第3章 第21節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む


अघोरेभ्यः ॥२१॥


aghorebhyaH ॥21॥
 

【アゴーラ達に[1]】
 
 
[1]aghoraは、否定のa+ghora(恐ろしい)で「恐ろしくない者」という意味であり、その複数与格である。アゴーラとは、畏怖神であるルドラ神の無畏の相を表すと考えられる。ここでaghoraというと、死人の肉を食べ、酒を飲み、骸骨で身を飾り、火葬場に住むカーパーリカの流れを汲むアゴーリーを思い起こす人もいらっしゃるかもしれない。


    実際にアゴーリーとは恐ろしくない奴らなのである。何故なら本当に恐ろしい奴らというものは、とりわけ人肉を食べて強くなりたいとか、骸骨で身を飾って人を驚かそうなどとは思わないからだ。一般的には弱いから、また恐ろしくないから、臆病であるから、恐ろしさを演出し、おどろおどろしく着飾りたがるのである。だいたいアゴーリーといった連中などは、古流柔術二段の筆者が後ろから黙ってつかつかと近づいて、サバイバルナイフでグサリとすればイチコロである。とは言えこれはあくまでも筆者の悪い冗談であるアゴーリージョークではあるが。







 それではナーローの六法の研究を、ツォンカパ著『チベットの密教ヨーガ 深い道であるナーローの六法の点から導く次第、三信具足』(ツルティム・ケサン、山田哲也共訳 文栄堂)をもとに再び行うことにしよう。

 ナーローの六法を学習するには様々な前提条件がある。まず大乗の二乗、波羅蜜乗と真言乗の「共通の道を学習することはこの流儀にも必要である(P55)」という。そしてその為には大乗の師匠に師事する必要があり、菩提心を持ち、菩薩戒を授持し、六波羅蜜を学習し、「止(シャマタ)によって心を軽安(調伏)することと、般若波羅蜜の本質である諸法は幻と虚空の如しと了解する観(ヴィパシャナー)を学習すべきである(P59)」。次に、「金剛乗の三昧耶(サマヤ)と戒(サンバラ)を背負う(P59)」ことが必要である。その為には母タントラの『ヘーヴァジュラ・タントラ』か『チャクラ・サンヴァラ』の灌頂を最初に受けることが必須であるとされている。灌頂については、
 
 
灌頂は悉地(シッディ)の根本であり、それなしにタントラの意味を理解してから、道にいくら集中しても優れた悉地を得ることはありえないし、それは〔悉地〕得ることがないという過失のみ尽きるだけでなく、たとえ僅かな悉地を得ても師弟の両者が地獄に落ちる。(P65)
 
 
という風に必ず金剛乗の灌頂(アビシェーカ)を受けることが厳しく義務付けられている。つまり金剛乗の師匠の許可なく、勝手にナーローの六法を修業すると地獄に堕ちるとされているのである。ということで我々ナーローの六法洞窟探検隊は、洞窟入口の「入るな危険、絶対ダメ!」の立て看板の前に立たされてしまったようである。


 今生での筆者は、タントラの門外漢なのでアビシェーカを受けたのは、覚えている限りでは、インドのジャールカンド州の十二のジョーティルリンガの一つであるバイディヤナートのリンガムの前で、案内してもらった僧侶のオッサンにジョーティルリンガごとガンガーの水を大量に浴びせられてアビシェーカされたことがあるくらいである。しかしこれはガンガーの水を浴びせられたにせよ、入門儀礼としてのアビシャーカではないので、本人確認書類に保険証か運転免許証を持ってこいと言われて、電気代の領収書を持ってくるぐらい豚珍漢なお門違いの提出物である。では過去世での灌頂ならどうか?しかし書物に灌頂の有効期限が死後、中有を経て、再生するまで継続するとは言われていないので、これもどうやら怪しいし、筆者は母タントラ系の灌頂を過去世で受けたかどうか覚えていないのでますますもってダメである。そもそもこうした入門儀礼としての密教の灌頂(アビシャーカ)だとか、ヒンドゥーの伝授(ディークシャー)だとかはだいぶうるさく言われるのである。あの形式なんかどこ吹く風といったラマナ・マハルシでさえ、マントラは力のある師匠に伝授(ディークシャー)されてないと無効であると言っているくらいであるから。
 
 
質問者:自分で選んだ聖なるマントラを繰り返し唱えても、恩恵を受けることはできるのでしょうか?
 
