学問をするのは何のためでしょうか。
受験というものを突破するためではありません。
そう捉えている人がたくさんいるのは確かで、たしかに、受験を突破することにより、難関と言われる高校、大学へと進学し、将来の所得が安定する可能性は否定できませんし、そういう傾向は見て取ることができます。
しかしながら、そんなことのために学問に向かうようではたかが知れています。
受験は単なる点取りゲームです。
大学生になって学問をやめてしまう人が多いのは、あるいは、社会に出てから学問をしなくなってしまう人が多いのは、中学校、高校と、勉強を、学問を、学ぶという営みを、そういう視点でとらえているからではないかと思います。
だから、勉強が面白くない。
受験勉強なんて、社会に出たら役に立たないとか、そんなことも言われるけれど、そうでしょうか?
私には、そうは思えません。
たしかに、受験の内容自体は、そこまでその人の仕事には影響はないと思います。
豊臣秀吉が天下統一したよねなんて、そんな知識は確かに実生活では使わない。
しかし、そういう批判をする人や、そういって勉強を軽視するような人は、実用的か否かという判断しかしていないません。
学問をするというのは、実用か否かとか、そういう話のためではありません。
そして、受験勉強も、日々の学びも、そういう実用とは離れたところから考えるべきものです。
勉強することというのは、自身の生まれ持った精神の土壌に、さまざまな種を植えていくことです。
何が芽吹くかはわかりません。
そして、いつ芽吹くかもわかりません。
知識の習得や、思考の仕方、自身の思考の伝え方などなど、そういった様々なものを教えていくのが教育の役割であるわけだけれども、そもそもそれは、日々生きていくということが、日々学ぶということであるからであって、その日々の学びというものは先ほどの苗とも等しい。
その種は多い方が良い。
だって、自分の土壌には、何が適しているかなんてわからないのだから。
だから、受験には使わない科目も教育には存在するし、実用的か否かなどという視点からすると、到底不要だと思われるようなものも学ぶ。
さらに、知識の習得や思考の仕方などは、その種が芽吹くのを、育つのを助けるものです。
知識の習得、思考の仕方を通じて、「学ぶ」ということそのものを身に着け、日々の「学び」にもいかしていく。
そうして様々なものを身に着けていくうちに、何かが芽吹き、他のものと有機的に結びつき、やがて自分の精神に沿って雄大な世界を作り上げる。
日々学問にばかり精進するようであれとは言わないけれど、そういう行為を日々続けていく。
そうすることによって、高校、大学、そして、社会人として豊かに好きなように生きていくことができるようになあるのではないのかな?と思います。
なんかもうちょっとちゃんと書きたいのだけれど、うまくまとまりきっていないなぁ…
いずれしっかり書きます。