若手議員2名が、A町保育所の移転先として「廃止が決まっている市営住宅」を主張し始めた。

 ハザードマップのレッドゾーンにある保育所の移転は急いだ方がよい。ただ、市が提案する田んぼアート事業跡地は、現在の保育所のある場所から5キロほど離れており、A町の外にもなる。であれば、同じ市内で数百メートル先にある市営住宅の場所ではどうか。廃止が決まっているので、取り壊してそこに保育所を建てればよい。

 という主張だ。

 

 これに対し市は2つの反論を繰り出す。

 市営住宅の取り壊しにかかる費用・時間が生じる。田んぼアート事業跡地であれば、その費用・時間はかからない。

 住宅街にあるので騒音リスクが高い。また、田んぼアート事業跡地の方が圧倒的に広さを確保できる。田んぼアート事業跡地内に、保育所と市民のための広大な公園を整備するのが認定こども園構想にある。子供たちの教育環境としては市街地より田んぼアート事業跡地の方が良い。たとえば子供たちの散歩をする際、市街地と隣接する公園とで、どちらが職員の負担やリスクが高いかは明確だ。

 もっともである。

 

 市政刷新ネットワークのゴーストライターである俺が言うのも何だが、ここで俺がSの市長としての思いを3つの視点で解説しよう。

 

 まず、選挙権のない人々の声を拾うことである。

 市長も議員も「選挙で選ばれる人」だ。したがって、市政運営の根拠に「選挙権のない人の声」が反映されることはほぼない。

 A町保育所の移転問題では、市政刷新ネットワークも2人の若い議員も「利便性」を移転先の根拠としている。この場合の利便性とは「保護者、つまり選挙権を持つ人」にとって都合のよいことになる。

 これに対しSは、「子供たちの安全確保と教育環境の充実」を移転先の根拠としている。安全と環境とは「子供たち、つまり選挙権のない人」にとって都合のよいことになる。これは、市長としての「高貴なる義務」と言えるだろう。

 

 次に、多数決は正しい結論を導くとは限らないということだ。

 利便性か環境かで意見がわかれたならば、多数決でみんなが納得する結論にすればよいというのが日本の平均的発想であろう。しかし、多数決は正しい結論を導くのだろうか。市議会の多数決は市政刷新ネットワークが握っている。市政刷新ネットワークの考えは「市長の提案はすべて否決する」である。これが正しい結論なのか、是々非々なのか。

 俺は多数決の暴力だと思う。そして選挙権のない子供たちの声が市政に反映されないことの積み重ねが、この町の人口減少を加速させているのだとも思う。

 

 そして、議員たちはなぜ「利便性」を優先するのかである。

 それは簡単だ。子育てを女性・母親に押し付けているからだ。そういう封建的な価値観にとらわれていることに気づいていないのだ。

 彼らの多くは、「男は家族を食わせて一人前」という価値観の中におり妻には専業主婦になることを求める。しかし、この町の女性の多くはパートなどで働いている。それでも楽な暮らしではない。その姿を見て「お母さんが送迎する時、5㎞も離れると大変だろう」という表面的なフェミニズムが発動する。これは偽善だ。

 「お母さんが送迎する」という段階で、封建的価値観にとらわれていることに気づいていない。子育てを女性に押し付けていることに気づいていない。Sは独身だ。だから、結婚もしていない、子供もいない市長に子育ての苦労はわからないと陰で言っている。

 

 そうではない。子供たちがこの町に生まれてよかった、この町で育ってよかったと思える環境をつくることが大人の責務ではないのか。人口減少対策ではないのか。

 Sは、そういう発想で田んぼアート事業跡地に認定こども園と公園を整備すると考えているのだ。もちろん、経済的合理性もそこにはあるだろう。だが、あれほどハコモノ事業をつぶしてきたSが、初めてハコモノを作ろうと言っているのだ。その意図をなぜ理解しないのか。

 しかも、XさんはS市長を恨んでいるが、SはXさんに関係も感情も持っていない。市政刷新ネットワークの人はS市長がXさんに恨みがあるからだとコソコソ言っているが、それは自身の疚しさを投影しているだけだ。

 

 この議会は、市民の声を反映していない。

 市政刷新ネットワークのゴーストライターとしての俺は、市政刷新ネットワークのそういう愚かさを前面に出して、わかる人にこの議会の問題点を伝えることでもある。そしてわかる人は、Sが市長として高貴なる義務を果たそうとしていることがわかるはずだ。

 俺は思う。Sこそが政治家である。

 市政刷新ネットワークは政治屋の集まりにすぎない。