マハルシ:できません。マントラは師から伝授されなければならず、またその人はそれにふさわしいだけの力量を持っていなければなりません。
 
『ラマナ・マハルシとの対話 第1巻』ムナガーラ・ヴィンカタラーマイア記録、福間厳訳 ナチュラルスピリット P17


 ここでこのディークシャーに纏わる筆者の物語があるので、それを頼まれもせで自分語りしちゃいたいと思う。筆者は基本的にシヴァ・マントラ(aum namaH zivaaya)一本槍のマントラ・マールガ(マントラ道)の人であるが、まだ自分のグルが誰なのかも曖昧で、多分ハイラーカーン・バーバーなのだろうなと心許ない時期のこと。インドの西海岸のリゾート地のゴアで遊んでいた筆者は、その当時でもシヴァマントラは一千万回ぐらい唱えていたと思うが、ふと上記のラマナ・マハルシの言葉を思い出してナーバスかつブルーになっていた。「どうせディークシャーも受けてないのにマントラなんか唱えても無駄なんだ!」みたく心にゴアの秋風ぞ吹く感じで心乱して就寝したわけである(ちなみにシヴァマントラは、誰にでも開かれたマントラなんであまり実際は小難しいことを考えなくてもいい)。
 すると普段夢もほとんど見ない、熟睡タイプの筆者の枕元に聖者らしい二人コンビがうとうととする中でやってきたのであった。不思議なのは、もし仮に夢をみれば、筆者の場合スタートから別のどこかのシーンになるわけだが、この時は筆者は寝ていて、枕元に立っている状態の夢であった。これはつまり今までの人生で一度きりのよく言う枕元に立たれた経験ということになろう。付き人のような聖者が盛んにボスである聖者に筆者のことを執り成してくれている。「この者はディークシャーを授けられていないと言っています。ディークシャーを授けてやって下さい」。ボスが威張る「この者には既にディークシャーは授けてある!」「しかし授かっていないと言っています。ディークシャーを与えてやって下さい」「この者には既にディークシャーを授けてあると言っておろう。何故二度も授ける必要があるのだ!」そう言ってボスはつかつかと筆者の横にやってきて思いっきり筆者の肩をぶっ叩いた。「これがディークシャーだ!これで満足か!」。かくて枕元に立った二人の聖者は消えていった。言うまでもなく、うとうとと夢うつつの状態のなか、ラマナ・マハルシのせいでナーバスな筆者の前で掛け合い漫才をして、執り成してくれていたのが、ジャガダンバー(世界母神)の化身とされるマヘーンドラ・マハーラージであり、肩叩きディークシャーをしてくれたボスというのが、シヴァ神の化身であり、自己申告では過去世でマルパの弟子の大行者ミラレパであったと言っているハイラーカーン・バーバーなのであった。

(ジャガト・アンバー(世界母神)の化身とされるマヘードラ・マハーラージ)




    どうやら筆者は筆者の知らないところで既に一度ディークシャーを受けていたようなのである。この肩叩きディークシャーについては、ラマナ・マハルシも

書物は非常に多くのディークシャー(イニシエーション)があると述べています。すなわち、ハスタ・ディークシャー(手による)、スパルサ・ディークシャー(触れることによる)、心のディークシャーなどです。そしてグルは火、水、ジャパおよびマントラによる若干の儀式を執り行います。(P283)
 
ポール・ブラントン、ムナガーラ・ヴィンカタラーマイア記録 柳田侃訳『不滅の意識 ラマナ・マハルシとの会話』ナチュラルスピリット
 

と述べているので一般的なディークシャーのようである(夢の中だが)。というわけでハイラーカーン・バーバーの本人申告が正しいとすると、筆者は過去世でミラレパであった人から2回ディークシャーを受けているようなのである。



