第1章 第28節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む



सर्वेषां चावश्यो भवति ॥२८॥


sarveSaaM caavazyo bhavati ॥28॥


【そして、あらゆるものへの[1]不服従[2]がある。】





[1]sarveSaaMはsarvaの複数、依格である。あらゆる事柄に於けるという意味であり、何人に対しても服従しないという意味である。すなわち自由であり、主人であるということである。

[2]avazyoは、vazyaの否定である。「屈服しない、服従しない」という意味である。不服従とは自由ということである。人はカルマによって否応なく物事に従属させられるのだが、それは心を通してそうなるのである。心はもともと中立であり、いかなる汚れもなく、この世界を構成する根本原質でしかない。しかし人は生まれるや否や心がその展開を開始し、心は無明によって混濁と昏迷そして暗質へまた物質へと向かう。そして欲望が形成させる。欲望は、無明を種とし心を土壌として生じ、そして人は一生その欲望の奴隷となる。欲望を形成したのは自分であるが、彼・彼女はその欲望をすべてと信じ、自分自身と自らが作り出した欲望とを同一視する。欲望はまるで我々が気づいた時には既にそこにあるものだから、あたかも自然なもの自己の本性であるように思われるのだが、そう感じるのは我々が過去世を想い出すことができない不能のせいである。過去世を想い出せば、欲望が生じたのは自然でもなんでもなければ自己の本性でもなく、無明を因とした気まぐれでしかないということに気づくであろう。例えばある者が、ルンペンのような、日雇い労働者のようなその日暮らしの自由気ままな生活を送りたいという欲望を持っていたとしよう。それは彼が過去世で忙しく王として生きていた時に、全部こんな職務を投げ捨てて、目の前の貧しいが何の心配もないようなルンペンのように生きられたらどんなにいいだろうと願ったからかもしれない。そして彼は500年後に実際にルンペンのような責任から解放されたようなお気楽な仕事につく生活を送るかもしれない。そして一人ごつのだ。「なぜ俺はこんな低所得で箸にも棒にもかからない人間なんだろう。王様のようになりたかった。人生はなんて不平等なんだ!」あべこべである。またその時の王妃は、こう願うかもしれない。「こんな王宮で閉じ込められてなんて退屈なんだろう。いっそのことあの旅芸人の踊り子のようにでもなって、一生楽しく踊って騒いで毎日てんやわんやの旅空の生活でも出来たらいいに!」そういって彼女は、500年後に踊り子になるかもしれない。しかし彼女は言うだろう「踊ったり歌ったりしないでもいい暮らしができたらいいのに!誰か金持ちのイケメンでもいないかしら!私はもっともっと成り上がってセレブになってみせるんだ!んでもってインスタグラムで見せびらかして自慢してやるんだ!」狂気の沙汰としかいいようがない。こうして人は種々様々な欲望を抱きその実現こそが自分の神なんだとばかりに終わりなき輪廻をさ迷うのである。過去世の忌ま忌ましいスタートが今生の素晴らしいゴールであり、今生の素晴らしいゴールが来世では忌ま忌ましいスタートになる。そして何度も意味不明なかかる繰り返しを行うのである。これを輪廻に於ける無明のリピート再生と言う。しかしそうした繰り返しにある時、ある日、人は違和感を覚える。そうしてある時点で、その無明を浄化する方法を教えてくれる人に出会う。目的の実現ではなく、目的そのものを浄化し破壊する魂の源流へと遡る探求の旅が始まるわけだ。今生でのカルマが浄化されると、次に過去世のカルマが現れる。ここで察しのいい人間なら自分の過去世が分かるようになる。浄化の速度が速まれば速まるほど、今生では身に覚えのないカルマが次々と浮き出てくる。そして人は次々と自己の過去世を理解するようになるのである。ジャパをするだけで過去世が理解できるようになるのはこうした大雑把な原理に基づく。そして無明を破壊されて浄化させられた心の一部は、欲望の重みに傾くことをやめて自由となる。ここでそのような自由になった心の余剰部分がシッディとなる。心のすべてが欲望ならシッディは最低限であるが、心が解放され浄化されれば心は最大限のシッディとなって利用可能となる。しかしシッディとなった心が世界に向かえば汚れるのは必定であるから、本来シッディとして外界にそれを向けずにさらなる覚醒への燃料とするべきなのは言うまでもないことである。浄化された者があらゆるものに服従する必要がなくなるのはこうした原理によるのである。

