市長となったSは、3つの公約を掲げた
・政治再建
・都市開発
・産業創出
これは、W議員や山川さんなど、のち市政刷新ネットワークに所属する人々からすると理解が難しかったものだろう。
政治とは、補助金など市の予算を引っ張ってくることであり、選挙とはご挨拶と現金で当選するものであるのが日常だった。
市の財政は赤字が当たり前。
都市開発とは、市の予算でハコモノをつくること。
産業創出とは、市の予算で観光協会や市を応援する会を立ち上げること。
若い者には我慢が必要だし、勉強は大人になれば役に立たないんだから教育に予算はつけない。
そういう日常を送ってきた人の多くは、市長となったSに対し異常な憎悪を見せる。
少し文学、演劇、ドラマの話になるが…。
物語はすべて「非日常の設定」から始まる。たとえば2時間サスペンスだと、いきなり殺人事件が起きる。夏目漱石はいきなり猫に日本語をしゃべらせる(吾輩は猫である)。高い壁の中で平穏な暮らしを送っていた人々の前に突然その壁よりも高い巨人があらわれる(進撃の巨人)。
物語の冒頭で日常が破られる。そしてストーリーは非日常の中で進む。非日常の中で、日常では表面化しなかった人間の愚かさ、疚しさが暴かれたり、心の美しさ、勇気や能力が発揮されたりする。
これを、この町とS市長誕生にあてはめてみよう。
発端は、現職大臣と市長・議長・議員との間の現金授受だ。選挙に関する現金授受は、この町レベルでは「日常・常識」だったのだろう。しかし、普通に考えれば犯罪行為である。現金授受は「非常識」なのだ。
そして、Sが市長に就任する。
Sは、政治再建と財政赤字の解決を進めた。世間の常識である。しかし、この町でそれを実行した人はいない。政治再建と財政赤字の解決を進めると、それは「複数の議員が支配するこの町の癒着と利権とを暴き、切り捨てること」になった。
この瞬間、Sはこの町の日常を非日常にしたと言える。
この町の常識を非常識と切り捨て、経済原則と法とに基づいた常識でこの町の再建を図ったのだ。
市政刷新ネットワークのメンバーや支援者は、癒着と利権、秘密の共有によって暮らしてきた人々だ。そういう日常がS市長によって暴かれる。そういう人が反市長を声高に叫ぶ。市民はSが市長になって困ってる、嫌っているというネガティブキャンペーンを張る。この主張はある意味で正しい。Sが不正を暴いたことで困る人がいるのは事実だ。だがこの主張はある意味で間違っている。「主語」が大きすぎるのだ。まさに国語力の問題である。
Sが市長になって、この町は「非日常の空間」となったと言えるだろう。
そこでは、愚かさや疚しさが暴かれたり、心の美しさや勇気や能力が発揮されたりする。
俺が探究学習や劇団指導などで見る中学生・高校生には、心の美しさ、勇気、高い能力を発揮する子供たちが増えてきたという手ごたえがある。
一方、Sが市長となる前のこの町の日常は、不正と利権、旧町意識と封建的価値観によって構築された暮らしだった。
Sの施策を「非日常」と感じる人は、やはりどこかで悪に加担しているのではないか。その疚しさをSにぶつけている。いわゆる他責思考だ。
そして、その根源が市政刷新ネットワークであることはいうまでもない。