お母さんが喜びそうなことは?

 

母親と言えば……

私の場合―――

 

現在(いま)は妻が子どもたちの母親であり……

 

その母親がもっともの喜ぶ

は――

 

いつもいつも健やかに過ごしている子どもたち

元気な姿を観ていることだと思います!

 

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 2024年5月12日(日)

こんにちは雪月 剛(ゆづきごう)です。

 
今日も今朝アメーバさんより寄せられている

「 リブログ 」……

いつもほんとうにありがとうございます。

 

安倍晋三元総理大臣が2022年7月8日11時31分ころ

奈良県奈良市内において選挙応援中、凶弾に倒れている殺人事件

   ここに補足しておくものです…

 

どうぞ

よろしくお願いいたします~~~

〈 原文に段落行間隔らの改定を施しています… 〉

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 今日は

2022年5月12日(木)。

 

今朝も

アメーバさんより寄せられているリブログ――――

  前回に続く一連のリブログです。


この度は、

 

続きのリブログに入る前

 に、

 

 私たち雪月遭遇の実体験より思い知らされた

日本国の現実、実態(実体)

を、

まざまざと著わし嘆いておられるネット記事を見付け、

 

 『 こんな方もおられるんだ! 日本も、まだまだ捨てたもんでもないのかなぁ--- 』 

甚(いた)く感銘を受けました

ので

 

随分の長文とはなってしまいます

が、

 

少しでも多くの方々に届けられるよう、

 

併せてここに、

少々の引用をさせていただこうと存じます。


 作家の方は、

ジャーナリストで1945年生まれ――

講談社で『 フライデー 』 『週刊現代 』『 Web現代 』

編集長を歴任とある…

 

 元木 昌彦(もとき・まさひこ)というお方です。


では引用です―――


「 ワクチンは遅延、病床は不足、酒は禁止 」

          菅政権の無為無策には我慢できない

 

 5/11(火) 11:16配信

プレジデントオンライン


■なぜ日本人は怒りを忘れてしまったのか
 

無為無策を体全体で表している菅首相に、国民の我慢も限界に来ているはずだ

が、

 世論調査をすると政権支持率が40%前後あることが、私には理解不能である。


たしかに

「 他よりよさそうだ 」という曖昧な理由が圧倒的だが、

 これに対する答えはすでに出ている。

 

「 安倍晋三でも長きにわたって首相が務められたのだから、誰でもできる 」というものだ。


 その政権を引き継いだのだから、

菅政権が 

“ 無様 ” な醜態をさらすのは当然のことだ。

 

 だが、

 

その

政権に対して、陰に隠れてSNSで批判する人間は多い

が、

 

姿をさらして大声で怒りをぶつける人間が少ないと思う

のは、

私だけではないはずだ。


 なぜ、日本人の多くが

政治に対する怒りを忘れてしまったのだろう。


 元自民党のプリンスといわれた中村喜四郎衆院議員(立憲民主党)

は、

「 安倍政権の最大の功績は国民に政治を諦めさせたことだ 

 といった。


卓見だと思う

が、


それに加えて私

は、

日本人が大切なものを見失ってしまったからだと考えている。

 

それは

日本国憲法の前文に高らかに掲げられた


「 国民主権  

である。


1960年以降、

政治家や役人たちによって、憲法の前文にある


「 日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動

し、

  われらとわれらの子孫のために、諸国民と協和による成果

と、

 わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保

し、


  政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意

し、

 

 ここに

主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する 」


という文言を

 忘れるよう教育されてきたからである。


                          結果、

「 国民とはオレのことかと日本人 」 

なってしまったのである。


■この国を一番悪くしているのは誰か


 もう一度前文を読み返し、主権は我にありと自覚した

ら、

今の政治の在り方に怒りが湧いてこないはずはない。


 五輪開催を国民の健康よりも優先するこの国の政治の在り方

に、


“ 真っ当 ” な怒りをぶつけようではないか。


  国民の自由を制限しておいて、PCR検査もおざなりに

し、

医者や看護師、コロナ専用の病床を増やすことも十全にしない


 政治に怒るべきである。


「 ワクチン敗戦 」 といわれるほど後手後手になった

 ワクチン接種が遅れていることに怒るべきである。


菅首相をはじめ、

ウソばかりついて国民のことなど考えない政治屋

や、


  利権に血道を上げる電通をはじめとする政権癒着業者――


IOCのほうばかり向いて現実を見ようとしない

 

 五輪組織委の面々―――


その片棒を担いで

恥だとも思わない大新聞、テレビに対して怒るべきだ。


 この程度の国民だから、

この程度の政治、この程度のメディアしか、

 

