とういうお話
なんだかよく聞くようになったなと感じます。
有無を言わさず「やれ」が通用しない。
納得しないとやらない。
これは、なんか違うんじゃないかとふと思う。
納得しないとやらないのではなくて
やらない理由に「納得してない」をもってきているだけなのではないかと。
言いたいこと分かります?
逆なんじゃないかと。
ただ単にやりたくない、めんどくさい、だるい
でもやらなきゃいけないわけだけれど
特にこれと言ってやらない理由があるわけではない。
だから、「やる理由が分からない」、「やらねばならない理由に納得いってない」というものをもってきて
「納得いってないからやらなくても問題ないですよね」という正当化なんじゃないかと。
もちろん、子どもたちがそんなこと考えてるとは思わないんだけれど
無意識的にそういう防衛をしているとか
親がそう解釈しているとか。
意思の尊重とか、そういうのが影響あるのかなーなんて思うわけですが、要は、やらない理由探しの一つでしかないんじゃないの?
という…。
そんな気がしてならない。
だってさ、小中学校の頃、やる理由みたいなもの考えてました??
少なくとも、私はそんなもん考えてなかったと思うんですよね。
そういうもんとして、義務としてやっていた面の方が強いと思うんですよね。
受験期は流石に受かりたいとか、そういう理由はあったと思いますけれど
中一中二の頃なんて、そんなもんじゃないのかな?と思うんですよね。
やらない理由に「納得いってない」をもってくる
じつは親だって、そういう理由だってことにしてしまえば楽だったり。
やらない理由をその子の問題に転嫁させることが出来るわけで
いかなる理由であろうと強制的にやるんだというルール化する、習慣化するという戦いから親自身も逃れることが出来る。
あ、毒はいてます。
お気を悪くなされたら、申し訳ありません。
勉強って、習慣でするもんだと思うんですよね。
少なくとも、幼少期から低学年、中一あたりまでは。
やる気?
やる理由?
そんなもん、最初はないでしょ。
気がついたら後からついてくるものであって
そんなもん出てくるのを待ってたって、そんな日は一生来ないんじゃない?
BUMP OF CHICKENの『ダイヤモンド』って曲にこんな歌詞が
目標なんかなくていいさ
気づけば後からついてくる
そんなもんなんじゃないのかな。
だから
やるのを当たり前にする環境とか
当たり前にする努力とか
そういう人たちがいる環境に自分を置くとかってことが
重要なんじゃないかと思うんですよね。