第3章 第1節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む
 
 
अव्यक्तलिङ्गी ॥१॥

 
avyaktaliGgii ॥1॥
 
 
【[獣主派の]明瞭な印をつけざる[1]】
 
 
 
[1]avyaktaliGgiiは、avyaktaliGgin(不明瞭な印を有する者)の単数主格である。avyaktaは、vyakta(明瞭、明白、顕れたもの)に否定接頭辞aが付加されて「不明瞭、非顕現」という意味であり、liGginは、「印を有する、特徴を有する、付属物を有する」という意味である。これを合わせてavyaktaliGginは「明瞭な印を付けざる」という意味となる。我々は第一章でパーシュパタ(獣主派)の特徴的なliGgaadharin(印を保持する)であるvyaktaliGgin(明瞭な印を有すること)を見てきた。それは灰を身体に塗り、額に三条の線を描き、ルドラークシャ(インド菩提樹の実で作られた数珠)を身に帯びるというものであった(第1章第6節参照)。




    これまで第一章で述べられたような有標で寺院の近くなどに定住して修業をしていたパーシュパタの修業者は、ある程度ヨーガの能力やシッディが発現した時点で、今度はその印を隠匿しつつ定住期から遊行期に移行することを求められる。ここで遊行期の解説をニーム・カロリ・ババから引用する。
 
 


 
サードゥーにとって、ひとつの場所にとどまることは
問題を引き起こす。動くヨーギーと流れる河には、
不純物や沈殿物、汚物が溜まることがない。
私がここにとどまれば、執着が生まれる。
 
 


 
P467 ラム・ダス編・著『愛という奇跡』大島陽子・片山邦雄訳


 さて筆者の体内カレンダーではいい感じに7月も深まってきたっぽいので、これよりお約束通り性懲りもなくこの退屈至極なブログの更新を再開することにしよう。とは言え筆者も、実際はこんな箸にも棒にもかからない萎靡因循なブログで遊んでばかりもいられないのである。というのも目下2020年ぐらいの出版を目標にヒンディー語の本を鋭意翻訳中であるから。そしてヒンディー語の本が晴れて出版できた暁には、その後はヒンディー語の翻訳家にもでなろうかしらんと、浮雲を眺めながら原っぱに寝そべって蟹と戯れつつ石川啄木ばりに呑気に現在思案中なのである。そんでもってヒンディー語の翻訳家になったなら、毎年一冊ぐらいは出版できるように適当に翻訳業に勤しみつつ、半年ヒマラヤに遊びに行って、残りの半年はヒマラヤで翻訳したヒンディー語の本を、出版する用意とばかりに日本に遊びに帰ってくるという悠々自適の幽遊斎的生活を送れたらどんなにか愉快だろうと考えている次第である。「あら、ヒマラヤで半年生活するなんてお高いんでしょ?」とお考えのそこの奥さん、あにはからんやでありますぞ、持つべきものは偉大なグルと優しい旦那様とばかりに、ヒマラヤの筆者のグルのアーシュラムは、一泊二食付きで500円以下の据え置き価格なのでして、つまり一ヶ月15000円×6ヶ月=9万円で半年ヒマラヤで遊んで暮らせるというそろばん勘定なわけですな。これは行かないわけには行きませんです。ついでに近所のソーンバーリー・ババのアーシュラムやニーム・カロリ・ババのアーシュラムを梯子しながら遊び歩くのも自由である。そういうわけで夢と希望を乗せたヒンディー語の本とこの数ヶ月格闘中でヒンディー語浸けだったもんだから、古色蒼然たるサンスクリットなんてものはすっかり忘れてしまったと、そう言ってみたかったわけだが、残念ながらヒンディー語の本を読んでいるとゾッとするぐらいサンスクリットの辞書を引く機会が多くて、「俺はいいけどサンスクリット知らなきゃヒンディー語なんて翻訳できねぇじゃねぇか」とパリサイ人の祈りを唱えつつ背筋が寒くなること暫しであった。そんなこんなでサンスクリットを忘れる暇もなくヒンディー語と格闘中で今に至る。そういうことであるから渋々ながら予告通り『パーシュパタスートラム』の第三章を解説することにする。この度の解説の予定としては、当然のことながら『パーシュパタ・スートラム』第三章の内容を解説しつつ、二元論的世界観の代表であるグノーシス主義やマーニー教の世界観、中国の古典的内丹の書『黄庭経』及び『太乙金華宗旨』、ナーディーと經絡の比較論、インド密教の精華である「ナーローの六法」そして時間の多次元性の考察へと筆鋒を向けて行くことにしたい。
 ここで今回の記事の本題に入る前に、蛇足ながら、気付いたら幽体離脱していて、幽体離脱中に自分の部屋の壁の固さを検査検品するのが趣味の幽体離脱の達人である友人のE先生からこのブログに関して苦言が呈されたので、それについて述べておくことにしたい。E先生(シェイション)曰く、「毒舌過ぎんじゃねぇ、別にそういうのとっくの昔に卒業してそういう情緒とおさらばしてんだからそういうの余計じゃねぇ」、これについては、十年前ぐらいの世を拗ねたつまはじき者的自己を敢えて召喚し、毒舌毒歩にして全方位的攻撃陣形プログラムを組みつつイージス艦をイメージした迎撃システムを稼動してこのブログを更新しているから、そう思われるのは当然と言えば当然である。


