西高の紹介を読み、強く思い出した文章があります。
昔、早稲田大学高等学院の小論文で題材にされた文章です。
私が塾として最も大切にしたいと考えていることでもあります。
読んでみてください。
本当は全文紹介したいのですが、長すぎるので
ヒマラヤのふもと、ガンジス川の上流にヨーガの道場が並んでいると聞いて、ぼくはそこを訪ねてみようと思った。
四十代半ばごろのことだ。
(略)
日本の禅寺での修行が、いかに厳しいものであるかは、よく知られている。
修行は未明からはじまり、厳格に定められた時間割にのっとって、僧堂での読経、座禅、洗面、食事、作務、そのくりかえしで一日が終わる。
すべての時間が行であり、顔を洗うにも、食事をとるにも、用を足すにも、決められたとおりの作法を守らなければならない。
掟に従った生活が修行なのだ。
ところが、インドのアシュラムでは、一切がその人自身にまかされているのだ。
日本の禅修行が頭にあったぼくは、ただただ面食らうほかなかった。
そこで、ふたたび受付の僧をつかまえて、日課は? と尋ねた。
すると、そんなものはない、というのである。
毎朝四時から山の上のホールで行われる聖典『バガヴァッド・ギーター」の講義を聞く人もいれば、ヨーガをやる人もいるという。
最後に、彼はこう付け加えた。
「修行をしに来たのは、あなたではないですか。 ここはあくまで修行の”場”なのです。何を修行するかは、まったく、あなたの自由です。修行しようがしまいが、それはあなた自身の問題ですからね」
まったくの自由!
それは、いっさいが自分の意志にゆだねられる、ということだ。
何もかも自分で決めて、自分でその責任を引き受けなければならない、ということでもある。
ぼくは自由というものがいかに難行であるかを、あらためて痛感した。
じっさい、それは、どれほど辛い修行であることか。
一分一秒といえども、自分から離れることができない。
すべての時間が、自分との戦いの場となるのである。
ぼくはこのとき、はじめて『バガヴァッド・ギーター』に語られているクリシュナ神の教えである「自分こそ自分の友であり、自分こそ自分の敵である」という言葉の、真の意味を思い知らされた。
人は、自分の心と仲良くなれたときに悟りが得られるのだ。
こうしてはいけない、こんな風に考えるべきではない、と、いつも自分の心と戦っているあいだは、まだ自分が敵であるに等しいのだ、と。
自分の心の赴くまま自由に行動でき、しかも、自分の心に照らして納得できるような生活を送れるようになったとき、それを「悟り」というのではあるまいか。
「自分こそ自分の友であり、自分こそ自分の敵である」とは、まさにこのことなのだ。
人生とは、そのような自分との戦いの日々なのである。
出典 森本哲郎『この言葉!』
いかがでしょうか。
上位校の方が、一般的には自由です。
そのかわり、手厚さもありません。
それは当然で、「オマエラは自分でやることは何か考えられんだろ」ということです。
「高校生にまでなって、自分のことすら決めらんねーヤツは知らんよ」「公ってことくらいは分かってんだろ?」ということです。
伝統的な名門校は、とにかく放任主義。
そして、進学実績は別に、学校が力を入れているってわけではなくて
そこに通っている子たちが勝手に頑張っている結果でしかない。
だから、浪人生だって結構多いところも多くある。
でも、それでいい。
自分のことは自由に自分で決める。
公共の福祉に反しない限りにおいて、自由に振舞う。
そして、その自由に振舞った行動に自分で責任を持つ。
まさに、私がずっといろいろな場で言い続けていることです。
だってさ、それが生きるってことだから。
以前塾報で書いたことがあるのだけれど
元服ってそういうことなんじゃないの?
と思っています。
そして、高校受験というのは今風の元服だって解釈ができるんじゃないのかな?
って思っています。
自分で自分の生を生きる。
自分に向き合い続けて自分の人生の主体たる。
とても難しく、厳しいことです。
でも、それが出来ないと、これから先の世の中って、どんどん生きにくくなっていくと思うのです。