第3章 第13節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む


स्पन्देत् वा ॥१३॥


spandet vaa ॥13॥
 
 
【或いは、震えるべきであり[1]、】
 

 
[1]spandetは、動詞spand(震える)の願望法、三人称単数である。
 前回の記事で獣主派の修業者は寝たふりをして他人の軽蔑を買うべきであると述べられたが、続いて彼は人前で震えているべきであると言われる。震えるということは生理的現象であるから個人の制御の埒外にあるのが一般である。他人の前で痙攣してしまうというのは、特に他人に迷惑をかけるわけではないから、それはそれとして平然と他人は見て見ぬふりをすべきであるが、このように自己の制御外におかれた身体が痙攣している様を観察する人は、往々にしてその痙攣している人を軽蔑するものである。なんらかの身体的及び生理的、心理的欠陥の存在によってこのように起こる痙攣が、カルマ論的に見ればなんらかの過去における負のカルマに起因するのは明らかである。それ故にかかる欠陥によって他者の軽蔑を受けることで、人は過去のカルマに対する浄化の行を否応なしにカルマ・ヨーガとして実践させられていると思われる。このような負のカルマの清算の行を意図的に行うのが獣主派の修業者である。ある一定の段階に行けば人は否応なしに他人に尊敬されはじめるものであるが、その時こそ、修業者たるものは尊敬されることを厭い、軽蔑によってこそ自己を磨練すべきなのである。『マヌ法典』曰く「そしてまさに甘露の如くに、いつなんどきでも軽蔑を得んと努めべきである」という記述からも分かるように、獣主派の軽蔑探求行は、一般にこの派特有のアティマールガ(極端の道)とも見做されるわけであるが、実際の所はインドの出家遊行者の基本的な態度なのであり、獣主派だけが特殊だというわけではない。在家の者は富と繁栄と尊敬を勝ち得るべきである、しかし彼らも遅かれ早かれいつかこれらを捨てさるべき時がくる。何故ならそれらは束縛であり、人の精神を縛るパーシャ(繋縛)であるから。
 前回の記事の更新から早いもので10ヶ月ぐらいが過ぎ去ってしまった。月日は百代の過客にして、行き交う年も又旅人なりとはこのことである。筆者はこの間遊んでいたわけでは全然なくて、だからといってヒマーラヤで修業していたわけでもなく、記事の更新に向けて近所の左官屋なみに盛んに準備勉強をしていたのであったが、『黄庭経』の翻訳は問題なく順調に終え、インドのナーディー論と中国の経絡論の比較の為にインドのナーディーに関する詳細が記述されている『ジャーバーラ・ダルシャナ・ウパニシャッド』を翻訳し始めたのが運の尽きとなった。『ジャーバーラ・ダルシャナ・ウパニシャッド』をよくよく精読していくとナーローの六法を論述する上でも欠かせない観点を提供することが分かったのである。そういうことで休みの日にコツコツと全体の翻訳を目指してたら春になってしまったのであった。しかし幸か不幸か筆者をして『ジャーバーラ・ダルシャナ・ウパニシャッド』が、恐るべき地平を切り開くこととなった。というわけだから、『パーシュパタ・スートラム』の第四章の解説は『ジャーバーラ・ダルシャナ・ウパニシャッド』のダシャナーミ・サンプラダーヤに属すると目される無名作者を導き手にインドの4世紀の『ヨーガ・スートラ』から15世紀の『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』までの1000年のヨーガの変遷の歴史を最新のインド学の知見を取り入れつつ論じていくことになる。とは言え、筆者は9月から12月まで今翻訳しているヒンディー語の本の舞台となっている場所の取材と撮影を兼ねて三ヶ月ほどインドに遊びに行ってくるので、第四章の解説は来年ぐらいになると思われる。ともかくインドに行くまでのこの二ヶ月の間に、インドで不用意に落雷にでも打たれるか、狂犬病の野犬に噛まれて頓死する可能性を鑑み、遺言を兼ねて中途だった第三章の解説を頑張って更新しておくことにしたい。