この国には存在しないのだ。


 しかし、国を一番悪くしているのは、


何もいわない、怒らない、行動しない国民ではないのか。


 真っ当な怒りを表すことを恐れることはないはずである。


それができない、やろうとしないのは、この国の民

 「 国民主権 」

忘却しているからだと思う。


■われわれは今すぐに始めるべきだ


 白井聡は『 主権者のいない国 』(講談社)でわれわれにこう迫っている。

----------

 

「 内政外政ともに数々の困難が立ちはだかるいま、私たちに欠けている

のは、

それらを乗り越える知恵なのではなく、

 

それらを自らに引き受けようとする精神態度である。


真の困難は、政治制度の出来不出来云々以前に、主権者たろうとする気概がないことにある。


 (中略)

そして、主権者たることと

は、

政治的権利を与えられることによって可能になるのではない。


それは、

人間が自己の運命を自らの掌中に握ろうとする決意と努力のなかにしかない。


つまりは

人として当たり前の欲望に目覚めること、

 

それが始まるとき、


 この国を覆っている癪気(しゃっき)は消えてなくなるはずだ 」

----------

 

 原爆被爆と敗戦、阪神淡路大震災、

東日本大震災と原発事故、今回のコロナ禍。


 何が起きても、その時は大騒ぎする

が、

のど元を過ぎればあっという間に忘れ去ってしまって、


 学ぶことをしない。


酒を飲むしか能のない私でさえも呆れ果てる。


 このような国が、他国から尊敬されるはずはない。


われわれは、

自己の運命を自らの掌中に握ろうとする

 決意と努力を、


今すぐに始めるべきである。


 たとえコロナ禍の中であっても。 

(文中敬称略)

 


 以上です――――


それでは

 「 雪月 剛のリブログ 」

  を~~~

画像 まさに物心つかぬうちに両親が離婚危機 それを乗り越えるためには#日本を見ていて憂うこと の記事より

テーマ:

雪月 剛のブログ90 日本って不思議な国? 

       日本人って不可思議な人種!? 

パート21  


 小室直樹博士(故人遺作)著作 

『 日本国憲法の問題点 』 

集英社、2002年。 

より

 

引き続きの引用------

 

  前回、

「 敗戦国の逆襲 」を防ぐ最良の方法とは!? 

 

     の つづき------

 

 では――――

 

民主主義教育、 民族教育が行われないから、

 政治家も官僚もますます堕落(だらく)した。


政治家は 「 国家のためには命を捨てても惜(お)しくない 」 とおもわないから、

 大胆な改革など行えない。

 

官僚に反抗されたら、 へなへなと腰砕(こしくだ)けになる。


 その官僚もまた 「 自分たちは国家、国民への奉仕者である 」 

という観念がないから、

 

 国民の税金から出た機密費を流用しても、 良心の呵責(かしゃく)を覚えない。


自分たちの安楽こそが最優先で、 

 天下り先の特殊法人を守るのには熱心だが、 

 

血液製剤で 

国民が死のうと 責任を感じなくなってしまう。


さらに付け加えれば、戦前には 「 お国のためにならない政治家 」 を暗殺する

 右翼や、国家権力に実力で対抗しようと考えた左翼が存在したが、

 

そうした勢力は右も左も消えてしまった。


 政治家の暗殺は、1960年に社会党委員長の浅沼稲次郎が

山口二矢(おとや)に刺殺されて以来、絶えてなくなった。


 その代わりに大量出現したのが、 いわゆるカルト宗教である。

 

カルトの教祖たちは、学校教育に満足できない若者たちを吸収することに成功し、

 ついに国家転覆(てんぷく)を実行しようとした。


これらはすべて戦後教育のもたらした荒廃(こうはい)である。

( ここまでは以前にも引用掲載をしている--- )

 帝国大学の学生に限り、試験を免除する!(197P)より-------


 途中~(198P)-----

伊藤博文と森有礼の計略は見事に的中した。

 

 彼らの望んだとおり、東京帝國大学は 「 エリ-トを作り出す 」 学校になった。

 

いや 「 的中した 」 というだけでは、まだ充分ではない。

 

 なぜなら、

東京帝國大学ブランドは単に官界のみならず、経済界にも広がった。


民間企業でも東京帝國大学卒業生は歓迎され、その月給も飛び抜けて高いものになった。

 

 まさに、

帝國大学は日本の 「 階層構成原理 」 そのものになったと言っても過言では

ない。

 

 日本と欧米の大学は正反対

日本の大学は、国家のために作られた。


 このことは

多くの日本人にとっては当たり前のように思われるかもしれないが、

実はこれ、 大変なことである。

 

 というのも、 

欧米の大学は日本の大学とはまるっきり

正反対の歴史と性格を持つからである。  

 

 ヨ―ロッパで大学が誕生したとき、 それらはすべて 「 私立 」 であった。

 

