第1章 第27節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む



सर्वे चास्य वश्या भवन्ति ॥२७॥


sarve caasya vazyaa bhavanti ॥27॥


【そして、かの者により[1]あらゆるものが[2]屈服[3]し[4]、】






[1]asyaは、「これ、この、彼、彼女」などを表すidamの属格である。ここでは動作者を表す。「彼による」ということである。

[2]sarveは、sarva(全て)の複数形である。

[3]vazyaaは、vazya(服従・屈服)の複数形である。あらゆるものが彼に屈服し服従するようになるということである。灰による沐浴や六つのクリヤー(行動)を行うことによって浄化された者は、なぜあらゆるものを屈服させるようになるのか。まず彼は欲望が破壊されているが故に、もはや自己の欲望に従って何かを望むことが最小限となる。そして彼の望むことは、宇宙の法則であるダルマと一致したものとなる。彼の望むことは宇宙の望むことと一致する為、最終的にそれは必然的に起こるようになる。また彼の望まぬことは、宇宙も望まぬ故に彼の意志に反することは生じなくなる。しかし当然これだけではない。彼が敢えて望むことは必ず起こり、敢えて望まぬことは起こらなくなるのは、彼の意志が高次の世界と結合した結果、他の者の意志に優越するようになるからである。つまりこれは世界へ影響を及ぼしうる力(シャクティ)を彼が持つということである。人間は自分が思う以上に無意識の奴隷であり、人間機械であり、自分自身の主人では全くなく、その意志の次元は低く、高次の意志の前では屈服せざるを得ない。これは意志の次元の問題である。高次のマトリックスに意志の影響を及ぼせる者は、高次の意志に無防備な他人を操作することも可能となる。しかしながらそのようなシッディを持つ者は、自己の欲望の為にそれを行うことは少ないし、浄化された者として他者の自由を最大限に尊重するであろう。力を持つ者にはそれ相応の責任が生じるのは道理であるから。また彼は人ばかりではなく、その他の様々な鉱物や植物そして動物などの存在者にその意志を影響させることができるようになる。我々は意志としての自己の願望や夢の論理を世界に最低限のラインでしか行使することができない。たとえ夢の論理を、世界に行使しようとしても、他者の夢の論理やその他の存在物の意志であるところの固定化した夢や願望の論理に相殺され、または圧殺されて自由に振る舞うこができないのが現状である(これはこれでよいのであるが)。
 しかし浄化された者は、最大限の意識の深度をもってより低い波動世界に揺さぶりをかけられるようになり、あらゆる者に自己の意志としての夢や願望の論理を行使することができるようになる。それが則ち奇跡である。我々の知る物理的法則の平面より高次の法則として夢の論理があり、その影響力は一般的には微弱でなんら影響を及ぼせないからそれは現実的にはゼロと見なしてもかまわない。しかし超絶のヨーギンに至れば、かかる破天荒な夢の論理を世界に浸蝕させることができるようになるようなのである。私のグルやニーム・カロリ・ババの奇跡を見れば、あまりにその奇跡の範囲が夢の論理と酷似していると言わざるを得ない。つまり彼らは夢の中でできることなら、どうやら何でもこの世でできるようなのである。それというのもこの世界こそが、鉱物の夢の論理や植物の夢の論理、動物の夢の論理、人間の夢の論理、神々の夢の論理、天体の夢の論理そして至高の神の夢の論理などが共同で働く共有の区域であり、そのような力が共同した結果、出来上がったのがこの幻想マトリックス世界であるからだ。我々の夢の論理が鉱物の形態を自由に変化させられないのは、鉱物の夢の論理が優位だからである。しかしこの関係性が一転すれば、我々は夢見ることによって世界をそのまま一時的に変容させることができるようになる。これがシッディである。このような深いレベルでの夢の論理の波動領域に拠点をおきつつ、それを現実世界に展開が可能となるのは、それだけ彼ら超絶ヨーギンの瞑想能力が高いからである。
 私はここで頓馬な懐疑主義者の為に、私の言う主張を証明しようというつもりは毛頭ないし、それを信じて欲しいとも思わない。信じる必要性はむしろ全くない。なぜなら人はその時が来なければ、何事も理解できないからだ。しかしいつか私の言うことが分かるようになるであろう。ある意識レベルに達すれば否応なく、こうした現象をまざまざとかいま見る時がやってくるのだから、それがあなたの今生なのか、来世なのか、100万年先なのかは私の知らぬことである。そして時がくるまでは全く理解する必要はないし信じる必要もない。なぜならあなたはあなた自身が信じる幻想の論理の中で生きるべきであるから。

