個人的な研究視点を加えることにする。筆者はだいぶ前からクマーウーンの大聖者であるソームバーリー・バーバーの伝記を翻訳しているのであるが、それはまさしく地域限定、地域密着型の物語に属している。それは全てクマーウーン地方の何々村の○○さんの話の連続からなる。しかしそこで現地人が信仰尊崇の対象としてあげる聖者(サント)の中でマハーアヴァタール・バーバーに言及されることは全くない。そこで尊崇の対象となるのは、ソームバーリー・バーバー、ハイラーカーン・バーバー、ニーブ・カラウリー・バーバー、グダリー・バーバー、モーハン・バーバー、ナーンティン・バーバーと言った聖者(サント)である。そしてドローナギリ周辺に纏わる聖者として語られるのは、ハイラーカーン・バーバーのみである。そもそもドローナギリには、ハイラーカーン・バーバーが作ったチェーッドゥ・アーシュラムがあり、現在も運営されているのである(Facebookにページあり)。



(チェーッドゥ・アーシュラム facebookより拝借

 筆者が翻訳したソームバーリー・バーバーの伝記からそのチェーッドゥ・アーシュラムを舞台にしたハイラーカーン・バーバーの物語を掲載する。
 
 
 バガヴァーン(ヴィシュヌ神)のクールマ(亀)の化身に関係するここクールマーンチャルは、シッダやサント達の行場の作られるところという栄誉を得ていました。幾多の偉大な人々がアートマンやパラマートマンの実現、クンダリーチャクラの覚醒のために、そしてこの土地のシッダ方とのダルシャンを目的にして、しばしば訪れたものでした。これらの名士達の中に、あるバンガーリー(ベンガルの一地方)の法廷弁護士がいました。この探究者の霊的なグルが帰梵(逝去)しました。それにより霊的チャクラのある箇所でその人の進歩が止まってしまいました。このチャクラの障害を彼は、プージャ・ソームバーリーのダルシャンによって除去することを望みました。アルモーラーに到着したところで、その人にパラムサント・ソーンムバーリーが帰梵したことが知らされました。その為、自らの探究の完成を目的に、彼はバラコート(バラトコート峰)のドローナ・ギリのバガヴァーン・ハイラーカーンのもとにやって来たところ、ダルシャンのみでそれは解決してしまったのでした。(この物語はソームバーリー・バーバーが帰梵した1920年以降の話である)※4
 
 ここでドローナギリ山周辺の地図を見て欲しい。

 左下にドローナギリの有名なドローナギリ・デーヴィー寺院があり、時計回りで左上のオレンジ色のところがマハーアヴァタール・バーバーの洞窟である。そして右上の灰色のオームマークがこの一帯の最高峰であるバラトコート峰であり、その右下の緑の地点がハイラーカーン・バーバーが作ったチェーッドゥ・アーシュラムの場所である。ただラーヒリー・マハーシャイがマハーアヴァタール・バーバーの洞窟でクリヤーヨーガのディークシャーを受けたのが1861年であり、ハイラーカーン・バーバーは当時、20代前半であるから、チェーッドゥ・アーシュラムの設立はもしかしたらもう少し後かもしれない。しかしマハーアヴァタール・バーバーの洞窟の近くにクマーウーン地方にその名を轟かせていた19世紀型ハイラーカーン・バーバーがアーシュラムを設立していたのは事実である。それはマヘーンドラ・バーバーの一番弟子であるギリダーリー・ラール・ミシュラの『From age to age』という19世紀型ハイラーカーン・バーバーの有名な伝記にも19世紀の主要なハイラーカーン・バーバーの五つのアーシュラムの一つとして挙げられているものである。


ラージャスターン州アルワルのラージャグルの家系に生まれ、マヘーンドラ・バーバーの一番弟子となり19世紀型ハイラーカーン・バーバーの伝記を残した裁判官のギリダーリー・ラール・ミシュラ

