第1章 第22節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む



सर्वज्ञता ॥२२॥


sarvajJataa ॥22॥


【全知[1]、】



[1]sarvajJataaは、sarvaが全て、jJataaは知性や知識、知ることである。sarvajJataaで全知となる。全てを知るということである。この世界の対象として存立するものは、全て知性の対象たりうるので全てを知ることが可能となる。


 シッディはたいしたものではないというのがヨーギンと聖者の共通認識である。シッディはそれを得たものを時に傲慢にし、あるいは迷わせる。そういう意味では道の途中にある修業者の誘惑である。第1章の半分ぐらいからシッディの話が山ほど出てくるわけだが、最初の段階でこれほど無造作に当たり前にシッディの話が出るくるのは、このスートラ作者が普通にシッディを有していた人物だと推測することも可能であろう。勿体振って、貴重なものとして後だしするるわけでもなく、その描写は無造作過ぎるから。出来る人間は、自分の出来ることにそれほど重要性をおかないものだ。鳥が空を飛び、虎が強いからといってそれで彼等はそれを声高に宣伝するといういうことはない。空を飛んたり自分の強さを自慢したがるのはニワトリか猫でしかない。
 シッディや奇跡などは奇術師の見世物の類に過ぎない。例えば、私が全知でアメリカのマサチューセッツ州のマイケルの家を寸分違わず、描写して人を驚かせることができたとして、それに何の意味があろう。そこに実際に住んでいるマイケルなら同じように自分の家を描写することができるわけである。マイケルが知っていることを日本の私が自慢げに遠隔知で知っていると吹聴しても、それはすなわちマイケルレベルの知識に過ぎないわけだ。またキリストが現代の日本に突如出現したと仮定してみよう。キリストは信者を増やす為に東京ドームに大観衆を集めて、一切れのパンを大観衆の為に無尽蔵に増やして、奇跡のパンを数万人の人達に配るかもしれない。なるほどそれはその大観衆には驚異であろうが、特に空腹でもない飽食の大観衆にとって、それも手品師の技を見るのと同じ驚きしか提供しえぬであろう。それに比較すれば、例えば一週間、食べる者もなく飢えに苦しむ貧しい男が、道で倒れこんでいて、その男と道端で出会った老婆がその姿を哀れんで、持っていたヤマザキのあんパンを分けたならば、その男にとってはその老婆心こそが本当の奇跡であろう。 パンを空中から出そうが、マイケルの熟知している遠隔の地を他の者が透視しようが、それは、ヤマザキパン工場の代替に過ぎず、マイケルの知識範囲に過ぎない。世界の全てを知っていたとしてもその世界に没入し、そのマーヤーに完全に巻き込まれていれば、それは全知であっても迷妄であろう。本当の全知とは、この世界のマーヤーを抜け出す知識を授ける者の知を言う。グルも様々だ。人々の願望を実現するのを手助けするグルがいるであろう。これはカーマの実現という観点で言えば最低のグルである。次に人々に財産を築かせ、名声を与え、力を付与する技術を授けるグルがいるであろう。これはアルタの実現という観点で言えば、下の上のグルである。続いて人々に法と道徳を教えるグルがいるであろう。これはダルマの実現という観点から言えば中程度のグルである。上のグルは、解脱を教えるグルであり、これはモークシャの実現という観点から見た場合である。モークシャにもランクがある。肉体の刺をとり、肉体の痛みを取り除くグルは上の下である。心の刺を取り除き心の痛みを取り除くグルは上の中である。最高のグルは心というマーヤーそのものをひっこ抜いて覚醒を与える上の上のグル、つまりサッドグルである。
 お釈迦様の教えに毒矢の例えというものがある。人が毒矢で射られて傷ついた場合、まず毒矢を抜くのが先決である。毒矢がどのような毒を使っていて、矢の種類が何かとか、或はその毒矢を射ったものが、どこの誰で、誰の子供で、どんな動機があったかなど詮索するのはこの場合無駄である。まずは毒矢を抜くのが先決問題である。このようにしてお釈迦様は宇宙は無限か有限か、魂はあるのかないのか、宇宙の始まりはあるのかないのか、などの形而上学的問いは苦しみを受けている人間にとっては何の救いにもならないと説く。如何に苦しみを取り除くかという実践論のみ、お釈迦様は説くのであって、世界認識の理論構築などは一切行わないというのが仏教の態度である。それは徹頭徹尾、実践の教えである。このように苦しみを取り除くことができるということ、或はこの世界の幻想の罠にひっかかる無明を破壊することができるのが全知なのであって、世界を全て知り尽くしてもそのマーヤーから抜け出す知識がなければ、何にもならないわけである。全知やシッディといってもその構造の罠に気づかなくてはただのマーヤーに過ぎない。