権力と関わりのある大学など、 一つもなかった。


 そもそもヨ―ロッパにおける大学

とは、

公権力からの自立を目指して生まれたものであって、

 

 「 権力が作る大学 」 

なんて

矛盾(むじゅん)もいいところなのである。


 ヨ―ロッパで大学が成立したのは十二世紀から十三世紀にかけてのことだが。

 

これ以前のヨ―ロッパに高等教育機関がなかったわけではない。

 

 立派な設備を持ち、 書物を多数蓄(たくわ)えた学校はあちこちにあった。


しかし、そうした学校(スコラ)はすべて 「 紐(ひも)付き 」、 

 つまり権力の保護を受けていた。

 

具体的に言うと、 教会や王権が作った学校であった。

 

 したがって、 

そうした学校は教会の聖職者や王の官吏(かんり)を養成するためのもの

であったわけである。


 だが、ヨ―ロッパも十二世紀から十三世紀に入ると、

そうした学問に飽(あ)き足らない人たちが現れた。

 

 権力とは関係なく、自由に学問を追究したいという風潮が生まれてきたのである。


その直接のきっかけを作ったのは、 

イスラム世界に対する十字軍だった。


 当時のイスラム世界はヨ―ロッパとは比較にならぬほど学問が発達した地域であり、

中でも

古代ギリシアや古代ロ―マの古典研究に力を入れていた。

 

 十字軍によってイスラム世界を訪れたヨ―ロッパ人は知的刺激を受けて、

ヨ―ロッパの学問水準を

 向上させよう と考えるようになったのである。


そこでイタリアのボロ―二ャでは学生たちが集まって組合を作り、

 教師を雇(やと)うという動きが生まれた。

 

これが1088年に出来たボロ―ニャ大学の始まりである。


 これとは反対に、まず学者の組合が出来て、学生を教えはじめて出来たのが

パリ大学である(1150年頃)。

 

 このことからも分かるように、 

ヨ―ロッパの大学は最初から権力とは無縁であった。

 

オックスフォ―ドが 「 エリ―ト校 」 と呼ばれる理由

 

 「 大学の自治 」 という概念、あるいは 「 学問の自由 」 という概念

は、

こうした大学の姿から生まれてきたものであった。


 もちろん、権力の保護を受けないのだから、 

ヨ―ロッパの大学はその初期において校舎も設備もまったく

 お粗末なものだった。

 

たとえば

1170年に出来たと言われるオックスフォード大学

も、 

 莚(むしろ)の上に学生が坐(すわ)って講義を受けたと言われるくらいだ。

 

校舎もなければ、机も椅子(いす)もない大学!

 

  しかし、

これこそが本当の大学なのである。

 

筆者がⅯIT(マサチュ―セッツ工科大学)に留学した折、

 

 サミュエルソン博士(経済学者。1970年、ノ―ベル経済学賞受賞) から聞いたことだが、

初期のハ―バ―ド大学もまた同様のスタ―トであったという。

 

 「 丸太の向こうの端(はし)に先生を坐らせ、

こっちの端に私を坐らせれば、それが最高のが大学である 


 この博士の言葉のとおり、創立間もないハ―バ―ド大学は設備こそ何もない、

青空教室だったけれども、

 

 当時としては最高の教育を施していたというのである。

 

日本の教育制度は欧米の猿真似(さるまね)だと言う人は多い。

 

 ことに大学の制度は戦前はドイツ、 

戦後はアメリカの模倣(もほう)だと言われるわけだが、

 

そんなことはまったくのデタラメなのである。


日本の大学は設立の思想も目的も機能も、 欧米の大学とはまるで違う。


 伊藤博文と森 有礼(ありのり)によって作られた帝國大学

権力の保護を受けないどころか、

 

  権力そのものになった。

 

この結果、 

 

日本の大学は学問を研鑽(けんさん)する場所ではなく、 

 ただの通過点になってしまった。

 

学生にとって必要なのは 「 大学を出た 」 という事実だけであって、 

 そこで何を学んだかは関係ないのである。

 

これでは学生のほうも熱意がなくなるし、 教師ももちろん堕落(だらく)する。


 前章で述べたとおり、明治の日本は

 

初等教育においては

 

 世界に類を見ない大成功を収めた。

 

だが、 

 

一方の高等教育は、 その本来の目的を果たすことさえできなくなった。


 ことに東京帝國大学は、

単なる

 偏差値エリ―ト養成機関になり果ててしまったのである。

 

 

 次は「 雪月 剛のブログ91 」パート22 に つづきます----------  

 

  2020年5月12日

 

                 雪月 剛(ゆづきごう)

 

下記は拙著です。

 

 

 

――以上がリブログです。

    長文をまことにありがとうございました。