    筆者は、ブログを書く際には基本的に始めにその方向性や性格付けをある程度決めたうえで更新することにしている。しかし日本人には生活作文信仰というものが小学生の頃から刷り込まれていて「思ったことを自由に書く」というのが作文だと無意識に思っているきらいがある。そして他人も今自分が思ったことを自由にありのままに書いているに相違ないという共同幻想を抱いているのであるから困ったものである。因みに「思ってもいないことを不自由に書く」というのが作文練習の基本である。このような練習を繰り返せば、思ってもいないことを自由に書いて、薄っぺらい感動ポルノを量産する売文家連中の術策の手の内というもの分かるというものである。ともかく話を筆者の事情に戻すが、この「『パーシュパタ・スートラム』を読む」というブログの記事の前には、「シヴァ神の1008の御名と共に」というタイトルで『シヴァ・サハスラナーマ・ストートラム』を読んで記事にしていた。その時はトートロジー(同語反復)に至るほどに、断固知ることさえも言わずの精神で更新を続けていたのであった。人はある程度物事を知るようになるとどうしても、語りたい発信したいという衝動に駆られるわけであるが、これは愚である。特にスピリチュアルな分野では、ある程度ハートチャクラが開いてくると、人の為と称してベラベラと知ってることや気付いたことを喋りたがるようになる。こうして惰性のままにベラベラと喋り続けるとハートチャクラの次の段階である喉のチャクラの開発がうまくいかないで、ハートチャクラどまりになっている人達が多いのも現実である。こうなってしまうと分かったようなことを延々と語るお節介なステラおばさん的おしゃべり先生が誕生することになる。しかしながら一箇の大和男児たる者がこのようなステラおばさんになることだけは絶対に避けなくてはならない。これは大和男児(やまとおのこ)の絶対防衛ラインである。生半可な了見で語りたいという気持ちをグッと押さえて沈黙すること、これが学ばれなくてはならない。喉のチャクラの開発は沈黙によってこそ可能である。ウィットゲンシュタインは「語りえぬことについては沈黙しなければならない」と述べたが、筆者から言わせてもらえば「語りえることさえも沈黙しえてこそ、語りえぬことについて語りうるその可能性が生じるようになる」のである。これがすなわち隠匿の行であり、今回の『パーシュパタ・スートラム』第三章の主題でもあるわけだ。そうは言っても言うべきことも言えず、言うべき必要もないことを得意気にペラペラと喋る、これは人間の無明が為せる業であるから仕方ないと言えば仕方ないことではある。そういうわけで筆者は数年もの間、トートロジー的嫌がらせブログを更新し続けてE先生には「つまらな過ぎてすぐに読むのをやめた」と言われるくらいの苦行を実践してきたのであった。そしてその苦行期間が満了して今のブログでは一転して、知ってることを全て惜し気もなく施餓鬼的精神で語り尽くすという体でブログを更新し始めたのだった。しかしそこに一抹の不安がないわけではない。つまりあまり何でもかんでも語ると未だその学びの時期にあらざる人達がやってきて、つまみ食い的に読んでは精神的に悪い影響を勝手に受けて一人合点されては困るというのがそれである。そこで杞憂に駆られた筆者は、徹底的に攻撃即防衛的イージスシステムを稼動させて、100人やって来たら99%の確率で途中で頓挫させては、情け容赦なく捻挫骨折挫折させ、読むのを断念させるような不敗の防護陣形を張り巡らせるようにしたのである。その結果どうなったかというとE先生までもが途中で迎撃システムの餌食となってほとんどこのブログを読んでいない始末である。まさかE先生ぐらいは読んでるだろうと、増上慢にも高をくくったり首を括ったり鷹を掴まえたりしていた我が了見の非常に浅はかだったことについては、とても残念だし非常に悔しいし大変泣きたいしという気持ちが、全然起きないから不思議である。結論を言えばE先生は結局、筆者のブログに興味がないんである。その癖、かやつめは鈴木崩山なんぞのどこの馬の骨とも海のものとも元横綱朝青龍とも知れぬ断滅希望論者的ブログをせっせと読んでいるのだから皆目意味が分からない。ともかく筆者が言いたいのは、このブログは読者になるべく読ませないようにしつつ何でも書くというヘラクレス的難行を掲げて、更新され続けている稀有なブログなのでありますから、このブログでの毒舌は、筆者の老婆心的優しさなのかもしれないし、そうでないのかもしれないよねということである。