   しかし筆者が受けたのは、夢の中でのディークシャー(伝授)であって、金剛乗のアビシェーカ(灌頂)ではないと言ってしまえばそれまでである。やはりナーローの六法を修業するのはダメなのだろうか?しかし心配する必要はない。ご禁制の教えの密輸入業者である一人シンジケートの筆者の手にかかれば、このアビシェーカ問題をスルーすることができそうなのである。ここで筆者はナーローの六法の代替案を出す。すなわち『ジャーバーラ・ダルシャナ・ウパニシャッド』である。これは、ナーローの六法の異母兄弟とも言うべきプレハタヨーガ期のもう一方の金字塔である。筆者の現時点での鑑定を述べるなら、まず前回の記事で述べた『八十四人の密教行者』に述べられている人々は、主に8世紀から続く仏教王朝であった東ベンガルのパーラ王朝の時代に生きた人々の記録が中心となる。そして彼らのもとでプレハタヨーガ期の究竟次第の集大成ともいうべきナーローの六法が発達したことは前回見てきた。しかしそうした百花繚乱の観を呈するタントラ技法の花々もイスラーム勢力の侵攻と共に1203年のヴィクラマシーラ大僧院の破壊を最後としてインド亜大陸から露と消えていったわけである。しかしその教えの命脈は一方でマルパ翻訳官と共にヒマーラヤを越えてミラレパ、ガムポパとチベットにおいて教えを維持する一方、もう一方の流れが、恐らく『ジャーバーラ・ダルシャナ・ウパニシャッド』の無名著者が第4章で頭頂部に位置させていた、筆者も行ったことのある12のジョーティルリンガのマリッカールジュナで有名なアーンドラプラデーシュ州のシュリーパルヴァタことシュリーシャイラなどにも伝播していて、この無名著者にもその技法がそうした地を起点に伝わったと推測されるのである(この地は当時、オリッサ地方の東ガンガー朝や、この地のカーカティーヤ朝の存在によりイスラーム軍の侵入を堅く阻んでいた)。そして『ジャーバーラ・ダルシャナ・ウパニシャッド』の技法は、ほぼナーローの六法のチャンダーリーの火の技法に等しいのであり、その教えに文面上アビシェーカやサマヤ戒は抵触してこない。すなわちあくまで『ジャーバーラ・ダルシャナ・ウパニシャッド』の技法を修業し、参考としてナーローの六法を学ぶのだという体で推し進んで行けば、我々はこのナーローの六法洞窟の「入るな絶対ダメ」という禁止令を、一休さんよろしく越えて行ける算段となるわけである。

(シュリーシャイラ 筆者撮影)

    であるからして開けゴマのマントラと共に我々はアリババよろしく堂々と先に進むことにしよう!と言いたいのだが、しかし筆者の詐欺師の如き論法に乗せられそうになっても、心配症の人はサマヤ戒について心配することもあろうかと思われるので続いてサマヤについて見ていこう。サマヤ(戒)とは何か言うと、ジュニャーナーカラの『真言入注釈』によれば①正見を具すること②三宝(仏・法・僧)を捨てないこと③菩提心を具すること④灌頂を捨てないこととされる(高田仁覺『三昧耶戒について インド・チベットの真言密教の場合』 印度學佛教學研究 1980 28巻2号)。すなわち、外道であるラマナ・マハルシやハイラーカーン・バーバーの語るヒンドゥーの教えに従ったりせず、また灌頂を受けていない者は、このようなことを教えたり習ったり修行しないということである。つまり秘密の教えなのであるから秘密は守られねばならず、その上で仏教を固く信仰し、灌頂は必ず受けるというのがその内容である。従って、中村元訳の『スッタニパータ』片手に「金剛乗の真言密教なんか、お釈迦様は言ってないんですよ」といった中学生時代の筆者のような原始仏教原理主義的思想や、「あれは堕落したシャイヴァかシャークタ的仏教であり、お釈迦様が聞いたら卒倒する類のものだ」などと冗談でも言ってはいけないのである。このようなことを言う奴は三昧耶的観点から言えば全員、正法を誹謗する地獄行きの輩なのである。従って学門の名の下に言いたいことをいい、全ての知的財産は人類全体の共有財産であるといったアナーキスト的自由学問の見地から言うとサマヤは中世の遺物のようにも思われるわけである。またそれは「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である」という岩波書店の創始者、岩波茂雄の理念に抵触するものでもある。