 


   それではまずはニーム・カロリ・ババの例から見ていこう。







 マハラジは何ものにも束縛されませんでした。提案にはしたがわず、予期せぬことをおこないました。たとえば、もっと長くいてほしいと頼むと、立ち去ってしまったのです。


 マハラジは浮浪者として逮捕され、独房に入ったことがありました。彼は夜中に三、四回、独房の鍵をはずして外へ小便に行きました。これを見た看守は狼狽し、朝になって上官に報告しました。上官はマハラジがどういう人物であるかに気づくと、謝罪して食べ物を渡し釈放しました。のちに彼は、マハラジに帰依するようになりました。





 マハラジは何事からも自由でした。汗をかきながら、泥まみれになって座りました。
 「私は<母なる地球>に座る。私は大地からつくられている」「すべての大地は神のものである」とマハラジは言いました。



 陸軍の大佐が駐留地の門に近づくと、門のすぐ前にマハラジが横たわっていました。大佐は退くように命じましたが、マハラジは、ここは神の土地であり、自分はそのCID(中央情報局)の局員だと主張して譲りません。大佐は憤慨し、軍の営倉にぶち込むよう守衛に命じました。
 数時間語、外出先から大佐が戻ってきました。するとまたもやマハラジが門の前に横たわっていました。大佐は職務を怠ったかどで、守衛を大声で怒鳴りつけました。しかし守衛は命令を守ったと言いはります。
 軍の営倉を調べてみると、マハラジはまだそこにいたのでした。この一件のあとで、大佐はマハラジに帰依するようになりました。






 マハラジがいるところはどこであっても、混乱や混沌が生じました。時には、同じ仕事をするために二人の人間が派遣されたり、また最初の人が仕事をしている最中に、もう一人が派遣されたりしました。マハラジは、ある人に話したこととは反対のことを、もう一人に言いました。そしてそのような矛盾を突きつけると、すべてを否定したのです。
 もちろん、これらには、たくさんのはっきりとした目的がありました。第一に、マハラジの力を隠し、何が起きているのかを誰にも分からなくさせました。さらにそのような混乱によって、各人が矛盾しあう情報の断片のなかから、自分にとって聞く必要のあることを聞くようになったのです。
 そのうえ、このような矛盾は、厳密にものを考えすぎる傾向がある人びとの心を解き放ちました。別の観点から見ると、マハラジが引き起こした混乱は、彼がただひとつの人格に限定されないという事実の反映としても理解できました。マハラジは鏡として、彼のことを考えるあらゆる人を移しだし、同時に数多くのレベルに意識を向けていたのです。
 したがって「私は何もできない」と言ったあとで、「私は心の鍵を握っている。みんな私の操り人形だ」という言葉がつづくこともありました。そしてこのような彼の広大さを理解すると、私たちは混乱の中に大きな喜びを見いだしたのです。