 落語家的前口上はここまでにして、これより本題に入りたい。思い出して欲しいのだが、『パーシュパタ・スートラム』では第1章の最後にサッディヨージャータ・マントラが引用されていて、第2章ではヴァーマデーヴァ・マントラが最後に引用されていた。『パーシュパタ・スートラム』は全部で5章からなる。今回の第3章では、アゴーラ・マントラが最後に引用されている。そしてサッディヨージャータ、ヴァーマデーヴァ、アゴーラと続けば、第4章には当然タットプルシャ・マントラが、第5章にはイーシャーナ・マントラがくることにある。この五つつの神名は五面のシヴァ神の各相を表していて、『タイッティリーヤ・アーラニヤカ』を初出とするパンチャ・ブラフマ・マントラを構成する。
 
 


 
 パンチャムカ・リンガは五面を有する。五面とは、タットプルシャ、アゴーラ、ヴァーマデーヴァ、サッディヨージャータ、イーシャーナを表し、総じて「パンチャ・ブラフマー」として知られ、ニシュカーラ・シヴァ(無時間なるシヴァ)から放射されたものと考えられている。諸々のシヴァ派ではこれらの頭は、魂(アートマン、プルシャ)、物質世界(プラクリティ)、ブッディ(理性)、アハンカーラ(自己感情)、意思(マナス)の象徴と見做されている。『スータ・サンヒター』では五面で表象されるシヴァの五つのアスペクトは自然の五大元素の観念を示唆するものともされる。こうしてイーシャーナは虚空(アーカシャ)、タットプルシャは風(ヴァーユ)、アゴーラは火(アグニ)、ヴァーマデーヴァは水(ジャラ)、サッディヨージャータは大地(ブーミ)と見做される。これに従えば宇宙にはパンチャブラフマーが充満していて、これを悟ることのできる人間は拘束(サンサーラ)からの解放を達成するのである。
 
 
P35 M.C.Choubey著『Lakulisha In Indian Art And Culture』(Sharada Publishing House)
 
 




 以上のように各章に五面のシヴァ神の名前が順番に配当され、それらが五大元素である地・水・火・風・空を表すとなると、我々は『パーシュパタ・スートラム』がどこかで見たような五章構成であることに気づかされるのである。二天一流を開創した宮本武蔵は、自己の剣術の理を地の巻・水の巻・火の巻・風の巻・空の巻から構成される『五輪書』として書き表した。英語で言えば『The Book of Five Rings』である。


    日本版『The Book of Five Rings』が宮本武蔵の剣術書である『五輪書』なら、天竺版『The Book of Five Rings』がこの『パーシュパタ・スートラム』なのである。そして今回の第3章は、「火の巻」に相当する。今回の第3章の解説では、「火の巻」ということで、「クンダリニーの火」の仏教版である「チャンダーリーの火」の理解を第一の目標にしていきたいと思う。その為の準備段階として日本密教の瞑想法を見ていきたいと思う。
 
 
 まずは先程の五輪としての五大元素を瞑想する方法を弘法大師空海の『即身成仏義』から見ていく。
 
 



 
「真言者は円壇をまず自体に置け。
足より臍に至るまで、大金剛輪を成じ
此より心に至るまで、当に水輪を思惟すべし。
水輪の上に火輪あり、火輪の上に風輪あり」と。
 
 
眞言者圓壇 先置於自體    
自足而至臍 成大金剛輪    
從此而至心 當思惟水輪    
水輪上火輪 火輪上風輪    
 
  
謂く、金剛輪とは阿字なり。阿字は即ち地なり。水・火・風は文の如く知んぬべし。円壇とは空なり。真言者とは心大なり。

 
P55ー56 空海著『即身成仏義』 宮坂宥勝監修『空海コレクションⅡ』ちくま学芸文庫より
 

 
 ここで空海は、『大日経』の五輪の瞑想を解説してくれているので簡単にまとめる。
 
 
 