    岩波文庫を乳粥とし、ちくま学芸文庫を離乳食として育った筆者としては、知的財産権すら廃止の方向に向かうべきという極端なアナーキストでもあるので、サマヤ戒に抵触するより、岩波茂雄の戒律ことシゲオ戒に抵触することを極端に恐れるものである。またもっと未来に視野を広げれば、あと500年ぐらいの間で人類の数パーセントぐらいは、ソーンバーリー・マハーラージのいう集合的知性のプールであるアーカーシャ・ガルバこと、アカシックレコードに自由にアクセスできるシッディを身につけるようになると考えられる。またアカシックレコードへの自由アクセス能力とインターネットの二大ネットワークが発達する時代において、知的財産権の保護といった21世紀的なことを言っていたら25世紀の人に笑われるというものである。そういうわけであるからサマヤ戒の問題はなかなか現代においても難しい問題なのであるが、しかし集合的知性のプールにアクセスできる25世紀の人にはそれは問題にならない。我々は、言うまでもなく未来を志向し、人々を自己の利益に従属させる昭和、平成のケチ臭い資本主義的ジャスダック脳を有するじいさん共を越えて前進しなくてはならないのである。
 話を戻そう。我々はナーローの六法を学ぶ条件として波羅蜜乗と真言乗の二乗を学習し、金剛乗のグルにつき、止観の二大瞑想を修め、母タントラの灌頂を受け、サマヤの必要性について確認してきた。続いて必要なこととして、「罪と障を清めるために金剛薩埵の瞑想と念誦(P67)」の実習とグル・ヨーガの修習である。これは目的が罪を清める為のものであり、カルマがある程度浄化されることを目標とする。この二つはそれだけでも、きちんと独立した瞑想方法であり、正直、この二つのどちらかをひたすら死に物狂いで死ぬまでやり続けていれば、それで十分じゃね!?という類のものである。しかしこれを説明しているとそれだけで日が三回暮れて、一つ分の記事が潰れてしまうので今回は泣く泣く省略することにする。興味のある方はググれば出てくるはずなのでそれで学習して頂きたい。
 続いての条件として『秘密集会タントラ』などの生起次第を学習し、その後に『ヘーヴァジュラ・タントラ』や『チャクラ・サンヴァラ・タントラ』などの究竟次第の流儀を通してナーローの六法を学習すべきことが語られる。さらにナーローの六法は身体に内的な火を点火する修業なので、身体が硬く、自由さがないと身体を壊す危険があるのでトゥンコルとトンラを観想することが必要とされる。トゥンコルは、三宝に帰依し、発心すること、ラマを頭上に観想し、自分は本尊であるヤブユム像であると瞑想して、後に身体をチベット式ハタ・ヨーガであるルジョンでほぐすというものである。トンラは自分をイダム(本尊)として瞑想し、頭頂から足の裏まで子宮を膨らませたように空っぽの状態であると観想し、ルジョンを行うのである。この観想は非常に重要である。