 因みにSRFは、マハーアヴァタール・バーバーとハイラーカーン・バーバーは別人物だと公式に言及している。さらに厄介な問題として、「20世紀型ハイラーカーン・バーバー偽物説」がある。それは19世紀型ハイラーカーン・バーバーは本物の聖者だが、1970年に出現した20世紀型ハイラーカーン・バーバーは、その聖者を騙るネパールからやって来たゴロツキのろくでもない偽物であるという説である。筆者は今回の旅で19世紀型ハイラーカーン・バーバーの系統として古くに設立されたヴリンダーヴァン・アーシュラム、ハルドワーニーのカトガリヤー・アーシュラム、シーターラケートのシッダ・アーシュラムを訪問したが、これら19世紀型ハイラーカーン・バーバーのアーシュラムのプジャーリーも帰依者も一様に19世紀型ハイラーカーン・バーバーと20世紀型ハイラーカーン・バーバーを同一視しているのである。つまり19世紀型ハイラーカーン・バーバーの本当の帰依者達には、様々な手段を使って20世紀型ハイラーカーン・バーバーが、自分は19世紀型ハイラーカーン・バーバーと同一人物であるということをそれぞれに個人的に示したのであった。従って19世紀型ハイラーカーン・バーバーの帰依者で20世紀型ハイラーカーン・バーバーとの同一性を疑う者は皆無なのである。そしてそれを疑っているのは、19世紀型ハイラーカーン・バーバーの帰依者以外の外野達なのである。

ヴリンダーヴァン・アーシュラムにてハイラーカーン・バーバージーとマヘーンドラ・バーバーの像とプジャーリー(筆者撮影)

カトガリヤー・アーシュラムのバーバージー像(筆者撮影)

カトガリヤー・アーシュラムのプジャーリー(筆者撮影)


シッダ・アーシュラムのバーバージー像(筆者撮影)

シーターラケートのシッダ・アーシュラムのプジャーリー(筆者撮影)

 次に我々はマハーアヴァタール・バーバー伝説の世界展開を見ていこう。ヨーガーナンダ系のマハーアヴァタール・バーバー伝説の舞台は、ラーヒリー・マハーシャイがマハーアヴァタール・バーバーに邂逅したドローナギリ山周辺であり、これは北部インドの話である。またマハーアヴァタール・バーバーとも目されるハイラーカーン・バーバーは、ハルドワーニーやアルモーラー、ドローナギリなどのクマーウーン地方周辺で活躍した北部インドのサント(聖者)である。いずれにしてもこの両者の伝承は北部インドが中心なのであるが、この北部インドの聖者伝説とも言うべき内容が、南部インド出身のヨーギー・ラーマイアとその弟子のアメリカ人M・ゴーヴィダン・サッチダーナンダによって南部インドのシッダ伝承に包摂され、1991年に『ババジと18人のシッダ』として出版されることとなる。