『愛という奇跡』ラム・ダス編(大島陽子・片山邦雄訳)より







 次は19世紀型ハイダカーン・ババのエピソードより。



 ある夏のこと、聖なる師は、ナイニータールの地域にあるクールパタル・アーシュラムでキャンプをしていた。教養のある男が、ある人の話を通じてババジについて知ったいくつかの事実が知りたくてやってきた。彼が言われたことのひとつはこのようなものだった。シュリー・ババジはトーピの帽子を被っているが、もしかしたら、聖なる師はマハーバーラタの英雄であるアシュヴァッターマンではないかということであった。シュリー・ババジがマハーバーラタ戦争で受けた傷の話をしていたことから、恐らく帽子を被っているのはその傷を隠す為なのだと言われたていたのだった。この疑惑を試験する為に彼はクールパタルまでやって来たのだった。
 その日の朝は暑く、聖なる師は沐浴をすること望んだ。まもなくその学者はそのことを聞き付けて、水の入れる容器を取りに行った、もちろん、沐浴の時に、シュリー・ババジが帽子を脱いで、彼が傷を確認する為である。しかし聖なる師は、湖で沐浴すると言い出し、学者にふんどしとタオルを持っていってくれと頼んだ。湖でならババジの頭部を検査する時があるだろうと思い学者は喜んだ。
 湖に着くと、学者はババジの帽子と衣服を脱がせて、ババジを沐浴させるよう言われた。すると驚いたことに、学者はすっかりババジの頭を検査することを失念してしまっていた。彼は帽子を外し、衣服を脱がせ、熱心な信仰心で聖なる師の沐浴を手伝った。ババジの体を拭って、帽子を被せ、クルタを着せ替えた。半時間が経過して、彼は、求めていたババジの頭部を検証する機会が失われたことを覚った。彼の目指す記憶は、ババジに帽子を被せて服をババジに着せるところまでで、それ以上思い出せないのだった。彼は非常に悔しがった。
 聖なる師は彼の方を振り向くと愛情のこもった声で言った。
「聖者やサードゥには信仰と気遣いと愛をもって人は向かうべきである。もし疑いが生じたら、その説明は神に祈れ。神の恩寵により、人はある特定の人物が偉大な聖人か否かを知ることができるのである。聖者のみが聖者を試すことができる、そうして聖者の恩寵を得るのである。心が素朴で自尊心から自由な者のみが彼らの恩寵に浴する。人が自分自身さえ理解できない時に、どうして彼が聖者を試験できるというのか?聖者とは神の現れである。彼らを査問するのは、全能者を査問するほどに困難である」





   


 かつて有名な学者が、聖典を手もとに置いて、神の広大で宇宙的な形姿についての記述について質問した。「私達はそれについて考え、それについて沢山議論しますが、満足のいく結論に達しません。ご好意をもって説き明かし下さい」いつものように、聖なる師は沈黙を保ってたまま、その静けさと共に最高の秘密の意義と神聖なる問題を示すのだった。彼は僅かにしか語らなかった。語ることに決定的な解決はなく、また論理的な思考にはアートマンや魂を包含することはできないのであるから。最終的にババジは学者に目を閉じて、バジャンを歌い、再び見るように言った。彼が目を開けると、あらゆるものとあらゆる方角に広がる主を見た。シヴァ神の姿の中にハイダカーン・ババの帽子と衣服がありその回りには万物があった。「我々は結論付けました」学者が言った「神の姿は論理の対象ではないと」聖典は、主であるシヴァ神がその姿を選び決定した標識であり、月の光のようなものなのである。




