身近に双子ちゃんいる?
昔は多少いたこともありました
が……
いま…縁は…
まったくないですねェ……
▼本日限定!ブログスタンプ
2024年2月5日(月)
こんにちは雪月 剛(ゆづきごう)です。
今日も今朝アメーバさんより寄せられている
「 リブログ 」…
どうか
よろしくお願いいたします~~~
〈 原文に段落行間隔らの改定を施しています… 〉
2023年2月5日(日)
2023年、今日の私、雪月の運勢占いでした―――
器機の使いかっての苦手な私
が
何にもしていないことを見透かすよう
な
「 運勢占い」……
「 雪月 剛のブログ 」
に
「 アクセス 」して下さっている方…
「 いいね 」して下さっている方…
及び
「 フォロワー 」になって下さっている方―――
ほんとうにありがとうございます。
この場をお借りして
心より
御礼を申し上げます………
\2022年のあなたの運勢/
『 日本って不思議な国? 日本人って不可思議な人種!?』
新パート115
「 雪月 剛のブログ265 」パート195
今日は
2022年2月5日(土)。
引き続き拙著『 告発――日本国民に告 ぐ』よりの抜粋です。
どうぞよろしくお願いいたします。
抜粋、
「 赤と青のパスポートに纏(まつ)わる話し――
未だ
大本営発表が根本的には生きているのか――」
の続き―――
纏足(てんそく)と護送船団方式の続き――――
青色から赤色に変わった衝撃の真相―――
内容から則って
この度のブログでは『 告発―日本国民に告ぐ 』文章
の
順序を敢えて逆にしてみました。
嘗ては
私雪月の師と自他ともに認めていたお人
との交流
遣り取りを描いている箇所なのです
が、
〈 私雪月の勝手な判断で―――〉
ここに
掲載をさせていただくものです――――――
では―――
23p~26p
東京帝國大学地震学出身
大村隼人師(仮名)との出遭い
本書途中より~~~
そして……
同時期…
養鰻事業の飼料購入会社、当時名古屋在―――
大部飼料(株)という会社の担当社員吉行氏
が
「 貴方に最も相応(ふさわ)しい適した人物を知っている…
貴方さえ良ければ紹介する。」
との紹介があり
( 後年、哀しい別離が待っていますが-----)、
その後
長い間に亘って私に徹底的に第一級の学問の基礎を教え…
私たち雪月の結婚の仲人までして…
席上で
「 親以上に雪月のことを理解している。」
と
謂わしめたほどの師弟の間柄を結んだ―――
旧東京帝國大学地震学出身
で
錚錚(そうそう)たる知己(ちき)を持つ
大村隼人氏なる人物と出遇いました。
魔訶不思議です
が、
紹介者である筈の吉行氏はその後直ぐに会社を退職…
後
一度として遭遇したことがないのです。
その大村隼人氏との繋がり
と
その道程と内容とを重複をしながらの飛び々となります
が…
大切な記録
と
捉えていますので順次ここに説明をして行きます。
そして…
一時期は自他ともに認める私の師…
先生に違いはなかったのです
から
大村師と記します。
当時――
大村師の所には東京大学を通じて海外からの留学生(実習生)
が
頻繁(ひんぱん)にかなり来ていた頃でした。
当時の養鰻業はまだ路池式栽培養魚
で、
現在のような機械式の如く人工加温ハウス式養殖
には
なっていなかった時代なので少しは時間の余裕が取れ…
特に
冬季などは鰻が冬眠する性質を以っている理由
から――
日常の仕事内容
が
夏の時期より比較的余裕な時間がある時代でした。
その理由から
冬季に大村師を訪ねた時機(とき)
など…
殊に
何時もより語り合い過ぎて
「 先生、自分は一色町の仕事場まで戻るのに2時間以上
は
まず掛かるんですよ。
今の時季(じき)…