 
 それではルジョンとは何かというと六つある。

①壷のように一杯にすること
 
心地よい楽な格好で座り、背中を伸ばす。両手を膝におく。息を右の鼻の穴から吸って左を見て、ゆっくり全部吐き出す。逆も同様。続いて両鼻から吸って前を向いて吐き出す。これを1セットで全部で九回行う(筆者の体感では、片方の鼻で吸って逆を向くと、首をねじることで逆側の気道が閉まるので、吐き出す時は同じ鼻の穴から息が出るはずである、例、右鼻で吸うとイダー気道に息が入る。左側を向くとピンガラー気道が閉まる。従ってイダー気道経由で息は右鼻孔を通じて出る)。次に両手の親指を内に曲げる(蓋しこれは肺経を不活性化させる為と考えられる、それにより中央脈管を活性化させるのであろう。親指を曲げると正中線の意識が強くなるが、親指を伸ばすと肺が活性化する為、正中線の意識はぼんやりと膨らむ)。正面から息をゆっくりと吸い込む。臍の当たりで息を保持し、そのまま臍の当たりに向かって意識して唾を飲む(唾液の重みで息が臍の所で固定されたようにイメージすると分かりやすいであろう、『ジャーバーラ・ダルシャナ・ウパニシャッド』では「舌に風を置き甘露を飲み、臍にゆっくりと拘束すべき」とある)。そして次に下の気であるアパーナ気を臍に向かって強くなく引っ張って合わせる(なんならこの時、大腸経が繋がる人差し指と小腸経が走る小指を立てた方がよりアパーナ気は指へと向かって活性化して上向しようとするはずなのでいいかもしれない。そしてこのムドラーはインドではそのままアパーナ・ムドラーと呼ばれる。すなわち狐の形の若干変化形である。ムーラバンダしなくてもこのムドラーだけでアパーナ気は上がる。逆にいうとムーラバンダしてもムドラーがめちゃくちゃだとブレーキとアクセルを同時に踏み込んでいることになるので労のみ多く、効少なき真の苦行となる。しかしこれはチベット人と日本のヨガ愛好家とインド人には内緒である。ちなみに小指を立ててカラオケで歌うのは小腸経と心経を無意識に意識して腹から声を出しハートで歌う効果を狙っているのだと思われる。声量を出す為にはマイクを握る際に親指を伸ばして肺経を活性化すれば自ずと増すものである)。上部のプラーナ気とアパーナ気が臍の辺りで合わさるようにして出来る限り保持する。苦しくなったら鼻から息をゆっくりと出す。これを適宜繰り返す。
 

※これらの図は、ナーローの六法を簡易に説明している、誰でも比較的入手のしやすい、ツルティム・ケサン、正木晃著『図説マンダラ瞑想法』から筆者が心を鬼にし、カウティリヤイズムでもって黙ってお借りしたもの、すなわちパクらせて頂いものである。筆者は、ツルティム・ケサン氏や正木晃氏に、借りパクがバレてドルジェタクよろしく菩薩界へとポワ(遷移)されるといけないなと思って、本当は怒られないように外国のサイトからお借りしようと思ったのが、どれ程探しても『図説マンダラ瞑想法』の記載の図以上のものが見つけられなかった。怒られてポワされるのは嫌だなあとは思ったが、これもひとえに読者の為であり、筆者一人菩薩界にポワされれば良いだけの話である。 恐惶謹言頓首頓首死罪死罪。




②車輪のように旋回すること
 


趺座(足を組まないこと)して、右の足の親指を右手で掴み、左足の親指を左手で掴む。背中を真っ直ぐに伸ばし、次に身体を右に三回ねじる。逆も同様。次に前から後ろに背中を反らせて、逆に後ろから前に曲げる。反らせるたり丸めたりするのである(この時に足の小指等を反らせて膀胱経を活性化させたり、曲げて不活性化させたりすれば効果は大きい。下半身の硬さは概して足の小指の膀胱経と中指の腎経が常時不活性化しているのに起因する。総じて背中を丸める時は足の指も曲げるべきであり、背中を反らせる時は足の指も反らせるべきである。各自工夫あるべきこと。ハタ・ヨーガ的マハームドラーにおいても背中を丸めるときは足の指も曲げてみたら理論的には効果が大きいはずである。常時足の指を反らながら背中を丸めるとしたらそれはブレーキとアクセルの同時踏みであり、身体に無理をさせているのである。かくて達人的には、足の指を丸めたり反らせりするだけで、身体の気の流れを上向させたり、下向させたり、流れの転換、高尚に言えば陰陽の交換ができるようになるわけである。これは気功家と武術家には内緒である。これで一瞬で右足と左足を使いわけることにより相手のバランスを崩すというような柔術的高級技法が可能となる。確か一刀流の足使いは本来そうすべきであったはずであり、仁王門の仁王もそういう風に仁王立ちしているのである。仁王の場合、下半身と上半身の陰陽は逆に表れている。昔の運慶、快慶などは常識的にこういったことを知っていたのである。知らないのは現代人だけで昔の人は大したものである)。