『From Age To Age』giridhari lal mishra








   19世紀型ハイダカーン・ババのリピート再生のような20世紀型ハイダカーン・ババの例。




 まだ多くの人達が敵対感や不信の念を持っていたが、その一人に「サンデーサーガル」の編集者パドマ・パントがいた。1971年の9月20日に彼はこの聴聞会とその後のことを記事にしている。
 ……その日裁判所には人々が詰めかけババジが奇跡を示し、彼等の心から疑いや異論を取りのぞいてくれるように期待していた。しかし、そのようなことは起こらなかった。そのかわりにババジはすべての質問に誠実に答えた。ババジの証言に不誠実さや虚偽の答えは何もなかった。しかし人々はまだババジが山から来た少年で、誤った考えの人達に囲まれ、彼の信者達は大衆を騙そうとしていると考えていた。同様の考えは編集者の中にもあった。
 次の日ジャイプールのシャルマ氏がハルドワーニーに来て編集者にカスガリア・アシュラムに行きババジと一緒にいるように頼んだ。シャルマ氏は、編集者にババジの出廷に関して正しい記事を書き、ババジが警察に逮捕されたというような誤った噂を一掃してくれるように望んでいた。シャルマ氏は、他に二人のジャーナリストをババジのところへ同行するよう招待していた。
 次の日編集者がカスガリア・アシュラムに着くと、ババジは休んでいると言われた。二人のジャーナリストもババジを待っていた。30分してババジは彼等を部屋に招き入れた。彼等はババジに裁判所の一件以来、宗教的な人達は精神的なショックに苦しんでいると話した。人々は宗教に無頓着になっている。裁判所で起こったことはヘラカンババに対する侮辱である。もし彼が奇跡で知られた有名なオールドヘラカンババであるならば、この出来事全体をなぜ止めなかったのかと人々は考えている。なぜ法廷での出来事のようなドラマを作ったのか。ジャーナリスト達からは多くの同様な質問が出された。「物事はいつもこのように起きる。あらゆる物事は信仰に基づく」とババジは淡々と答えた。
 パントはこの若者を信じていなかったので、馬鹿な質問だったと後で自分が感じるようなことをババジに沢山聞いた。「あなたは自分に敵対する者達を罰する力のある本当のババですか?」と彼は嘲った。ババは答えて「それらの者達を罰する私とは何者か。彼等のカルマが自分達を罰するだろう」
 パントはババジの創りだしたドラマについてしつこく問い続け、とうとうババジはパントに語気を強めて言った「お前は何者か。なぜここへ来たのか。なぜヘラカンババの名前とヒンドゥーの聖なる法のもとお前がドラマを作りだすのか」 その後すぐにパントは自分の信仰に関わる体験をした。パントは、ババジの髪から耳の辺りまで影が出てくることに気づいた。「影」はババジの顔全体に広がった。一瞬ババジの頭はプラズムらしきものの後に消えた。この「スクリーン」かプロトプラズムの表面に、パントは壁に描かれたようなババジの体の「スケッチ」を見た。その「スケッチ」は明るいピンク色のババジの顔を二つ重ねて現れ、切り裂いたような目があった。パントはこれを目撃して驚き、辺りを見回し、今見ていることがどうやって起こっているのか調べようとした。彼がババジの姿に目を向けると、ババジが座っている席から浮きあがり、体からは煙が流れだし、頭を輝く光が囲んでいた。ババジの第三の目から光線が放たれパントに向けられていた。パントはこの強い感覚と状況に耐えられず、ババジの足もとに伏し「おう、ババ?止めてください!止めて!止めて!」と乞うた。
  ババジがパントの頭を手で押さえたので、パントは恐怖で狂わんばかりとなって手で払いのけ部屋から飛びだした。




 パントがハルドワーニーに戻ろうとリキシャを探していると、二人のジャーナリストが近寄って来た。彼等に何か見たかと尋ねたが、二人はパントのような体験はしていなかった。数人の人達が何を見たのかと尋ねたが、彼は見たことを誰にも話さなかった。
 その夜の夕食後パントは寝室に行った。部屋の明かりは妻が後から来るまで点けておいた。パントは目を閉じて眠ろうとした。するとババジが肉体を持って現れ、ベッドに座ったとパントは言う。パントはベッドから飛び出してババジに挨拶しようとしたが、そこには誰もいなかった。そんなことが数回続いた。妻が部屋に来たので、起こったことを話すと、彼女は「あなたがババジを嘲るからそんなことになるのよ」と言った。
 次の朝パントはカスガリア・アシュラムに戻り、遠くからババジを見て、そこからババジにプラナムを捧げて家に帰った。
 パントはそのとき以来自分が帰依者であると考えたが、ババジが誰であるかについては分からなかった。人々がババジをシヴァ神の顕現であると思っていたことは知っていたが、パントはシヴァ神の帰依者ではなく霊的な修業をしたこともなかった。なぜ自分にシヴァの証がなされたのか。パントはババジが多分タントラのマスターであり、彼がマスターを嘲ったりからかったりしたのでババジがタントラの力を使って自分を催眠にかけたと考えた。パントの心にもしかしたらババジは本当に聖なるお方ではないかという思いも浮かんだが、数ヶ月してナンティンババから話を聞くまでは納得できなかった。