幾ら気楽だからといっても鰻は生きている
ので
このまま泊まるという分けには行きません。
先生…
今日の話し合いはもう止して次にしましょうよ。
この儘(まま)行ったら朝になってしまいますよ。」
と心配する
と――
決まって応答
は
「 ウンウン、ウン分かった、それでな------。」
と
続くのです。
大村師の仮住まいは愛知県渥美半島にある伊良湖岬
に
ほど近い江比間という所にあったのです。
現在の浜名湖実験所以前
に
東京大学水産実験所が昔所在していた所です。
私はといえば…
現在(いま)鰻で有名
な
愛知県西尾市一色町だったのです。
当時は
遠近などに構ってはいなかったのです。
私の方も質疑応答することばかり沢山あって―――
大村師と過ごす時間は いつも 何時
も、
あっという間の時間でした。
恰(あたか)も
貪(むさぼ)り喰らうように大村師に学ぶ御馳走
が
私の頭の中に砂漠で水を撒(ま)いた
如く
染み込んで行ったのです。
歳月が経つに連れ―――
大村師は次第に自分の知己の方々に私を伴い
大村師の弟子として紹介して行くようになりました。
当時
東京大学教授、日本水産学会会長歴任平野礼次郎氏。
同じく清水千秋氏。
鰻人工孵化の日本での先駆者…
東京大学助教授佐藤英雄氏。
鰻、鯉、金魚等々を害する寄生虫――
イカリ虫
の
日本での権威(けんい)…
広島大学教授笠原正五郎氏(87歳没)。
私の個人的な用事に笠原氏自らの運転で語り合いながら
の
広島県福山市の島々を一日中案内して
貰った
懐かしい想い出が残っています。
東京大学農学部水産学科50周年を祝う会
[ 注: 補足参照―― 後から加わった私雪月を除いた
出席者全員執筆
の
立派な装本とした
非売品の東京大学記念書籍
(昭和61年3月31日)
として
出席者
(全国より総勢80名ほど集合)
全員に配本をされ…
また……
私も入る出席者全員で記念写真を撮り…
その席順通りに記名した名簿までを贈呈され…
いまでも
貴重な資料として大切に保管してあるものです―― ]
で
招待された席上…
大村師から日本水産界の重鎮―――
東京大学名誉教授大島恭雄氏
(1908年~1994年、86歳没)
を
紹介された名刺交換の時
「 大村さんの弟子だね。」
と
言われています。
お付き合いには至りませんでしたが鰻業界の重鎮――
やはり
東京大学教授中村中六氏。
仲間内となった関係者
では
3~4年先輩の農学博士で元愛知県職員宇野将義氏。
――――――――――――――――――――――――――――――
{ 参照として: 拙著『 告発 』には記載のない……
こんな論文を残しておられる方たちですよ
と
新しくここに挿入をしておきます――
[ 論文 1 件
論文
ニジマスの鹹水養殖に関する基礎的研究 1
ID 130003864537
ニジマスの鹹水養殖に関する基礎的研究 1
ID 130003864537
中村中六 笠原正五郎 貝塚博 宇野将義
沿岸の養魚池や諸水面を利用して
の
ニジマスの養殖 (冬期) の可否について検討するため,
ニジマスの塩分に対する適応性についてみると共
に,
それにもとづいて鹹水中での飼育を試みた。
<BR>1) 淡水で飼育されたニジマスを直接鹹水に移した場合,
c114‰程度まではそのための斃死はみられない。
<BR>2) cl7.5‰に4日間慣らしたものでは,
cl15.3‰の鹹水中でも斃死はなく,
cl9.5‰に4~6日間慣らしてcl17.5‰の鹹水に移した場合,
当才魚ではなお斃死が多いが2才魚では斃死がみられなかった。
<BR>3) cl14‰前後の沿岸水により, 3カ月間の水槽飼育を行なった
が,
歩留りも良好 ...