 ここからマハーアヴァタール・バーバーの出生地はインド南部ということになり、インド南部の聖者として取り扱われるということが始まるわけである。しかしながら良識ある読者が一読すれば判ることだが、この書は学問的な批判に耐え得ぬ典型的なトンデも本の類いである。著者自身は非常に正直で誠実にヨーガを修業するアメリカ人ではあるが、如何せん理知に欠けるきらいがあり、物事を批判的に見ることが出来ず、インドの正確な歴史や地域性を無視して全て一緒くたにして、時空間を飛び越えた寄せ集めの18人からなるシッダの系列を南部インドの伝承を中心に綜合し、その系譜を並べ立てるのだ。以前も言及しているが彼のクリヤー・ヨーガの師であるヨーギー・ラーマイアは、典型的なインド的サイコパスグルである。彼はマハーアヴァタール・バーバーにクリヤー・ヨーガを伝授されたと称して1968年に渡米し、弟子を取ってクリヤーヨーガを弘めるわけであるが、その過程でこともあろうか、弟子の『ババジと18人のシッダ』の著者であるM・ゴーヴィダン・サッチダーナンダと当時付き合っていたガールフレンドを別れさせ、そのガールフレンドと自ら肉体関係を持って子供を作った挙げ句、その後まもなくその女性はヨーギー・ラーマイアのもとに赤ん坊を置き去りにして逃げ去るという醜聞事件を起こすような人間なのである。このような事件やM・ゴーヴィダン・サッチダーナンダが語る師匠との他の逸話から透けて見えヨーギー・ラーマイアは、典型的なインドの自分勝手で利己的なサイコパスグルである。こうした師匠にも関わらずお人好しのM・ゴーヴィダン・サッチダーナンダは、彼女と別れさせられた揚げ句、師匠が彼女と肉体関係を持つのも、自分のグルに深い考えがあってのことであり、自分達の執着を破壊する為なのだと典型的なマインドコントロールされた意味不明な論法でもって自分を納得させる始末である。ともかくM・ゴーヴィダン・サッチダーナンダはそういう意味では普段の生活でも、書物の内容においても「鳩のような素直さ」はあっても「蛇のような賢さ」が全くない嘆かわしい状態なのは確かである。個人レベルなら鳩のように素直で蛇のような賢さのない人間だとしても、師匠に彼女を奪われるぐらいのプライベートな問題ですむだろうが、これが書物を著す段になるとその弊害や影響は大きくなる。なぜなら多くの無知な人々は、批判的に検討することなく書かれた本を鵜呑みにするから。そしてその結果、ヨーギー・ラーマイアからM・ゴーヴィダン・サッチダーナンダに伝わるマハーアヴァタール・バーバー伝承があたかも正しいもののように取り扱われて、英語でも日本語でもWikipediaに記載され、マハーアヴァタール・バーバーの正史として取り扱われている始末なのである。これを我々はヨーギー・ラーマイア南部シッダ伝承と呼ぶことにしよう。



 続いて、20世紀型ハイラーカーン・バーバーが、ヨーガーナンダの『あるヨーギーの自叙伝』に於けるマハーアヴァタール・バーバーの記述に関してどのように言及しているかをみていこう。1980年出版の『USAヨーガ・ジャーナル』のインタビュー。
 


質問者:『あるヨーギーの自叙伝』において、「汝が我が名を尊崇の念と共に唱えるなら、汝は我が祝福を得るであろう」と書いていますが、これをあなたは聞いたことがありますか?

バーバージー:全く完全に。
 
質問者:アメリカでクリヤーヨーガの修練をしているヨーガーナンダの帰依者達に何か特別なメッセージはありますか?
 
バーバージー:何もメッセージはない。全てがクリヤーの実践なのだ。ここにいる全ての者がクリヤーを実践している。
  
質問者:現在においてクリヤーとは何ですか?

バーバージー:現在ではナーム・ジャプである(ヒンディー語で名号のジャパの意)。
 
質問者:『あるヨーギーの自叙伝』のあなたに関することで、あなたの姉妹(マータージー)に関すること以外は全て真実であるとあなたがおっしゃられていたと私は聞いたことがあるのですが、あなたに姉妹はいらっしゃいません。私の聞いたことは本当ですか?
 
バーバージー:馬鹿げたことだ。あれは10パーセントだけが本当で、90パーセントは出鱈目である。
 
質問者:これ書いちゃっていいんですか?
 
バーバージー:書くべきである(バーバージー頷く)。
 

マヘーンドラ・バーバーの一番弟子のギリダーリー・ラール・ミシュラの兄で同様にマヘーンドラ・バーバーの弟子であったシャーストリージーことヴィシュヌダット・ミシュラと楽しそうに談笑する20世紀型ハイラーカン・バーバー
 

 地域限定小さな物語の当事者である20世紀型ハイラーカーン・バーバーは、ヨーガーナンダの『あるヨーギーの自叙伝』のマハーアヴァタール・バーバーの内容は、10パーセントのみ正しく、後は間違った内容であると断言しているのである。ますますこれではSRFとの溝が深まるばかりである。しかし、よくよく考えてみれば誰一人ヨーガーナンダのマハーアヴァタール・バーバーの記述について疑うことを知らないというのは、ヨーガーナンダの高潔な人格のなせる技ではあるが、こうしたヨーガーナンダ無謬説も問題であろう。何故ならヨーガーナンダは当事者ではなく、一方の当事者であるラーヒリー・マハーシャイの孫弟子であるから。つまりヨーガーナンダのマハーアヴァタール・バーバー伝説は、又聞きなのである。
 