【五輪観】
 
 
①足から臍までに阿字(a)としての地輪を瞑想する。
 
②臍から心臓までの間にバク字(va)として水輪を瞑想する。
 
③心臓から喉までにラ字(ra)としての火輪を瞑想する。
 
④喉から眉間までに訶字(ha)としての風輪をを瞑想する。
 
⑤眉間から頭頂部までに欠字(khaM)としての空輪を瞑想する。
 


 
 上述の引用した文章は、日本のお墓にいけば、どこにでも見られる五輪塔の由来となったものである。我々がよく知る五輪塔とはつまり五大元素よりなる人間を象徴しているわけであり、自己を五輪塔と観念することによる瞑想が五輪観である。
 


一刀流小野次郎右衛門忠明の墓(筆者撮影)


太田道灌の墓(筆者撮影)
 

 
 続いて日本密教の瞑想における基礎中の基礎である月輪観を見ていく。引用は弘法大師空海の『秘蔵宝鑰』より。
 
 
 
一切衆生は本有の薩埵なれども、貪・瞋・癡の煩悩のために縛せらるるが故に、諸仏の大悲、善巧智をもってこの甚深秘密瑜伽を説いて、修行者をして内心の中に於て日月輪を観ぜしむ。この観を作すに由って本心を照見するに、湛然清浄なること猶し満月の光、虚空に遍じて分別することころなきが如し。または無覚了と名づけ、または浄法界と名づけ、または実相般若波羅蜜界と名づく。よく種種無量の珍宝三摩地を含すること、猶し満月の潔白分明なるが如し、何となれば、いわく一切有情は、ことごとく普賢の心を含せり。我、自心を見るに、形、月輪の如し。何が故にか月輪をもって喩とすとならば、為わく、満月円明の体は、すなわち菩提心と相類せり。
 



 
P230-231、空海著『秘蔵宝鑰』、宮坂宥勝監修『空海コレクションⅠ』ちくま学芸文庫より
 
 
 
 ここで月輪観と合わせて日輪観が述べられているがそこのところは置いておいてまず一般的な現代における月輪観の方法論を見ていきたい。
 
 
 
【月輪観】
 
 
①入堂、手洗いうがいをしてお堂に入る。
 
②三礼、掛け軸本尊の前で三礼する(詳細略)。

③着座、結跏趺坐(パドマアーサナ)で座り、法界定印(ムドラーの一種)を結び、身体を揺すってリラックスする。
 
④浄三業、まさに開こうとする蓮華の蕾のように掌をふくらませて合掌し、「蓮華が泥の中でも浄らかなように私の心身は共に本来清浄である」と決定して観念する。
 
⑤発菩提心、合掌しつつ右手五指が左手五指より若干上になるように交差して「オン、ボウジシッタ、ボダハダヤミ(私は今、菩提心を発起する、aum bodhicittam utpaadayaami)」と観念する。
 
⑥三摩耶戒、オンサンマヤサトバン(汝は三摩耶なり、aum samayas tvam)と観念する。
 
⑦調息、数息観などで呼吸を調える。
 
⑧正観、掛け軸の月輪を眺める。目を閉じて月輪の残像を観ずる。月輪を胸中に観じて、本尊の月輪と一体であると観念する。その後、その月輪を宇宙全体へと拡大する(広観)、次に徐々に拡大した月輪を縮小して胸中に戻す(斂観)。
 
⑨出定、手を頭上にかざし息を吸いながら顔・胸・腹・腰へ触れないように撫で下ろして膝前方へ足を摩りながら手を伸ばし息を吐ききる。これを三回繰り返す。
 
⑩出堂、生きとし生けるものに慈悲の心を抱いて座したまま合掌し出堂。
 
P154-160、山崎泰廣著『阿字観瞑想入門』、春秋社 参照

 
  月輪観とは直截に言えば、月を心に思い浮かべて瞑想するのである。そして日輪観は月を太陽に代えて瞑想するのである。月は見た目には欠けたり満ちたりするが、小学生でも知っていることだが、実際の月が欠けたり満ちたりするわけでは全然なくしてそれは錯覚に過ぎない。空海阿闍梨が曰うように、我々の心も汚れたり清まったり、良くなったり悪くなったり、堕落したり向上したりと表面上そのように見えるわけだが、これは悟り切った西暦4500年の小学生なら誰でも分かる錯覚に過ぎない。我々の心もお月様同様に実際は満月円明の体なのであるから、その過不足なき心の本体を照見しようとするのが月輪観の主旨である。しかしそうは言っても私の心は欠けて汚れ堕落し悪いと思い込みの強い御仁も多いので、ラーマクリシュナの弟子で、サプタリシの化身である偉大なヴィヴェーカーナンダもお叱りの言葉をかく述べているので引用する。 
 