水産増殖 11 (1) 43 - 51 1963 日本水産増殖学会 ]
――以上です。 }
――――――――――――――――――――――――――――
間接的には水産学会では大変に有名な大村師ご親友
江草周三氏
(1920年~)。
同じく
海水魚養殖に措いて
私を大変に苦しめた白点虫という寄生虫でご教授戴いた
日本の権威―――
四竈安正氏
(1914年~1983年、69歳没)
ら々々
本当に
沢山の多士済々の方たちばかりでした。
珍聞では元総理大臣、中曽根康弘氏
(1918年〈大正7年〉5月27日 - 2019年
〈令和元年〉11月29日、101歳没)。
あるとき
大村師に訊ねたところ…
「 そんなもん知らんよ。 」
と
素っ気なく笑い飛ばしてしまわれました
が…
私の勝手な好奇心から
周りのよく知っている方々に訊いたところ…
「 若いころは先輩後輩として中曽根さんから
は
よく先輩先輩と慕われていたよ。」
と
話してくれました。
そう謂えば
平野さんも私の前で大村師
を
「 先輩、先輩 」
と…
何時も呼んでいました。
皆様
殆ど鬼籍に入るようになり…
今では
本当に大切な記録と成りつつあります。
大村師がもし今生きているとすれば
107~110歳位になっています。
後述して行きます
が――
大村師の実家は由緒あるお家
で…
御祖父が中日新聞の前身愛知新聞か何処かの創設者
の
一人だと聴いており…
私も
名古屋市中川区五女子所在地の旧家
を
大村師ご夫妻
と共に
二、三度程訪れたことがあり拝見しております
が…
現在では最早観ることも少なくなってしまった
立派な創りの旧家でした。
結果――
後年国家に物納となり…
取り壊され、立派な碑だけが残され――
残念ながら
今は現代のマンションと変わり果てた姿となってしまいました
が――
後年
もしも私に何事も起きず――
恙(つつが)なく過ごすことが出来ていたならば…
大村師にお願いをして借り受け…
保存を兼ね…
美術館として利用出来たらと考えていたほど
の
希少価値を持つ建築物でした。
後述するところの出来事から眺めます
と
「 ああ無情。」
の
寂寥感(せきりょうかん)だけ
が
迫り来て残るのは唯々虚しさだけです。
大村師を始め―――
前述の方々とは何時も本当に学問一筋の語り合いでした。
例えば
私が外国に勉強に行きたいなどと言えば…
大村師など必ず地球儀を持ち出して来て
「 雪月…
パリという都市はどのようにして成り立ち発展をして行ったか解るか。」
とか…
或いは…
私が地下水を掘り当てた
時機……
目的と違った地下海水が湧いてしまいガッカリとした報告をした
ら――
ヤッパリ
地球儀を持ち出し講義…
説明をしながら
の
夜明け前まで非道く叱られてしまったことを憶い出します。
「 雪月なあ…
地下から海水が採れると言うのはな大変な事なんだ
ぞ。
海に囲まれた日本ではあっても
な
地形上殆どの地下水は淡水となるもの
で…
海の中で海水が欲しいと井戸を掘って
も
大概は淡水となってしまうものだ。
そうである
ので――
それは
決して失敗ではないんだぞ、大変な財産になるんだ
よ。」
と言う風にです。
大村師としては珍しい時季(とき)もあって
少々コミックな噺(はなし)をしてくれたことがあります。
大村師がまだ本当に若かった
頃…
穴掘りがしんどくて東大地震研究学所を独り逃げ出
し…
いっとき
名古屋市内の南山中学校という学校の教師を勤めたことがあったそうです
が――
その時のお話しでした。
教え子の中でトビっきりヒョウキン
で
物凄く面白い子供がいたという他愛のない内容だったのです
が…
その子供が大人になっても
何故か
大村師を慕い、名古屋に来る
と
時々遇いに来たそうです。
昔は
一時期一世を風靡(ふうび)した
コメディアンの脱線トリオの一員…
テレビCⅯ「 林もあるでよ。」でも有名だった――
南利明
(1924年 ~1995年1月13日、71歳没)
という人のことでした。
子供時代のことを南氏に語ると南氏
は
「 先生、もう、揶揄(からか)わんで下さいよお。」
と
何時も照れていたそうで
「 あの頃
南(本名は野津)は本当に嬉しそうに応えていたなあ。」
と
大村師の懐かしい
嘗ての
教え子との想い出話をしてくれたこともありました。
亦……
大村師
は
日本が太平洋戦争に負けてシベリヤ抑留体験者の生き字引でも
あり…
戦後っ子の私
に
真相真実を少しでも多く教え態(よう)としています。
抑留中…
朝、
目が覚めた時機――
隣に寝ている戦友がやけに静かなので気付く
と
そのままの姿
で
既に冷たくなって死んでいた。
明日は我が身かと何時も覚悟しながら
「 こんなことで死んでたまるか
と
自分を鼓舞(こぶ)させて俺も他の皆も生きていた。
本当に
極悪の地獄だったぞ。」
と
教えは続いて行ったのです。
拙著『 告発――日本国民に告ぐ 』
は
以下もズッと続いて行く分けです
が――
ブログではここまでとさせていただくものです。
「 雪月 剛のブログ266 」パート196に続いて往きます―――
2022年2月5日
雪月 剛
――以上がこの度のリブログ…
まことにありがとうございました。