 今回の記事は、だいぶブログの更新にブランクがあるのでリハビリを兼ねて幾つかの雑多な軽いゴシップ的な内容を書くことにして、本格的な記事の更新は次回からしていく予定である。というわけで今回の記事は以下の三つの内容から成る。①《インターネット上に流布する「ババジの言葉」の虚偽性について》②《一体全体、ババジなのか?バーバージーなのか?ヒンディー語の表記について》③《アルモーラー・ババとは何者なのか?》。
 
 
 《インターネット上に流布する「ババジの言葉」の虚偽性について》
 
 インターネットで「ババジ」という言葉で検索すると必ずと言っていいほど、「ババジの言葉」としてハイラーカーン・ババジの言葉を抜粋しまとめた格言集のようなものが出てくる。筆者も悩める青年時代に(今はほとんど悩まなくなってしまったが)この格言から、大きな励ましを受けたことをまず率直に告白しておく。その中でも「聖者にも過去があり、罪人にも未来がある」と言う言葉が筆者は好きなのであったが、いくら探してもその出典先、いわゆるソースが長年見当たらず、疑問に思っていたのであった。これとほとんど同義の言葉がオスカー・ワイルドの格言にあるようであったが、それ以外の言葉にも出典不明のものが数多くあってやはり謎は深まるばかりであった。そして調査の結果、結論から言うと「ババジの言葉」の三分の一は、ハイラーカーン・ババジの言葉ではなく、20世紀のイラン生まれのバハーイー教徒でアメリカの作家、ミルザ・アフマード・ソフラブの『ペルシアン・ロザリー』から混入されたものであることが分かった。
 



ペルシアン・ロザリー  A Persian Rosary(19個の真珠よりなるペルシアの数珠)』
 
 当然のことながらハイラーカーン・ババがミルザ・アフマード・ソフラブの影響下にあったというはナンセンスである。恐らく事態は、アメリカ人であろう誰かが、ラーマクリシュナやハイラーカーン・ババなどの現代のヒンドゥー教の聖者に共通の万教帰一的思想と同一線上のバハーイーの教えに共感してノートしたものが、故意か偶然か、いずれかの理由で「ババジの言葉」として混入したものであろうと推測される。『ペルシアン・ロザリー』は、狂信的な宗教に反対する非常にリベラルな宗教的信条を有しているという点では、それ自体に大きな価値があると言えよう。しかしながらこのような混入された状態で『ババジの言葉』が流布するのは、真実の観点から好ましくないので筆者自身が混入部分を削除して、出典が明らかなものはその所を明記し、出典が不明でも明らかにハイラーカーン・ババの言葉であると推測されるものはその旨を記して以下にまとめた。
 



【一体全体、ババジなのか?バーバージーなのかヒンディー語の表記について】
 

 これまでこのブログでは人口に膾炙したババジという長母音と短母音の区別を設けない表記を堅持してきた。しかし他の用語ではなるべくデーヴァナーガリー表記への変換の必要を考えて長母音と短母音が明瞭に分けた表記を心がけてきた。実際の発音の観点から言えばババジの発音はバーバージーという二音分の間延びした感じで発音する者はいない。実際はババジとバーバージーの間でバ-バ-ジぐらいの感覚が正確だと思われる。しかしながら日本語表記においてはババジかバーバージーかどちらかを選択せざるを得ない。しかしババジでもいいが、他の地名などは、デーヴァナーガリーへの変換がしやすいように短母音と長母音をわけて書いているのにババジだけ短母音的表記というのは居心地が悪い。ということで今後はバーバージーという表現に統一していきたいと思う。しかし読者は発音上は、日本人的な間延びした感じで内的に発音する必要はないのでとりあえず意識上は、ババジと内的に変換して読んでいただければ幸いである。