 
おんみ、地上の神々ーーー罪びとたちよ!人を罪びとと呼ぶことが罪なのだ。それは人間性への変ることのない名誉毀損である。さあ来たまえ、おお、ライオンたち、そして自分は羊だという迷妄を振り落としたまえ。おんみたちは恵まれた、永遠の、不死の魂であり自由な霊である。おんみたちは物質ではない、おんみたちは肉体ではない。物質はおんみの召使いなのである。おんみが物質の召使いなのではない。(P13)
 
 
宇宙のいっさいの力は本来われわれのもの。われわれは目を自分の手でふさいで暗いといって泣いている。自分のまわりに闇など存在しないことを知れ。両手を開けば、そこは元からある光に満ちている。闇は存在せず、弱さも存在しない。弱いといって泣くのは愚か者だ。清らかになれないといって泣く者は愚か者だ。(P14)
 
 


 
『立ち上がれ、目覚めよ』スワーミー・ヴィヴェーカーナンダのメッセージ、日本ヴェーダーンタ協会
 
 
 かくて幻想を打ち払うべく月輪観がなされなくてはならない。ここで月輪観を実際にしてみて、今まで様々な瞑想をしてきたが非常によい瞑想法であるというのが筆者の素直な感想である。それというのも月は、お馴染みイダー気道と関連し、癒しのエネルギーが流れていて、右脳→右目→左鼻経由で左半身へと下り副交感神経優位の状態にもってくるのに適しているからである。ハイーダーカン・ババも月を一晩中眺めていれば病は治ると述べていることからも癒しの効果が推測できる。「月のソーマ酒は神々の飲み物である」とウパニシャッド哲学では言及されているが、そのソーマ酒を我々が飲んで悪いという法はないのである。月輪観はいわば星幽界的瞑想である。そして月輪観を日輪観の実践と比較してみるとさらによくその違いが分かるであろう。太陽瞑想をする場合、月と比較すると内面に非常に強い光を生み出さなくてはならないという要請を感じるので、内部を燃焼させ交感神経を活用するような瞑想とならざるを得ない。つまり日輪観では、左脳から左目を通じて右鼻を経由する比較的ピンガラー気道優位の瞑想とならざるを得えないのである。これは観念界的瞑想法である。またピンガラー気道からは昔から毒液が流れると言われているように、交感神経を刺激して神経を比較的興奮させるような瞑想とならざるを得ない。これは朝にシャキッとしたい時にすべき瞑想であろう。従って日本の密教でも月輪観は基本的によく実践されていても、日輪観がそれほど実践されていないのは、このようなところに原因があると思われる。現代人は、言語脳である左脳を興奮させたまま夜も眠らず内的おしゃべりを続け、交感神経をずっと刺激させたまま、年中ピンガラー気道から毒液を流し続けてイライラばかりしている。現代のストレス社会というものは、交感神経優位の文化の中で自分で自分の首を喜んで絞め続け、マゾヒステッィクに苦しんでは頑張った気になって自己満足に浸っているわけで、これはヴィヴェーカーナンダを待つまでもなく愚昧の支配、愚か者優位の社会と言っても差し支えあるまい。最後になるが月輪観で広観と斂観という意識を宇宙に拡大し次に縮小するという瞑想の基本的方法が説かれているが、これは以前ブラフマン瞑想や冗談で適当マトリックス瞑想と名付けて解説しておいたものと、ほとんど同一線上の技法であるから第1章第26節第1章第39節を上手に自分で組み合わせて参考にしてもらいたい。それでは月輪観を「牀前に月光を看る疑うらくはこれ地上の霜かと」とか「かへりみすれはつきかたむきぬ」と言った風情で悠長に瞑想していただきたい。
 
牀前に月光を看る 
疑うらくは是れ地上の霜かと
頭を挙げて山月を望み
頭を低れて故郷を思う

李白




東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ

柿本人麻呂