 それでは大雑把にマハーアヴァタール・バーバー伝承について時系列順にまとめることにしよう。
 1861年にラーヒリー・マハーシャイがクマーウーン地方のドローナギリで若い謎のサードゥに会い、クリヤー・ヨーガの伝授を受けて、その若いサードゥをマハーアヴァタール・バーバーと呼んだのが事の発端である。ついでその孫弟子にあたるヨーガーナンダが1946年に『あるヨーギーの自叙伝』を発行し、マハーアヴァタール・バーバーの名が、ラーヒリー・マハーシャイの弟子など内輪でのみ知られていたところから、一気に世界規模で知れ渡るようになる。1950年前後にマヘーンドラ・バーバーが自分の前に幼年時代から何度も姿を現す謎のヨーガ行者を探索調査した結果、彼が1922年に姿を消したハイラーカーン・バーバーであることを知り、各種の地元民の証言などからハイラーカーン・バーバーこそが、ラーヒリー・マハーシャイの言うマハーアヴァタール・バーバーであると結論づける。1970年にハイラーカーン・バーバーと名乗る青年がハイラーカーンの洞窟に現れ、徐々に19世紀型ハイラーカーン・バーバーの帰依者やマヘーンドラ・バーバーの帰依者などを呼び寄せて、様々な証しにより、彼が19世紀型ハイラーカーン・バーバーと同一人物であることを帰依者達が認めるようになる。また自分がラーヒリー・マハーシャイの師であること、マハーアヴァタール・バーバーの『あるヨギの自叙伝』の記述は10パーセントぐらいしか正しくない旨の説明をしぶしぶ行う。1975年にアメリカに渡ったニーブ・カラウリー・バーバーの弟子のバーバー・ハリダースが19世紀型ハイラーカーン・バーバーの伝記を発表する。またヨーガーナンダの作った団体であるSRFはハイラーカーン・バーバーはマハーアヴァタール・バーバーではないと否定する。1991年にインド南部出身のヨーギー・ラーマイアの弟子のアメリカ人M・ゴーヴィンド・サッチダーナンダが『ババジと18人のシッダ』を発表し、マハーアヴァタール・バーバーはインド南部のシッダ系統の聖者であると記述する。またそれ以降も様々な人々がマハーアヴァタール・バーバーに出会った、或いは自分のグルであると述べている状態が今日まで続いている。例えば、インド洋に浮かぶモーリシャス島出身で近年ドイツで活動するインド系のパラマハンサ・ヴィシュワーナンダは、自分のグルはマハーアヴァタール・バーバーであると述べている。またアメリカのスピリチュアルブームの火付け役でもあるTM瞑想の教師であったボブ・フィックスは、チャネリング(日本でいうイタコ)能力を用いてマハーアヴァタール・バーバーと繋がりフルフィルメント瞑想を授かったと称しタイで活動している。最近のインドではムスリム出身でナート派のマヘーシュワルナートの弟弟子シュリー・Mことシュリー・マドゥカルナートが、自分の兄弟子であるマヘーシュワルナートは、マハーアヴァタール・バーバーの直弟子で自分も過去世でマハーアヴァタール・バーバーの弟子であり、ヒマーラヤでマハーアヴァタール・バーバーに会ったということを2010年に出版した『Apprenticed to a Himalayan Master』で述べている。

