現代社会はすぐに答えが出ることを、すぐに結果が出ることを求めがちです。
分からないことがあれば、ネットで検索をかければすぐにある程度の答えが得られる。
ネットで発注すれば、翌日か翌々日か、まあ、遅くとも一週間もすれば大体のものは届く。
誰かにコンタクトを取ろうと思ったら、すぐに電話なりメールなりで連絡が出来る。
良い事だと思います。
けれど、これが思考を支配してしまうのは、とても危険なことだと思います。
重要なのは「速さ」である。こうなってしまうのは、マズい。
もちろん、「速さ」が重要な場面は枚挙にいとまがないのだけれど、勉強とか、生きていくという事に関して言うならば、「速さ」というのはそこまで重要ではないと思っています。
何か事を始めれば、すぐに結果が出るというわけではありません。
じっくりじっくり、時間をかけて事はなされていく。
時には、分からないことがでてくる。
その分からないことをすぐに調べたり、誰かに聞いたりすれば、答えは得られるかもしれない。
けれど、それでは自分で消化したことにはならないかもしれない。
ヒントをもらえて「あ、そうか」となればいいけれど、下手をすると誰かの受け売り。
そうなってしまう可能性もあります。
そして、一番よくないと思うのは、誰かから答えらしきものを教えてもらって、それをそのままに受け入れて自分の思考放棄してしまうこと。
誰かが何か表現する。
それがどのような意味を持つのか。
それは、表現した人には確かに意図が存在するでしょうし、その意図を正しく読むべきでしょう。
しかし、それだけではよくない。
表現されたものに対し、自分なりの解釈をもって、その表現とぶつかっていく。
それが文章であっても、なにかのアート作品であっても。
そうして、自分の考えと相手の表現とのぶつけ合いやすり合わせを行っていく。
そうやって消化していって、自分の一部としていく。
時には、消化しきれなくてモヤモヤしたまま抱え続けることになるかもしれない。
けれど、それでよくって、そうだからこそ、考える意味もあるし、楽しさもある。
あるとき、「あ、そうか」となるかもしれない。
それは1年後、5年後、10年後かもしれないけれど、自分が経験してきたさまざまなことと有機的に結びついていって、あるとき、悟る。
そういうものだって、たくさんあるはず。
難解であるからこそ、長い時間をかけてじっくり自分と対話させていかなければならない。
ある時期から私はこれを「時熟する」と表現していたのですが、どうやらこの言葉、ハイデガーが作ったもののようです。
私が勝手に思いついたのか、どこかで見聞きしたのか、あるいは、むかーし読んでちんぷんかんぷんだった『存在と時間』なのかにそんな部分があったのか。
あまり分かりませんが、私はこの時熟という語を気に入って、よく使い、大事にしています。
勉強や、生きていくことの本質ってそこじゃないのかな?と思っているので。
すぐに分からなくてもいい。
時の流れの中で、自分の経験が増えてくる中で、あるときふと、「あ、そうか」と思えるような種を撒く。
塾屋ですから、入試が目的ではあるのだけれど、そういう勉強を当塾の子たちにはさせてあげたいなぁと思っています。