好きなコロッケは?

 

私の場合―――

 

コロッケと言えば………

 

どんなコロッケでも大好きには違いありません

が……

 

やはりいつになって

ベーシックなジャガイモコロッケが何よりです………

 

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2024年5月6日(月)

こんにちは雪月 剛(ゆづきごう)です。

 

今日も今朝アメーバさんより寄せられている

「 リブログ 」……

いつも

ほんとうにありがとうございます。

 

この度も

なにとぞ

よろしくお願いいたします~~~

 

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画像 #時の流れの早さを感じた事 の記事より

2022年度

コロッケに入っていて欲しい具材は?

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2022年5月6日(金)。

 

一年ゝ経つのはほんとうに早いもの

再々々を迎えたコロッケの日です。

 

きょうも

今朝アメーバさんより寄せられた

   リブログ――――

( 原文に段落行間隔らの改定を施しています―― )

 

どうかよろしくお願いいたします。

 

それではリブログを~~~

 

好きなコロッケ教えて!

 

私の場合、いまは昔の話―― 

 

 ジャガイモコロッケに子どもの頃の原点があり、

 

現在(いま)でも、何より好物のひとつ、

 

 大好きであります――――

 

2021年度

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  2021年5月6日(木)。


きょうもアメバさんよりいただいた

 昨日

〖 子どもの日 〗に引き続くリブログ、

 

昨年2020年5月6日付け投稿記事です―――――

画像 #少し前の事と思ったら〇年前だった の記事より

テーマ:

雪月 剛のブログ85 日本って不思議な国? 

       日本人って不可思議な人種!? 

パート16  

 

  では――――

 

小室直樹博士(故人遺作)著作 

『 日本国憲法の問題点 』 

集英社、2002年。

 より引用…

 

前回 

「 戦後教育 」 こそ、民主主義の敵、

   のつづき―――

 

入植後六年でハ―バ―ド大学を作った植民者たち 

 129P) 


ところが、

こうしたジェントリ―やヨ―マンという 

「 中産的生産者層 」 

 イギリスでは資本主義の成熟とともに急速に消えていく。

 

十八世紀のイギリス

を 

 

「 ヨ―マンの没落 」 と呼ぶ歴史家もあるくらい

で、

 イギリスでは急速にこうした人間が消えていった。


というのも、

経済の発達に伴って農場主とか工場主といった、

 

いわゆる

資本家が現れると同時

に、

 

そこで働く労働者

どんどん増えていったからである。

 

 誰にも頼らず生きていくヨ―マンのような人たち

イギリスで暮らしていけなくなった。


 では

このような人たちはどこに行ったのか。

 

そのうちの一部は新大陸に移住したのである。

 

そのことを特徴的に示す

のは、

植民地における大学の建設だ。


新大陸で最初に大学が作られた

のは、

 1636年のことである。

 

マサチュ―セッツの植民地に作られた

ハ―バ―ド大学が最初である。


 これがいかに驚くべきことであるか

は、

 

マサチュ―セッツに最初の植民者約1000人が到着した

のが

1630年だった

 

という事実一つ

指摘すれば充分であろう。


入植からわずか六年で、大学を作った!


 断っておく

  が、

 

この六年の間、

植民者たちはけっして遊んでいたわけではない。


何もない荒野に上陸し、草を刈り、道路を作り、井戸を掘り、

 自分たちの住む家を造っていた。

 

生きていくことに追われながらも大学を作ったというのである。


 なぜ、

そこまでして大学にこだわったのか。

 

それは彼ら自身

 

教養の価値 

知っていたからである。

 

 約1000人のピュ―リタンの中の四、五十人

は、

オックスフォ―ド大学やケンブリッジ大学の卒業生がいたと言われている。


 その他にも

出版業者や宣教師というインテリが大勢いたということ

が、

 

はじめから

高等教育が重視された理由であったと思われる。

  (中屋健一『明解アメリカ史』三省堂)


 アメリカには建国のずっと前から大学があった。

 

この事実を抜きにして、

 アメリカン・デモクラシ―の歴史は語りえないのである。


教育大陸アメリカの誕生  (131P)            


イギリスに続いて、アメリカに民主主義が発展したという

のは、

 けっして偶然ではない。

 

高い志と教養を持ったヨ―マンやジェントリ―の末裔(まつえい)

が、

 新大陸の主人公になったからであった。


ここで

アメリカにおける大学の歴史

鳥瞰(ちょうかん)しておくのも参考になるだろう。


 ハ―バ―ドに続いて、

1693年にはウィリアム・アンド・メアリ―大学が作られた。

 

この学校は今でも有名な大学として存続している。


 さらに

1701年にはイェ―ル大学

が、

 

1746年

には

プリンストン大学が作られている。

 

 さらに

1751年には現在のペンシルベニア大学、

 

1769年

ダ―トマス大学が作られている。


 このように植民地に大学が作られ、

そこで

高い教育が授けられていたこと

が、

 

のちのちのアメリカ独立につながってくるのである。

 

 アメリカ独立の父であるジェファソン

もまた、

 

こうした

高等教育を受けた人だった。


前述、

ウィリアム・アンド・メアリ―大学で法律を専攻したジェファソン

は、

 卒業後、弁護士として働くの

だが、

 

ラテン語はもとよりフランス語、スペイン語などを話せた。

 

こうした

ジェファソンのような人物が、アメリカにはたくさんいた。


しかも、それは

ヨ―ロッパに留学したわけではなくて、

 

自分たちの暮らすアメリカで教育を受けた人たちがたくさんいたから

こそ、

 

アメリカの独立は行えたというわけである。


 そのことを

一番知っていたのがジェファソンであった

から、

 

彼は

何としてでもアメリカの教育を一層振興しようと考えたわけだ。


民主主義の理想を守るため

には、

 まず教育が必要である。


その

ジェファソンの願いが通じたのか、

 

アメリカではその後

 どんどん大学が作られた。

 

独立後の1800年、アメリカには二四の大学があった。

 

 それから60年後の1860年…

 

アメリカには

なんと二四○校の大学があった。

 

たちまちにして、

 アメリカは旧大陸のどの国をも凌(しの)ぐ 

 

「 教育大国 」 

  なったのである。 

 

 

次はブログ86、パート17で、

 

 「 国民の育成 」 

こそ

アメリカ式教育のエッセンス(132P)につづきます―――  


     2020年5月6日

                     雪月 剛(ゆづきごう)

 

 

下記は筆者著の本です……

 

 

 

――以上がリブログ……

     まことにありがとうございました。