祇園祭 ⑤ | Z ライフ

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こんばんは


祇園祭の最終回です。


途中、こんなところを通りました。

坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地(近江屋跡)


この地は、慶応3(1867)年 11月15日、維新の功労者である土佐藩海援隊長の坂本龍馬(1835~1867)が盟友である陸援隊長の中岡慎太郎(1838~1867)と共に刺客に暗殺された近江屋(醤油商)があった所である。
龍馬は、海援隊の本部があった酢屋(材木商)に下宿していたが、前年の寺田屋事件により幕府から狙われていたため、土佐藩の出入商人であった近江屋に移っていたのである。
11月15日の夕刻、中岡が近江屋を訪ね、大政奉還後の政局について論じていたが、夜になり、十津川郷士と称する男たちによる襲撃を受けた。
龍馬はその場で絶命し、中岡も2日後この世を去った、龍馬33歳、中岡30歳、実に大政奉還(10月14日)が行われた11ヶ月後、王政復古の大号令(12月9日)が出る1ヶ月前の出来事であった。

龍馬と中岡はともに遭難した山田藤吉と現在の京都霊山護国神社に埋葬されている。


スマホが熱中症になりそうで、アッチーチです。
本能寺でしばらく休憩させてもらいました。

信長公廟(びょう) 本能寺の中にあります。


信長が光秀の謀反(むほん)により無念の自刃(じじん)をとげたのは 天正10(1582)年6月2日早朝におきた本能寺の変であった。
そのころ、当寺は四条西洞院にあり四町四面の広大な寺城、周囲に堀と土塁その内部に七堂伽藍や多くの子院や厩舎を備えるという城郭構えになっていて信長が常宿するにふさわしい都で随一の大寺院であった。

この大伽藍が烏有に帰し光秀の天下もわずか10数日で終わったあと信長の三男信孝は、信長らの燼骨収集の作業をすすめ、本能寺の変から1ヶ月後の7月3日、早くも本能寺を父信長の墓所と定めた。

この信長の墓はこのとき信孝が建立したものであ る。この廟所には武将の魂とされる信長所持の太刀が納められている。

休憩の後、山鉾巡行に戻ります。

この辺りは、有料席のあるところです。

NHKの前に来ました。もう暑くてたまりません。
また、ちょっと休憩させてもらいました。

光る君への展示がされてました。



椅子を設置してくれていたので、沢山の人が休憩されてました。

巡行を終えた山と鉾が帰って来ています。












朝から暑い中、ご苦労さんでした。


祇園祭のこの辺で、


ではでは