[4]bhavantiは、動詞bhuuの三人称複数現在形である。存在を表す。







   それではニーム・カロリ・ババの名前の由来ともなった逸話から例を見ていこう。





    つぎの話は、マハラジがニーム・カロリ出身の聖者を意味する、「ニーム・カロリ・ババ」として知られるようになった経緯です。これはかなり昔の話で、おそらくマハラジが二十代後半から三十代前半のことだと思われます。
 ある日、マハラジは何日間も食事をもらえず、空腹のあまりいちばん近い町まで列車に乗っていこうとしました。すると車掌が切符を持たずに一等席に座るマハラジを見つけ、急ブレーキをかけたのです。列車は車輪をきしませて急停車しました。しばらく言い争ったあげく、車掌は無理やりマハラジを列車から降ろしました。列車が止まったのは、マハラジが住んでいたニーム・カロリという村の近くでした。
 マハラジは木陰に座りました。車掌が笛を吹き、技師はスロットル・バルブを開けました。しかし、列車は動きません。しばらくのあいだ、列車を動かすあらゆる努力がなされました。別のエンジンが運ばれてきましたが、それでも動きません。マハラジの噂を聞いたことがある土地の行政官が、あの若いサードゥに列車に戻ってもらってはどうか、と鉄道の乗務員に提案しました。はじめ乗務員はそのような迷信を鼻にもかけませんでしたが、列車を動かそうと悪戦苦闘したあとだったので、試してみる気になりました。大勢の乗客や乗務員が食べものやお菓子をもってマハラジのところに駆け付け、列車に戻るように頼みました。






 マハラジは二つの条件を出しました。ひとつは、乗務員がニーム・カロリの村に駅の建設を約束すること(その頃、村人たちはいちばん近い駅に行くにも何キロも歩かなければなりませんでした)。もうひとつは、乗務員は今後、サードゥに対してもっと丁重に接するというものでした。かれらは、自分たちができることは何でもすると約束しました。ようやく、マハラジが列車に乗りこみ、乗務員がマハラジに列車を動かしてくれと頼みました。すると「何だ、俺のせいで列車が動かないとでもいうのか」とマハラジが怒鳴ったのです。
   技師が動かそうとすると、列車は数メートル前進しました。しかし、途中で技師は「そのサードゥが命令しないかぎり、動かしたくありません」と言って、、列車を止めてしまったのです。そこでマハラジが「列車を出せ」と命じ、ようやく列車は出発しました。
 マハラジの話では、鉄道の乗務員は約束を守り、その後まもなくニーム・カロリに駅ができ、以前よりもサードゥを尊敬するようになったということでした。







   続いても奇跡の総合デパート、ニーム・カロリ・ババより。



 マハラジの乗った車が橋にさしかかりました。ところが、反対側から雄牛に引っぱられたサトウキビなどの荷車が何台も現れ、すっかり橋を塞いでしまったのです。運転手はスピードを落としました。
「なぜスピードを落とすんだ?」
「通れません、マハラジ」
「行きなさい!」
   運転手ができないと抗議すると「目をつぶって行きなさい!」とマハラジは言いました。
   運転手は目を閉じて、アクセルを踏み込みました。つぎの瞬間、目をあけると向こう岸に着いていたのです。






『愛という奇跡』ラム・ダス編(大島陽子・片山邦雄)より









   次は19世紀型ハイダカーン・ババ。





 ハイダカーン・ババの奇跡的な行いの多くの驚嘆するこどどもの中でも、高度で尋常でないのが、五火の行であるところのパンチャ・アグニ・タパシャである。百歳になるシュリー・モーティシンが、彼が少年の頃に母親と一緒に目撃したババジのこの苦行を詳細に描写している。
 バイシャカの月(4月~5月)の頃に、ハイダカーン・ババは、薪と円盤状の牛糞を積み上げて、離れたところから、ヨーギンの力でそれらに火を点けたのです。その時、彼は僅かに薄い布を纏って(四つの)火の中央に座っていましたが、炎はあらゆる方向から立ち上がっていました。火に次々と燃料が焼べられながら、この苦行は数日続きました。火勢が弱まった時には、見物人たちはババジが確実に燃え上がって灰になってしまっただろうと考えました。しかしその代わりに、彼の身体は昇る朝日のように眩しく輝き、その光は見物人には耐えがたいほどでした。彼が立ち上がり、その覆う衣を振り払った時に、ある人がババジの身体から水が滴るのを見ました。かつて聖なる師が一ヶ月の間、火の中にいたことがありましたが、帰依者達が懇願した時だけその火から出てきました。他のアヴァターでさえ、 このように自然の元素に支配権を振るい、実際にやって見せたことはありませんでした。


 おお主よ、あなたの限りなきヨーギの力は、至高の上に至高であります!


