8月下旬、少し遅めの夏休みをとった妻と一緒にロンドンにいた。

 ロンドンでは芝居・ミュージカル・クラシックの演奏会を堪能した。昼はプロムス、夜はシェイクスピアシアター、レンタカーでストラドフォード・アポン・エイボンにも足を運んだ。

 ロンドンには姪がいる。姪は京都大学経済学部に進み、大学院では教育学を専攻した。S市長をこえたと自称する姪は現在イギリスの大学に留学中である。

 

 ロンドンで数日過ごした後、姪と一緒にデンマークに飛んだ。

 あるフォルケホイスコーレを訪問するためだ。

 そこに、Sがいる。

 

 ある時からSの消息がわからなくなった。

 ふるさとの町の災害・裁判・消滅が世間を騒がせた時、Sはその姿を一切見せなかった。取材を試みたマスコミや個人は少なくなかったが、どこにいるか全くつかめなかった。

 俺も手を尽くしてみたが誰もわからないという。多分Sの親族しか知らないか、あるいは親族も知らないかもしれない。だが親族にあたるわけにはいかない。

 

 ある時、何となくSの名前をローマ字で打ち込んで検索してみた。

 何度か試みて何の成果もなかった方法である。だが、適当にスクロールしていくと、その日はSの名が執筆者の一人として記されている論文が出てきた。経歴を見ると本人に似ている。そこから妻の知恵も借りて検索を繰り返すと本人らしい連絡先を見つけた。メールを送ると1か月後に返信があった。

 

 そこからいろいろ調整をして、本人の承諾を取った。

 再会したSは、「デンマークまで来ればってのはお断りの意味なのに、来たら会うしかないじゃないか」と満面の笑みで言う。

 俺の記憶が正しければ、同じ中学の同期だがクラスも違うし会話もなかった。会うのは「中学の卒業式以来」となるが、そこで別れの挨拶を交わしたわけでも再会を約束したわけでもない。さらに言えば、今回は「Sの去った後の町を追いかけたドキュメンタリーの作家」としてアポを取った。

 にもかかわらず、昔からの友人のような対応だ。

 

 そのまま、徒歩でSの自宅に向かう。自宅はSの所属するフォルケホイスコーレの敷地内にある、ちなみにフォルケホイスコーレには寮があり、Sはその寮監もしているという。自宅に着くと奥さんが迎えてくれて、そのままリビングに通された。

 

 姪は「S市長」と会って興奮気味である。中学の子ども議会以来だそうだ。

 

                              つづく…