寒天ゼリーは何味が好き?

 

寒天ゼリーと言われたら、子どもの頃によく食べていたなァ

  甦ります……

 

日吉丸(後々の豊臣秀吉)と野武士だった蜂須賀小六

との

出あいで有名な〖 矢作川 〗河口を沿岸部に持つ、

海洋生物たちにとって

まことに

   栄養豊富な三河湾―――

 

そんな

三河湾沿いで育った私

寒天ゼリーの原料

「 天草 」

事欠くことなど全然ありませんでした(当時)。

 

今でもそうであります

私は殊の外「 寒天 」が大好き

親にねだってよく作って貰っていたものです……

 

色は赤とかブルーなどが多かったと思います

が…

 

味の方はできあがり具合によって

それぞれの

味であったと記憶にあります……

 

何味が好きかと問われて

私は寒天ゼリーが持つ独特な舌触りの感触

楽しんでいたこともあり……

 

美味しいに越したことはありません

普通に美味しければどんな味であって

も……

  

寒天ゼリー

  そのものが大好き―――

 

 

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 2024年2月16日(金)

こんにちは雪月 剛(ゆづきごう)です。

 

今日も今朝アメーバさんより寄せられている

「 リブログ 」……

 

〈 原文に段落行間隔らの改定を施しています… 〉

どうか

よろしくお願いいたします~~~

 

2023年2月16日(木)

 

クリスマスローズ

 

第二次世界大戦日本国敗戦時を境

戦前は

日本国軍部を中心とした検閲社会という――

所謂…

既得権益社会で忖度村社会日本国………

 

[ ホンの少し遡(さかのぼ)れば

忖度村醸成素

(そんたくむら じょうせいもと)…

 

武家中心の徳川封建時代… ]

 

そして……

 

戦後よりこんにち

まで…

 

戦勝国アメリカ軍部中心に変わっただけ

既得権益、忖度村日本社会は何も変わらない

   日本国の光景―――

 

 

人間はいま現在

  も……

 

歴史途中の上(道?)を歩いているに過ぎないだけ

生き物だという事実現実

 

決して忘れてはいけない

  私は思うのだけれども………

 

 

 

画像 #少し前の事と思ったら〇年前だった の記事より

『 日本って不思議な国? 日本人って不可思議な人種!?』
新パート119
  「 雪月 剛のブログ270 」パート200

  今日は2022年2月16日(水)。

今日はダーウィンの日-----

「 自己検閲 」 プレスコードを体の中の血とし肉とせよ

 

       続きであります――――

 

この度も ひき続き… 

どうぞよろしくお願いいたします。

画像 #日本を見ていて憂うこと ~ 裏金問題と免許返納制度 の記事より

それでは~~~

 

 

実際、検閲のデータを見ます
と、
『 アカハタ 』なんかを除けばほとんど削除されるところはなくなるわけです。

実際 『 朝日新聞 』なんか
は、
三大紙の中でも一番処分件数が少ない新聞になってしまう。

   私は

その当時のGHQ内部の会議録を入手しているんですけれど
も、

 

そこに

 CIA 」

という言葉が出ています。

CCDの検閲のトップにいて、CCDの廃止を渋るウィロビーに対して、

アメリカから派遣された

財務関係の専門家が、最近CIAができたじゃないか、

CCDの仕事はCIA

任せられるんじゃないかというようなことを言っているんです。

これはまさに

CIAが入ってきている証拠です。

ウィロビー

( アメリカ陸軍少将、1892年~1972年、80歳没

「 そんなことをやっている連中は若干はいるけれども 」

   と言っている。

だけど、
彼はCIAの評価は全然しないんです。

ウィロビーはそういうライバル機関は大嫌いだし、
第一、
親分のマッカーサーがCIAは毛嫌いしている。

だけど彼らが無視していること
から、

 

CCD

やはりインテリジェンス的な活動をやっていたという推測ができます。

---------------------------------------
■マッカーサー

(1880年~ 1964年 )

メディア

  マッカーサーがCIAを嫌った
のは、
これはもう、戦争中からそうなんです。

先ほど言ったよう

に、

CIAは戦争中はOSSといっていたんです
が、
マッカーサーが指令を出していた西南太平洋地域、

オーストラリアから北のあたりに関しては、

一切

OSSの資料が出てこないんです。

太平洋艦隊司令官のニミッツ

(1885年~ 1966年)

OSSは嫌いだったんだけれど
も、

 

それでも少し

彼の戦域に入れたので、OSSの活動の資料が若干出てくるんです。

しかし

マッカーサーの戦域に関しては、一切出てこない。

   一つには、

マッカーサーは、自分で諜報機関を持っている
から、
そういうのはOSSのごとき素人がやるべきことではない

いう考え方があったと思うんです。

もう一つ
は、
ドノバン

( 1883年~1959 年)

という

OSSの長官が嫌いだったらしいですね。

共和党寄りで彼と考えが近い人だったようです
が、
どうもマッカーサーは個人的に嫌いだったということらしい。

それに、自分の力量は大きく、

統合参謀本部とかワシントンから指示されるものではない

という、

将軍としての唯我独尊的なプライドも非常に強かったようです。

統合参謀本部長とか国務長官
とか、
そういうものは全部自分の後輩ですからね。

だから

基本的には全部、あいつらの言うことは無視してもいい

と。

彼らもまた、命令は出せないんです。

トルーマン大統領

( 1884年 ~1972 年)