 ここまでのマハーアヴァタール・バーバー説と論点をまとめる。
 
①《大きな物語としてのヨーガーナンダによる正伝的マハーアヴァタール・バーバー説(又聞き)》

②《小さな地方的物語としてのマヘーンドラ・バーバーによるフィールドワーク的伝承蒐集によるハイーラーカーン・バーバー=マハーアヴァタール・バーバー説》

③《ヨーギー・ラーマイアによるマハーアヴァタール・バーバー南部シッダ系統説》

④《SRFによるハイラーカーン・バーバー≠マハーアヴァタール・バーバー説》

⑤《20世紀型ハイラーカーン・バーバー偽物説》

⑥《20世紀型ハイラーカーン・バーバーによるヨーガーナンダの正伝的マハーアヴァタール・バーバー伝承90パーセント誤謬説》

 現在のところヨーガーナンダとSRFの主張が立場上、最初の言い出しっぺに当たり最も権威付けされている。その為、①と④の面子を立てて②で問題とされるハイラーカーン・バーバーを位置づけようとする折衷案として、マハーアヴァタール・バーバーは、ハイラーカーン・バーバーのグルであるという⑦《マハーアヴァタール・バーバー=ハイラーカーン・バーバーのグル説》というものも出てきている。この⑦については、20世紀型ハイラーカーン・バーバーが、1970年に裁判所の出頭に応じて述べた話の中で、自分は1970年時点で130歳であり、自分は6歳から10歳までシッダ・バイラヴ・バーバーに育てられ、バイラヴ・バーバーより10年間サットサングを受けてヨーガを学び、10年ぐらいソームバーリー・バーバーとパダムプリーで過ごし、モーハン・バーバーのところにも通っていたと証言している。そうなると⑦説に基づけば、このバイラヴ・バーバーが、マハーアヴァタール・バーバーということになろう。ただそのハイラーカーン・バーバーがヨーガーナンダの説は、10パーセントは真実であると請け合っていて、ラーヒリーにクリヤー・ヨーガを教えたのは自分であると証言し、さらにマヘーンドラ・バーバーと自分は常に一緒にいて、ラーヒリーはマヘーンドラ・バーバーに比べれば、近しい弟子とは言えないとも言っているのである。筆者はハイラーカーン・バーバーの弟子なので、身内贔屓にならざるを得ないが、ドローナギリのチェーッドゥ・アーシュラムの位置と筆者の翻訳しているソームバーリー・バーバーの伝記において、マハーアヴァタール・バーバーという存在が、信仰心の篤いクマーウーンの聖者オタクの間で全く言及されず知られていないということ、モーハン・バーバーとも親しいナーンティン・バーバーが⑤の20世紀型ハイラーカーン偽物説を否定し、19世紀型ハイラーカーン・バーバーのアーシュラムのプジャーリー達や帰依者が20世紀型ハイラーカーン・バーバーが本物であることを当然のこととしているところからも、20世紀型ハイラーカーン・バーバーの⑥の話にはかなりの蓋然性の高さが認められるのである。ちなみにマヘーンドラ・バーバー=ハイラーカーン・バーバー派では、マハーアヴァタール・バーバー伝承に関してはそれ程こだわりがないのが実情である。何故ならマハーアヴァタール・バーバーだからハイラーカーン・バーバーに帰依しているのでは全然なくて、ハイラーカーン・バーバーはハイラーカン・バーバーでしかなく彼に単純に帰依しているだけだからである。


左の少年 ナーンティン・バーバー、中央 ゴークル・ダース・バーバー、右 モーハン・ダース・バーバー

 
 

バヴァーリーのナーンティン・バーバー・アーシュラム(筆者撮影)

 ヨーガーナンダ系統の大いなる物語としてのマハーアヴァタール・バーバーの物語は、SRFの外側の全く関係のないところにおいて補完されることしばしばであるが、残念ながらクリヤーヨーガの正統を伝える彼らの系統の内部においては殆ど新しい進展や情報がないように思われる。その正統なサークルにおいてマハーアヴァタール・バーバーは沈黙しているかのようである。そもそもその物語自体が、ハイラーカーン・バーバーが言うように実際に較べると聖者への尊崇の念によって肥大した物語なのではないだろうか。筆者が2年半前に実際にマハーアヴァタール・バーバーの洞窟に行って感じたのは、この洞窟にあのマッチョなマハーアヴァタール・バーバーが座っていたとは到底思えないという感覚であった。しかし19世紀型ハイラーカーン・バーバーの写真を加工して長髪にしたサードゥなら座ってそうな雰囲気ではあった。


