第1章 第20節 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む



ततोऽस्य योगः प्रवर्तते ॥२०॥


tato'sya yogaH pravartate ॥20॥


【然る後[1]、かの[2]ヨーガ(結合)[3]が生じる[4]。】






[1]tatoは、tatasである。「それより、その時、然る後、それ故に」などの意味である。前述の「汚れなき心を目指す行いによって」を受けて、それによって、或は、その後にという因果的結合関係を表す。

[2]asyaは、「これ、彼」という意味のidamの属格である。ここではパーシュパタの修業者を指す。

[3]yogaは、ヨーガである。ヨーガの起源は、インダス文明に起因するといわれている。インダス文明のパシュパティ像がヨーガの姿勢を取っているのは有名である。そして遅れてやって来たアーリヤ人にはそもそもヨーガの文化はなかったと思われる。なぜなら同一民族の枝分かれであるペルシアのゾロアスター教徒には、ヨーガは知られていないから。従ってアーリヤ人が西方から持ってきたのは、祭式とリグ・ヴェーダなどに代表されるマントラ、アグニ神やインドラ神、ルドラ神への念想としてのヨーガと言語としてのサンスクリットであった。そしてインド亜大陸に広がった彼らが、インドのヒマーラヤやガンジス川を中心とする霊的風土と土着のインダス文明のシャーマン的ヨーガ文明に影響を受け、ハイブリット的に発展させていったものが今日のヨーガだと思われる。
 ヨーガは、今さら改めて筆者が説明するまでもないとは思うが、動詞yujから出来上がった語である。yujは、結ぶという意味である。ヨーガは、二つの動作の側面から理解されなくてはならない。二つの動作とは、動詞muc(解き放つ)と動詞yuj(結ぶ)である。mucはmukta(解放された)やmokSa(解脱・自由)などの名詞を形作り、yujは、当然yoga(結合)を形成する。
 人は、あらゆる束縛であるところのパーシュパシャに繋縛されている。そのような偽りのものに自己を結合させている結果、苦しみが生じているわけであるから、それを解き放つ(muc)ことが求められているのである。従ってそのような偽りから解き放たれて、真我(アートマン)や神としてのパラマートマン(至高我)にyuj(結合する)するというのがすなわちヨーガなのである。よくインド人の僧侶の名前に出てくる、スワーミーとは、支配者、マスター、主人という意味である。つまらぬガラクタであるところの物や、他人や幻想の奴隷であることをやめ、自分が真実の自己の主人となることが必要なのである。我々はあらゆる幻想のしがらみや無意味で不合理な束縛、不必要な制約を自ら好んで他人やそして自らにかす。これは愚かなマゾヒズムとサディズム、そしてエゴイズムと自由を恐れる卑怯な臆病さのなせる業である。そうしたいらぬ偽りの結合を解きほぐし、自らに由って立つ、独立自存の真実の自己であるアートマン、そしてこの世界の真実と結合するというのがヨーガの道である。考えてみて欲しい。どれほど権力や名声、地位、財産があろうが、金や物や他人や幻想に繋縛されその奴隷である限りその者は、所詮下郎に過ぎない。それらを完全に失ったと仮定し、目の前の者を裸にして、その者を曇りなき目で見れば、分かるというものだ。従って、対象に束縛されたくだらない下郎であることをやめ、自己の主人(マスター)にいたる道を我々は追求しなくてはならないし、何も知らず、内面空疎の下郎で人生を終えるぐらいつまらないことはないのである。






 それでは補足でシヴァ神とクリシュナ神を除けば、最高のヨーガの権威であるパタンジャリのヨーガの定義を見ていくことにしよう。


 パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』に於ける簡潔なヨーガの定義は以下のものである。


योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः ॥


yogazcittavRttinirodhaH ॥


【ヨーガとは、心の働きの止滅である。】


 心とは常にある対象への志向性がある。対象への志向性が消滅する時、心はその動きを停止する。対象から解き放(muc)たれて、アートマン(真我)やパラマートマンに結合する(yuj)のがヨーガである。パタンジャリの上述の定義はそういう意味では、解き放ちの観点から見た場合のヨーガの定義となる。yujとしての結びという観点から見れば、次の節で説明となる。





तदा द्रष्टुः स्वरूपेऽवस्थानम् ॥


tadaa draSTuH svaruupe'vasthaanam ॥


【その時、見る者による自己の本性との合一がある。】



 つまり心という、常に知覚の対象と結びつく働きが抑制され、見られるものとしての対象から解き放たれた見る者が、その働きが静止することにより、自己の本性であるところのアートマンと結合しそれに安住するというのがヨーガの第2の定義なのである。ヨーガはyujから語源的には、来ているのだから、アートマンとの結合こそが直接的にはヨーガであるわけだが、ヨーガの道は、心があらゆる対象との結合を解き放たれるという対象からのモークシャ(解脱・解放)の道を通じて実現されるわけであるから、「心の働きの止滅がヨーガ」と最初に言われるのである。心が自分だと思っているのは、文化的偏見であり先入観でしかない。心は自己の本性を覆う衣服である。心そのものを脱ぎ捨てる必要がある。心という対物レンズを通さずに自己に安住するということがつまりヨーガである。




[4]pravartateは、pravRtの三人称単数である。「起こる、生じる」という意味である。




 汚れなき心を目指す行いにより、自ずから解放と結合が生じるのである。獣主派の定義するヨーガとは外側からやってくるのものではない。ヨーガは全ての人々の内面にあって心が清まれば、自然と発現するなにものかである。







〔修業道の〕真ん中を進む者は誰にも自我消滅(フアナー)があり
彼が自我消滅によって消滅する時に存続(バカー)がある
おお、心よ、もしそなたに浮き沈みがあるなら
スィラートの橋と燃える火の上を渡れ
もし火が灯火の油から鴉の羽根のような
〔黒い〕煙りを出したとしても悲しむな
油はその火を通り過ぎる時に
油として存在しなくなる
たとえ油が道を燃える火で満たしても
自身をコーランの形にするであろう
もしそなたがここに到達したいなら
そなたはこの段階に全く無になって到達しよう
まず自身を自我から無我にせよ
それから、無からプラークを推し進めよ
無の衣服を身にまとい
自我消滅(フアナー)に満ちた杯を飲み干せ
それから、頭を低くして胸に押しつけよ
無の頭巾を頭にかぶれ
抹殺の鐙(あぶみ)に足をかけて自我を消滅せよ
そなたらの役に立たない馬を無の場所に駆り立てよ
少し混乱した(ふらつく)腰の周りに
腰がないところに無の帯を締めよ
肉体〔の属性〕を抹殺し、急いでそれを開け
その後、目に無の眉墨をつけよ
消え去れ、これからも一瞬にして消え去れ
それから、この第二の部分からも消え去れ
このように安らかにこれを進め
ついにそなたは消滅の世界に到達しよう
もしそなたにこの世の髪の毛一本の跡があれば
そなたはあの世について少しも知らないだろう




ファリードゥッディーン・アブー・ハミード・ムハンマド・ブン・イブラーヒーム・アッタール・ニーシャープーリー  『鳥の言葉(黒柳恒男訳)より