 このようなことを理解し認識した上で、聖者の全知性を見ていきたいと思う。



 まずはニーム・カロリ・ババから。


 マハラジはある貧しい帰依者を、長期の巡礼によく誘っていました。彼は不満を言わずにいつも従っていましたが、旅の費用は借金で工面していました。あるときマハラジは、バドリーナートに来なさいと彼に言いました。出発前、彼は妻にプージャー・テーブルの上の小さなマハラジの写真を指さし、どんな理由であっても留守中に連絡を取りたくなったら、私はマハラジといるのだからこの写真に語りかけなさいと話しました。



 数日後、ヒマーラヤの高地にいると、マハラジは突然、彼の方を向いて「おまえはなぜここに来たのだ?」と言いました。 
「マハラジが来るようにと言ったからです」
「おまえの家にはダールも小麦粉も何もない。妻は食べものもなく、おまえが遠くに出かけたので、とても心配している。せめて家族が食べるパンぐらいは残してくるべきだった」
   しかし、マハラジの存在には不安を消し去る力がありました。家族の不安は消え、すべてはマハラジがいちばん適切に取り計らってくれると感じたのです。マハラジは食べものを妻に残してこなかったことをひどく叱りつけましたが、それから三十分後に「食べものがやってきた!食べものが手に入った。カシミール人のマザーが家族に食料をあたえたから心配しなくてもいい」と大声で言いました。
 帰宅すると、彼は妻にたずねました。妻はついに食料が底をついたとき、マハラジの写真のとこへ行って、家にはもう食べものがないと語りかけたそうです。すると数分もしないうちに、妻を娘のようにかわいがっている裕福な隣人が、小麦粉、米、ダールなどの袋をもって家にやってきたのです。妻はマハラジの前で感謝したのでした。