 ブラフマー神は苦行によって世界を創造し、主なるビシュヌ神は苦行によってそれを維持する。主なるサッチダーナンダ・サッドグル・サダーシヴァご自身であるハイダカーン・ババの苦行は、全世界を益し、あらゆものを祝福するが為に崇高であり、その至高なる苦行は、火・水・風・土・空の自然の五大基本元素を制御することの顕れである。





『From Age To Age』giridhari lal mishra







   続いては20世紀型ハイダカーン・ババ。






 1981年の10月にババジが帰依者達を巡礼に連れて行き、ヴァーラーナスィーも訪問先に含まれていた。この町はガンジス河が流れ、巡礼者が罪を洗い清めるため沐浴に訪れ、聖なる地で死ぬことを求める者も多く来ていた。カーシーはシヴァの町として知られている。
 ババジの一行はガンジスで沐浴し、川を行き交う観光船に乗った。カーシー・ヴィシュワナート・バガヴァンの有名な寺院の下流で下船した。寺院には巡礼の群衆が大勢いて、ババジの一行が皆で寺院の内部にあるシヴァリンガムにプラナムを捧げることは難しかった。





 シャーストリジは寺院の内院にグプタと共に入った。彼はババジから特別なプージャーを行うよう指示され、両手にに供え物の花を持って、シヴァリンガムの前に立った。シャーストリジは寺院の二人の司祭にプージャーを正式に行うためのの水を頼んだ。司祭達は内院に水はなくプージャーをする人達は自分で持ってくると答えた。司祭達はどこかでバケツに水を汲むはずだと考えてシャーストリジはもう一度頼み、寺院は混んでいるから水を取りに出て帰ってくるのは不可能だと付け加えた。寺院の内側に水はないと苛立った答えが返ってきた。信用できないシャーストリジが三度頼むと水はないと怒りを含んだ返答があった。






 がっかりしたシャーストリジとグプタがシヴァリンガムの前に座り、マントラを唱えシャーストリジが花を供えた。彼が水を捧げる時のマントラを唱えると、突然に水の流れが何もないところから現れ、リンガムの上に二、三分流れ続けた。





 寺院の内院にいた人達や入ろうと待っていた人達が水の流れを見て、多くの人達が小さい部屋に押しかけ「水だ、水だ、聖なる水だ!」と叫んだ。人々がシャーストリジとグプタの上に倒れかかり、グプタはやっと立ち上がりシャーストリジを助けおこした。二人の巡査が彼等が内院からでるのに付き添い秩序を取り戻した。
 水が聖なる力で現象化されるのを見て巡礼者達は大変に感動した。しかし、ババジは外の広場に立っていて、このリーラには何の関係もないという顔をしていたので、ほとんどの人達はこの小さな奇跡の源を知ることはなかった。





『ババジ伝』ラデシャム著(はんだまり・向後嘉和訳)より



 







知識なき行為(カルマ)は無益である。
愛と堅信なき行為は無益である。
単なる行為は惨めさをもたらす。
行為とジャパと知識が揃って、幸福と単純さがもたらされる。
主を認識するには善き性格と無執着が必要である。

子宮に在りし時、汝は執着しないことを誓うが、
しかし生まれ出るや否や、汝は〔カルマに〕にもつれ、無執着を放棄してしまう!
汝の心が汝を騙すのである!
これがすなわち汝が快楽を追いかける理由である!
あらゆる世俗のことどもは、解脱の欲望も含めて、汝を執着させる障害である。
聖なる平安を望むならば、無知なるカルマ(行為)より脱せよ!








『シュリーサダーシヴァチャリタームリット※』 シャーストリジ著(1959年)





※19世紀型ハイダカーン・ババが去り、20世紀型ハイダーカン・ババがまだ帰還しない時期にハイダカーン・ババからの霊感とマヘンドラ・ババの鼓舞によって19世紀型ハイダカーン・ババの伝記を書いたギリダリ・ラル・ミシュラの兄であるシャーストリジことヴィシュヌ・ダット・ミシュラによって書かれた本。