 ババジは冷やかしや試しのためとか、彼からどんな利益を得られるかを見にくる信仰のない人間から、自分を隠す名人でもあった。彼はよく山育ちの無学な青年のふりを演じたので、多くの人がババジをそれだけの者だと思い込んだ※。
   1976年に一人のアメリカ女性が、ババジに多くの疑いを抱いたままやってきた。彼女の滞在が八ヶ月に及んだ時、ババジは彼女に告げた。
「あなたが疑いをもってくるなら、私はあなたに疑う理由を与えよう。疑惑をもってくるならば、あなたに疑惑を起こさせるどんな理由でも与えてあげよう。しかし、あなたが愛を求めてくるならば、あなたが知っている愛以上のもを見せてあげよう」
 彼のもとに来て明け渡す者に、ババジはすべてを与えた。





『ババジ伝』ラデシャム著(はんだまり・向後嘉和訳)より





※ アルジュナにシヴァ神がヒマーラヤでその姿を顕した時は、大勢の女性を連れた無礼で田舎っぺの山岳部族民としての姿としてであった。またアーディシャンカラにヴァーラーナスィーでその姿を顕した時は、不可触民の男としてであった。このようにシヴァ神が姿を顕す時は、ヨーガのマーヤーによって詐欺師じみた怪しげな存在として姿を現すのである。これはどうもシヴァ神の好みのようなのである。つまりシヴァ神は明らかに一見して神としてわかる姿をもって自己を現すよりかは、馬鹿にされた者、胡散臭い者として現れるのである。アルジュナやシャンカラにさえこの有様なのだから言わんや、信仰心なき者にその本性を特定することは不可能であろう。







   最後は自己を隠匿する名人である20世紀型ハイダカーン・ババが、山育ちの無学な俗物青年を演じて帰らせた例である。帰らされた青年は後にアメリカでアップルという名の会社を作ることになる。






 動けるくらいまで回復すると、すぐにニューデリーを脱出。まずガンジス川源流に近いインド西部の町、ハリドワールへ行く。メーラというヒンドゥー教の祭典が三年に一度、行われる場所で、1974年は、クンブメーラと呼ばれる12年に一度の大祭の年だった。面積はパロアルトくらい、人口10万人に満たない小さな町に1000万人以上の人が集まっていた。
 「聖人だらけだった。こちらのテントに導師、あちらのテントにも導師という感じで。象に乗っている人もいたし、なんでもありだよ。数日とどまったけど、僕が求める場所はここじゃないと思った」
 そこから列車とバスを乗りつぎ、ヒマラヤ山脈のふもと、ナイニータール近くの村へと移動した。ニーム・カロリ・ババが住む――いや住んでいた村だ。
 ジョブズが訪れたとき、ニーム・カロリ・ババはすでに亡くなっていた(少なくとも、同じ輪廻の輪にはいなくなっていた)。ジョブズは部屋を借り(マットが床に直接置かれていた)、その家族が提供してくれるベジタリアン食を食べながら体の回復を待つ。
 「前に来た人が置いていった英語版の『あるヨギの自叙伝』があったので、それを繰り返し読んだ。ほかにすることもなかったしね。あちこちの村まで歩いていったり、そういう生活をしながら赤痢で痛んだ体を回復するのを待ったんだ」
 アーシュラムと呼ばれるヒンドゥー教の修行所では、ラリー・ブリリアントという人物と知り合いになった。天然痘撲滅をめざして活動する疫学者で、のちにグーグルの慈善事業部門とスコール財団を統轄するようになる人物だ。ジョブズとブリリアントの付き合いはそれからずっと続く。