   これを読んで私のエピソードも付け加えたくなったので、次はハイダーカーン・ババをめぐる私の経験。


 これは私の物語だ。私はある時、5ヶ月程インドを旅して回ったことがあった。その旅はアマルナートを始めに巡礼し、その後インド全土に散らばる12のジョーティルリンガムを全て巡り、ヒマーラヤの四大聖地及び7大聖都に立ち寄って、最後にヘラカン(ハイダーカーン)のアーシュラムに滞在するというものだった。結果的に三蔵法師やシャンカラがインドを放浪したのと同じくらいの行程になり、旅のスケジュールはかなり過密だった。しかしその旅の間中、不思議とお助けマンが現れて旅をサポートしてくれるのは妙だった。真夜中にほとんど誰も降りない真っ暗なヒマーラヤの駅に着いて、右も左も分からかった時に、暗く細いグネグネの坂道を手を取るように案内してくれて、走っているバスを止めて、真夜中、寝静まった町の静かなホテルまで連れていってくれ、従業員を叩き起こしてそのまま何も言わず去っていった青年、異教徒が立入禁止のビシュヌ神の寺院で、誰に何を言われても「オーム・ナマハ・シヴァーヤ」と唱えて、それ以外絶対喋らずついて来いといって寺院の奥まで案内してくれた若い僧侶など、あげて行けば50人ぐらいになるだろう。最初はただの偶然と思っていたが、余りにもその頻度が多く、余りにも絶妙なタイミングで、かかるお助けマン軍団が出現するので私は、薄々これはハイダーカーン・ババの導きなのではないかと疑うようになっていった。余りにそうした現象が続くものだからしまいにはこの現象を名付けて「ババジ旅行代理店」と呼ぶことにした。そんなこんなでどこに行ってもババジ旅行代理店の人がやってきて助けてくれるので五ヶ月間のハードで無鉄砲な旅は不安も軽減されて大変快適だった。そしてこれはインド東海岸近くの奥まった観光客の一人もいない土地でのこと。その土地に行こうと列車に乗っていると相席のインド人が「そこはマオイスト・プレイス(テロなども行う毛沢東派共産党勢力の強い地域)だよ」と言って無闇に威嚇(おどか)してきた。私は脅かすんじゃねぇよと思いながら列車に揺られ、やがてまたしても真夜中に山奥の駅に下ろされることになった。オートリクシャーの運転手を掴まえて数少ないホテルを三軒ぐらい巡ってようやくその時は、空き部屋を見つけることができた。そして一泊した次の日のこと、私はヴァーユ・プラーナのみに記載のあるジョーティルリンガムのあるビンプルという村へ向かう為、バス停に向かったのだった。バス停にたむろっているインド人にビンプルに行きたいと言うと、そのうちバスが来るから待っていろと言う。しかし1時間待とうが2時間待とうがビンプル行きのバスはやって来なかった。何度かインド人に尋ねても、そのうち来るから待ってろの一点張りである。私は長期の旅の為になるべく金銭の節約が必要な状態で、タクシーやオートリクシャーを使ってビンプルに行くことなど論外であった。距離から言ったら数時間オートリクシャーを貸し切らなくてはならないわけで、値段は、バスの十倍ぐらいになってしまうのは明らかだった。するとどこからともなく、派手なTシャツを着たチャラいインド人の青年がつかつかやって来て、バスで行くのはダメだ、オートリクシャーを貸し切って乗って行けと盛んに主張し始めた。「何を言ってんだ、コイツは。俺は金がないんだ。オートリクシャーを半日も貸し切るなんて論外だ」と思ったが、そのチャラいインド人のTシャツを見ると、彼のTシャツにはデカデカと「Dad is always right(親父はいつでも正しい)!」と書いてあるのだった。私は笑ってしまった。dadは英語で親父という意味だが、ハイダーカーン・ババやソンバリ・ババ、ニーム・カロリ・ババなど聖者の名前に付くババというのも、直訳すると親父という意味である。つまりこのチャラい若いインド人は、「ババはいつでも正しい」と大書してある意味不明かつ意味深なTシャツを着て、盛んにオートリクシャーでビンプルに行けと主張しているのだった。これは明らかに「ババジ旅行代理店」の人だと考えざるを得なかった私は、全面的にそのチャラいインド人の言うことを聞いて、大枚はたいてオートリクシャーでビンプルに向かうことにした。それから間もなくそのチャラいインド人の助言が120%正しかったことを私は知るのだった。そのビンプルという土地は店もなければ、ホテルやレストランなども全くない、そもそも住民以外誰もやって来ないようなとんでもない田舎だったのである。その村には一台のオートリクシャーもたむろしておらず、バスも全く見かけなかった。恐らく現地民の為に、バスの運行は一日一便通っているかいないかぐらいの頻度だと思われる。その村にあの時、たとえ意地を張ってバスで行けたして、オートリクシャーのように駅のある町までその日に帰ることができなかったと思われる。





 このような「ババジ旅行代理店」現象が続く中、インドを旅している間に私は三つの願望を抱くようになった。一つは、ヴァーラーナスィーを歩いている時に看板に描かれれてあった、髭のあるシヴァ神の絵が欲しいという願望であった。しかしたいして探したわけでもなかったが、どこに行っても、ありそうでなさそうな髭のシヴァ神の絵を見つけることはできなかった。



   2つ目の願いは、このインド旅行の初めの目的地であったジャンムー・カシミール州のアマルナート洞窟に向かった時以来、下痢になってしまい、一ヶ月近くまともに食べれなくなってやせ細ってしまったことがあった。私は、日本ではその時まで菜食主義を2年ぐらい続けていたのだが、もうこの旅行では、倒れたら元も子もない、背に腹は変えれないとばかりに、食欲のある時は食べられるものは何でも食べるてやるんだ主義に主義変更して、マトンカレーやらチキンカレーやらをガツガツ食べるようにしていた。そんな時に、ラーマクリシュナのお膝元のコルカタで食べた、屋台のフィッシュカレーが殊の外美味しかったので、その影響もあってか美味いフィッシュカレーを食べたいという願望が私の中で生じるようになった。私は海の近くにいけばいつもフィッシュカレーを注文していたが、なかなかコルカタの屋台で食べたような美味いフィッシュカレーに出くわすことがなかった。そして三つ目が、南インドを旅していく中で生じた願望である。南インドはコーヒーもよく飲まれていて、現地のコーヒーハウスみたいなのが沢山あることはあるが、ゆっくりするような雰囲気でもなく、日本にあるようなのんびりできる綺麗なカフェというものについぞ出くわすことがなかった。そこで第三の願いは綺麗なカフェでのんびりしたいというものだった。このようなささやかな三つの願望を持って私は北から南インドを旅して、やがて私の誕生日を、コチという南インドの風光明媚な観光地で向かえることになった。