【アルモーラー・バーバーとは誰なのか?】
 
 
 まず以下の写真を見て頂きたい。
 


 
 この写真は恐らく20世紀の終わり、1990年代前半にインドのハイラーカーンから遠くないウッタラーカンド州のクマーウーン地方のアルモーラー県の県都アルモーラーで撮影された写真である。このただならぬ雰囲気から一時期、20世紀ハイラーカーン・バーバージは偽物でこれが本当のバーバージであるとか、ヨーガーナンダのいうマハーアヴァターラ・バーバージであるとかまことしやかにインターネット上で囁かれたものである。筆者も若干の興味があったのでアルモーラーにも行ってみたが、アルモーラーに行ってアルモーラー・バーバーに会うのは、東村山に行って志村けんを探したり、筆者の出身地である山形県で筆者を探したりするぐらいの難易度の無理ゲーであった。筆者がこの写真を知ってから10年ぐらい経つがそれから情報もなく気にもしていなかったのだが、最近になってごく一部のネット上で若干の情報を入手したのでこのアルモーラー・バーバーを記念し、ここでゴシップネタとして論じておくことにしたい。筆者の探偵なみの調査の結果判明したのが、アルモーラー・バーバーと呼ばれる彼はダシャラー・ギリ・マハーラージというのが通り名で、生まれたのは1980年前後である。彼はなんらかのインドの宗教団体の中で育ち、聖者となるべくして育てられたようである。インドの3年に一度のクンブ・メーラーで以下のように子供ながらに聖者として奉られている。(以下の写真のほとんどは公開されているとはいえ、他者のfacebookからMission Impossibleばりの諜報活動の結果、よく言えば黙ってお借りしたもの、悪く言えばパクったものなので見つかったら怒られるかもしれないが、日本の読者の為に心を鬼にしたりしなかったりしてここに掲載する。インドのダシャラー・ギリ・マハーラージの信者様お許し下さいませ)
















    その後、20世紀型ハイラーカーン・バーバージーが亡くなった後のハイラーカーンに、自分がバーバージーであると名乗ってみたが、ハイラーカーン・バーバーに後事を託された後継者の冷静沈着なムニラージに彼の生年と20世紀ハイラーカーン・バーバーの没年からも計算が合わぬので「あんた、バーバージーちゃうやろ」と言われてあっさり拒否されたようである。




    その後もおそらく一部の後援者や信者に囲まれて生活をしているようで、近年になってリバーシングの創始者でハイラーカーン・バーバーの信者であるレオナルド・オーや、ニューデリーのハイラーカーン・バーバーのアーシュラムなど一部の20世紀型ハイラーカーン・バーバーの信者に21世紀のハイラーカーン・バーバーであるとして信奉されているようである。筆者の考えを言えば明らかに彼はハイラーカーン・バーバーではない(Obviously  Dashara Giri Maharaji is not Haidakhan baba)。

    友人のE先生に下の写真を見せたところ、「なんか絶対男女の関係ありそう」という不謹慎な発言をしていた。罰当たりは困ったものである。




    ちなみにこの一緒に写っている女性は20年近くダシャラー・ギリ・マハーラージを支援している女性である。彼女は、霊的な配偶者である女性原理の顕れであるところのダシャラー・ギリ・マハーラージのシャクティとして信者に敬われているようであり、男女関係があるかどうかは筆者の関知するところではないが、ただならぬ関係であるのは確かなようである。アメリカのレオナルド・オーは彼がハイラーカーン・バーバーの21世紀の顕現であると宣言し、そのリバーシングの信者はハイラーカーン・バーバーに会う旅と称して、ツアーを組んで会いに行ったりもしているようである。彼がハイラーカーン・バーバーのフェイクだったとしてもダシャラー・ギリ・マハーラージの今後の動向を注視していきたいところではある。







    最後にニューデリーのハイラーカーン・バーバーのアーシュラムとおぼしき場所で20世紀型ハイラーカーン・バーバーのチャパル(サンダル)を履いてハイラーカーン・バーバーは私であると堂々と宣言している写真を記念に載せる。(I think he is  a fake Haidakhan Baba)