 あるときジョブズは、ヒマラヤ山中に事業家が保有する私有地にヒンドゥー教の聖人が信徒を集めるという話を聞きつけた。
 「聖なる人と会い、その信徒と話をするいい機会だった。おいしい食事にありつけるチャンスでもあった。食べ物のいいにおいがしていてね、僕の腹はぐぅぐぅ鳴りっぱなしだった」
 弟子たちに交じっていろいろと食べていると、聖人(ジョブズより少しだけ年上に見えた)がジョブズを指さして大笑いしはじめた。






 「走ってくると僕をつかみ、ひーひー笑いながら『君は赤ん坊のようだね』って言うんだ。なんともばつが悪かったよ」
 聖人はジョブズの手を取ると、信徒が集まっている場所から離れた丘の上へと連れて行った。そこには井戸と小さな池があった。
 「座ると、大きなカミソリが出てきた。頭がおかしいんじゃないかと心配になったよ。でも次に出てきたのは石けんだった。あのころ僕は長髪だったんだけど、彼は僕の髪を石けんで洗い、すべて剃り落とした。そのほうが健康的でいいんだって言って」
 友人のダン・コトケは夏になるころインドに到着した。ニューデリーで合流したふたりは、それからしばらく、バスなどを使い、あちこちなんとなく放浪して歩く。ジョブズは叡知を授けてくれる導師を見つけようという気をなくし、苦行、欠乏、質素を通じて悟りにいたろうと考えていた。しかし心の平安は訪れなかった。コトケによると、買った牛乳が水増しされていると思ったジョブズは売り子と大声でけんかするなどしていたという。




『スティーブ・ジョブズ』ウォルター・アイザックソン著(井口耕二訳)






 こうしてジョブズは20世紀型ハイダカーン・ババに俗物しか見なかった(それは鏡としてのジョブズの姿そのものであったわけである)。彼には金を儲ける嗅覚はそなわっていたのは確かだが、残念ながら聖者を見分ける嗅覚は、持ち合わせてはいなかったようである。金を儲ける嗅覚は人を真理と平安から遠ざけるが、聖者を見分ける嗅覚があれば、真理と平安は既に彼のポケットの中にあると言っても過言ではない。それにしてハイダカーン・ババのジョブズの取り扱いは、さすがマハーマーヤー最強の使い手という感じで傑作の悪党ぶりである。私はこのエピソードを読んで以来、私の中でジョブズといえば、プライドだけ高い赤ん坊のように幼稚な間抜けというレッテルが貼られることになってしまったわけだが、ハイダカーン・ババが自らムンダン(剃髪)までして、至れり尽くせりの対応で祝福までしてくれているのに、気づかないジョブズは愚鈍としか言いようがない。しかしながらお前そこで気づけよという方が無理な注文かもしれない。グルショッピングとしても上々だったのに、所詮彼には歴史的な仕事に駆られてアイフォンを作る程度の能しかなかったのだから。ジョブズは、四姓のうちのヴァイシャ(商人)の生き方としては最高の成功を収めたわけであるが、もし私だったら、ジョブズのようにヴァイシャとしての成功か、あるいはハリウッドの大スターやプロサッカー選手としてシュードラ的な最高の成功を送る人生と、ニーム・カロリ・ババやハイダカーン・ババの草履取りかアーシュラムの皿洗いの人生を選べと言われればむろん後者を選ぶ。後者を選ぶ人生もあったのに前者を選んだのは、それだけジョブズがエゴの強い間抜けな俗物だったということにもなろうし、あるいは歴史的な運命の力もあったわけであるから仕方ないといえば仕方ないのかもしれない。iPhoneユーザーには良かったのかも知れない。ハイダカーン・ババに「君は赤ん坊みたいだね」とひーひー大笑いされたからこそ今のiPhoneがあるのであって、無理にヨーギンの力で運命を捩曲げられて、調子よくおだてられていい感じにハイになったジョブズが聖人見習いにでもなっていたら、今のアップルは存在しなかったわけであるから。



 



個々人のカルマによって、
人びとは聖者から遠くに送り出される。
それは、さまざまなかたちをとるのだ。
ともにいる期間が終われば、
別離はかならず起こる。



ニーム・カロリ・ババ