ヴァーラーナスィーのラーヒリー・マハーシャイの家のバーバージー像(筆者撮影)

 またドローナギリ周辺は、ケーダールナートやバドリーナートなどに比べれば、比較的低い山並みが続く牧歌的なクマーウーンの丘陵地帯に過ぎない。そこに住む村人達からしてみれば、マハーアヴァタール・バーバーに、ラーヒリー・マハーシャイ、また他に幾人もの弟子達が一緒にいたことが『あるヨーギーの自叙伝』に記載されているのだから、そのグループは、山の生活を営む現地の村人達にとってだいぶ奇抜な集団として目立っていただろうと思われる。そこは人々を寄せつけない峻厳なるヒマーラヤの高山地帯ではないのである。

以前の筆者も含めてどうしてもロマンチックなスピリチュア​リストは『あるヨーギーの自叙伝』を読んでこういう場所を想像しがちだが残念ながらドローナギリ周辺はこういう感じではない


マハーアヴァタール・バーバーの洞窟からの周囲の風景

 そうした状況でラーヒリー・マハーシャイがマハーアヴァタール・バーバーと共に生活したのは僅かな期間で『あるヨーギーの自叙伝』によればだいたい10日ほどである。ラーヒリー・マハーシャイ系列以外になぜ別系統としてマハーアヴァタール・バーバーと現地の人々との交流の話がないのかも疑問である。そしてその一帯には19世紀型ハイラーカーン・バーバーが多くの足跡を残していたのである。筆者は、マハーアヴァタール・バーバーに対する多くの人々のロマンチックでセンチメンタルな憧憬や信仰心を破壊したいとは思わないのだが、それが虚偽と自らの権威付けに利用されようとするのを見るにつけ「ダンダー・ウターオー(डंडा उठाओ)」の声と共にダンダー(杖)を立てざるえないのである。

ドローナギリ・デーヴィー寺院(筆者撮影)

マハーアヴァタール・バーバーの洞窟を望むチャイショップにて(筆者撮影)

 
マハーアヴァタール・バーバーの洞窟(筆者撮影)

 今回の記事の最後は、なぜマハーアヴァタール・バーバーは、ラーヒリー・マハーシャイにプラーナーヤーマを使ったクリヤーヨーガを伝授し、20世紀型ハイラーカーン・バーバーは、その方法を取らず、現在におけるクリヤーヨーガとは、ナーム・ジャプであると言っているのかということについて一言述べておくことにしよう。インドの中世一千年史が抜け落ちている状態で、『ヨーガ・スートラ』と『ハタヨーガ・プラディーピカー』しか知らない人にはナーマ・ジャパに価値を見出だすのは難しいであろう。しかしインドの中世の千年に及ぶ、アレクシス・サンダーソン教授がシヴァ教の時代と定義した時代は、方法論的にはマントラ(真言)の時代であった。アティ・マールガにおけるパーシュパタ派からマントラ・マールガにおけるシャイヴァ・シッダーンタやカウラ派に至るまでその修業の根本にはマントラ・ヨーガがあった。つまりハイラーカーン・バーバーは、シヴァ教の歴史において、一番基本となるヨーガの方法を説いているに過ぎないのであり、クリヤーヨーガはマントラ・ヨーガに比べれば後発のハタヨーガ的技術なのである。このことを我々は次回より見ていくであろう。

※1  हरिश्चन्द्र मिश्र 『उत्तराखंड की अनन्य विभूति  सोमबारी महाराज』 विश्वविद्यालय प्रकाशन  2007 p32 p52 p57
※2  Sri M『Apprenticed to a Himalayan Master   A yogi's autobiography』 Magenta Press 2010 p176  因みに青木光太郎訳では『ハタヨーガ・プラディーピカー』の書名に脱漏あり。
※3 Baba Hari Dass 『Hariakhan Baba  Known, Unknown』Sri Ram Foundation 1975 p25-27
※4 『उत्तराखंड की अनन्य विभूति  सोमबारी महाराज』p32