   その日は、コロニアルな歴史的建造物が立ち並ぶところを観光しつつ、朝からインドでも三本指に入るようなオシャレなカフェで朝食を取った。そしてお昼には現地の有名なチャイニーズ・フィッシング・ネットで掴まえたであろう、美味い魚のカレーを食べた。その後、観光地を巡っていると私は骨董品屋で思いがけず、髭のシヴァ神の絵を無造作に見つけた。それは500ルピーと高くはなかった。躊躇することなくそれを買って、近くのホテルのオシャレなカフェで午後のひと時を過ごしていた私は、あっという間に自分の誕生日のこの日、数ヶ月苦しいことも多い旅の中、願ってみても、なかなか叶うようで叶えられなかった、私のささやかな三つの願いが全て半日で実現したことを知ったのだった。私はその時、私のグルの恩寵というものをまざまざと感じたのは言うまでもない。私は生まれて初めて、自分が心の底から祝福されていると感じたのを覚えている。それから数ヶ月後に、現存するはずのない肉体を身に纏い、19世紀型ハイダーカーン・ババそのままの姿のグルに会うことになるわけだが、その時、グルがニヤニヤしながら言った言葉が「プラサード・ティーケ(恩寵に満足したか)?」であった。




(コチで買ったシヴァ神の絵)

(私が出会ったハイダーカーン・ババはこのままの姿だった。21世紀にこの姿で座っていられた時はドン引きだった。)




   最後にもう一つ20世紀型ハイダーカーン・ババのエピソード



 ラメシュ・チャンドラ・シャルマはロバホンの補助教員で、その村はマヘンドラ・ババが何年も住んでいたところだった。シャルマはまだマヘンドラ・の死を深く悲しんでいた。ある夜、彼はマヘンドラの亡骸がヘラカン(ハイダカーン)・ババの生きた姿に変わり、ヘラカンの洞窟に座っている夢を見た。シャルマはその夢を祭司に話したが、祭司はその話を重要に思わなかった。しかし同じ祭司が数日してロバホンにやって来ると、ヘラカン・ババが再び出現し、ヘラカンの洞窟に座しているという手紙を受け取ったとシャルマに伝えた。シャルマは急いでヘラカンに向かった。
 「私達は日曜日の午後7時に着いた。彼は石段の三段目にヨギの姿で座っていて、それは彼が死から蘇った私の見た夢のとおりだった。彼の着ているものも夢と同じだった。

 旅で疲れていた私は、お茶を飲んでから石のうえでゆっくりと寝た。バガヴァンは、朝の沐浴を二時半から三時の間にするようにと言った。とても寒かったけどゴウタマ・ガンガーに入ると気持ちが良かった。それから礼拝の歌を歌っていると、村の人達がババジのダルシャンに集まって来た。 


 朝の九時頃、ババジのダルシャンをもう一度受けたが、彼の若い肉体を見ていると、この若い聖者が本当にヘラカン・ババなのかと深い疑問を持ち、私は真剣に考えた。私達は違う聖者のところへ来てしまい、結果として自分達のサッドグルに背いているのではないかと恐れた。私は来ていた帰依者の一人に、この聖者がババジの洞窟にやって来て、もう一度ヘラカンババに会いたいと思ってる人達がババジの再来だと想像しているのではないか。でもこの若者は私達のバガヴァンではないのではないかと話した。それと同時に彼が本当に再び現れたのであれば、それを証明するものを私に与えてくれるように、そうすれば信じますと熱心に祈った。

 私が仲間の帰依者にこのような話をしていると、ババジがこちらに来るように合図するのが見えた。彼のところへ行き、お辞儀をして手を合わせていると、彼が「息子よ、どんな本を持ってきたかね」と尋ねた。マヘンドラの「ディーヴャ・カタームリート」と神を讃える歌集ですと答えた。ババがもう一度質問を繰り返すと、私は突然、自分の父が書いたプラヴゥを讃える詩句を持ってきていたのを思い出した。ババにそれを言うとババはそれを袋から出すようにと言った。その本に目を移すことなくバガヴァンはページをめくり、あるページでさっと止めると、ある行に指をおいて私に読めと言った。
 この間ずっとプラヴゥは私に微笑みかけていて、本には一度も目を向けなかった。私はその間プラヴゥのリーラを見ていた。かれが指を置いた行にはこのように書いてあった







我が心よ、そなたは忘れしや、
そなたのサッドグルはシャンカラ(シヴァ神)御自身なり。








 この行は私の父の手で書かれてあった。私は平伏してバガヴァンに帰依すると決めた。このように全知であることを示されることで私の疑いはすべて消えた」


『ババジ伝』ラデシャム著(はんだまり・向後嘉和訳)