だって、なかなかね。  

いずれにしろ、

私はOSSの資料もずいぶん見ているんだけれど
も、
それは出てこない。

これだけは、はっきりしているんです。

マッカーサーはOSSを排除したと。

だから、

彼が戦後日本を支配し始めてから
も、
その連続だと思うんですね。

戦後マッカーサーがCIAを排除していたという資料
は、
直接的には出ませんが・・。

   ただ、現実として

ワシントンに再建された諜報機関が黙っているわけないですよ。

SSUという形で既にCIA誕生の前の段階から来ているという

資料があります。

しかし

CIAもマッカーサー支配下の地域では公然と活動できなかった。

こっそりと、

小規模でしか動けなかった。

アメリカ本国でも彼の機関の能力をある程度認めていた。

だから

CIAよりもマッカーサーの諜報機関が占領期に暗躍していた
し、
なんらか「 黒い霧 」に関係していたらしい・・・。

   ともかく、

日本の占領下において
は、

マッカーサーの意向はいろいろな形で実現している。

ただ、

天皇制について
は、

 

これは

アメリカの方でも早いうちから維持するという形になっているようです

がね。

マッカーサーもその点には異論はなかったと思うんです

が。

ただ、
私らのようなメディア研究者から見れば、

 

日本のメディア統治には特色があった。

ドイツなどでは戦争中発行されたものは全部廃刊ですね。

フランスでさえもヴィシー政権

(1940年~1944年) 

下で発行されていたものは全て復刊が許されていない。

ドイツにも、連合国にも

中立の立場を貫いていたといってもだめですね。

全部題字などブランドも使用禁止になった
し、

 

資本も没収、

そして

ジャーナリストも働けなくなった。

永久追放です。

ところが

日本は結局…

 

全部生かすんですね。

戦争責任追及はきわめて甘く、同盟通信社

共同と時事に分割された程度です。

   私は、

マッカーサーの考え方が特に出ていると思う
のは、

 

メディアの直接統治です。

行政にしろ、

全て古い省庁を残した間接統治なんですね。

日本では

役人を温存して、その役人を通じて国を動かす、

そういう占領の仕方なんだけれど
も、
メディアだけはCCD、CIEを通じて直接行う。


メディアを所管する官庁
は、
戦前は内務省、逓信省、あるいは情報局があったわけです
が、
それらのメディアを統制する部局は完全になくなったんです。

  なぜ

メディアだけは直接統治だったのか。

それはやはり、

マッカーサーのメディア好き、メディア利用

プロパガンダあるいは世論操作の志向からきていた。


基本的に戦争中からそうです。

写真写りもすべて計算したというのは有名な話だけれど
も、
ニューギニアやフィリッピン上陸など戦果を上げた発表のとき
には、
自らの名前や写真を必ず出すように報道官に命じて、

「 マッカーサーの戦域では 」という形で発表させる。

必ず

「 マッカーサー 」

入れさせていたわけですね。

戦後の大統領をすでに戦中からねらっていたともいわれています
が、

 

メディアの力を認識
し、

 

それを

自分の手駒のように使う戦略に長けている将軍であったと思います。

■ラジオや映画の検閲

   先に言ったよう

に、

検閲は一九四九年十月末に終わりました。

ただ、

ラジオだけは検閲が最後まで残ったんですね。

CIEが実質的には担ったんだと思います
が、
その研究はまだ不十分なんです。

ラジオの検閲に関してはね。

というのは、
NHKの放送文化研究所が一応やっているけれど
も、
そのあたりの精密なことは実証していませんからね。

私のいろいろ調べたところで

は、

最後まで放送台本、ニュースの検閲だけは残っていた。

スポーツ放送みたいなものはストレートの現場中継でいいんです。

検閲のあった時代も、早い時期から事後になっている。

ところが、
時事的なニュースだけは占領終了まで検閲が残った。

だから、

それだけ放送の力は大きいという評価ですね。

   当時、

ラジオの普及率はかなり高かった。

普及率は戦争とともに40パーセントから50パーセントに達
し、
そのピークの1945年3月には747万件の聴取契約があった。

戦争が終わったころ

には

真空管など部品の不足で音質が悪くなったり、

聞けなくなったりして、

普及率は40パーセントを切ったと言われているけれど
も、
国民型受信機の開発であっという間に元の五〇%に返っています。

日本人はラジオ好きだ。

朝鮮戦争始まる頃には、もう普及率は戦前を越えていた。

   映画もラジオと似ていて、

CCDとCIEと一緒に検閲、指導をやっている。

CIEが指導し、

最終的にCCDがチェックして、許可を与えていた。

やはりそういう内容
は、
一回出てしまったら直せないものですからね。

一回見たり、

聞いたりしてしまったらそれで終わりですから。

だから、

事前検閲という方針は貫かれた。

このあたりは

谷川建司君(茨城大学)なんかがよく知っています
が、
映画と活字メディアとはまた違っているんです。

紙芝居などビジュアルなものも映画に近い検閲形態です
ね。

 

 

 「 雪月 剛のブログ270 」パート200に続いて往きます―――

                            2022年2月16日                                                   雪月 剛

 

――以上がこの度のリブログ…

      ありがとうございました。