③鈎のように引っかけること

両手に金剛拳(下記参照)を結んで、心臓から真っ直ぐに前に合わせて強く伸ばす(いわゆる前ならえの変形である)。それから左の方に両手を伸ばし、右は先にゆっくりと強く右の肩まで曲げ肘を右肘を右脇に当てる(弓を引く要領だが、右肘は脇を空けず締める、これでピンガラー気道は閉じてイダー気道が開く、左鼻が詰まっている時はこれをやればよい)、逆も同様にする(これはピンガー気道を開くのである。これは右鼻が詰まっている時にやればよい)
 


④金剛縛の印を空に振り上げて、下に振り下ろすこと。
 
両膝をつけて気をつけの姿勢から、金剛縛(下部参照、除霊をする時に最後に霊をお縄にする時に結ぶ印形、外縛印ともいう。ただ実際は何も考えず両手を握った形である)を結ぶ、上方に段々とあげる(ラジオ体操第一のみんな大好き最初の奴の途中までである)。そして床に下ろす、つまり前屈の姿勢である。これは最大限に大袈裟な剣の振り上げ振り下げであり、これを何度も繰り返す。足指も上記を参照して工夫あるべきである。
 


⑤雌犬の吐き方によって矢のようにまっすぐにすること。
 
両膝を地面につけてひざまずく。両手を床につけて犬のような四つん這いの格好になりつつ、さらに足もピンと矢のように伸ばしていく。首を上に上げていく。次に首を下げる時に恐れ入りましたとばかりに「ハ」といって吐く。何事もなかったかのように立ちあがって三回ずつ足を振る。
 


⑥頭と身体を動かして真っ直ぐにすること。
 
両手の指が長くなったらいいなと適当に伸ばす動作をする。そして馬鹿になった気で身体を揺する(いわゆるテレビタレントで『声に出して読みたい日本語』の著者斎藤孝先生の師匠でもあり、超越揮観という時空をこえて、アーカーシャ・ガルバを霊視し、歴史上の人物の身体意識にアクセスし、ディレクト・システムという身体マップを描いて、20年前ぐらいは百万円ぐらいで売ろうとしていた、高岡英夫の編み出した「ゆる体操」に等しい。元サッカー選手で禁酒でお馴染みの前園真聖が一時期師事していたことでも有名である。ゆる体操は高岡英夫の偉大な功績である。関節が柔らかくても動きの固い人は、ゆる体操を死にもの狂いで3時間ぐらい毎日やればなんとかなるはず多分)。最後によいしょするように手を揉んで終了である。






   最後にこのルジョンの位置付けであるが、ツォンカパは言う。

第一は〔先にトゥンコルとトンラを観想すること〕は、マルパ流の伝統の教えの中では息風を起こし…トゥンコルとトンラを観想しないけれども、尊者ミラ〔レパ〕からガムポパに伝えたことに前のことはなくて、後ろのものにあることの流儀のとおりにここに説くことにおいては…
(P91)
 
    このチベット語から逐語訳したであろう独特の翻訳文から筆者の読解能力では正しい意味が汲み取れないのだが、もしマルパがこのトゥンコルに伴うルジョンをインドで学んで弟子に伝授したものであるなら、ツォンカパが別のところでインドの根拠のある典拠は見当たらないと言っているにせよ、我々はプレハタヨーガ期の技法に伴った、身体を柔らかくすることを目的とするハタ・ヨーガ的な技法の原型的なものに接していることになる。昨今、インスタグラムを見れば、山のように出てくる西欧人が嬉々として実践するハタ・ヨーガのアーサナ等の、これがその祖先と言えるかもしれない。というわけでここまでが、ナーローの六法洞窟に入る為の準備運動である。前回装備品を準備し配布し点検した我々はようやく今回の記事で準備運動を終えて、次回よりナーローの六法洞窟への実際の潜入を試みることになろう。そういうわけであるからして久立珍重。