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2023年12月3日(日)
こんにちは雪月 剛(ゆづきごう)です。
今日も今朝アメーバさんより寄せられている
「 リブログ 」……
〈 原文に段落行間隔らの改定を施しています… 〉
どうか
よろしくお願いいたします~~~
今一番欲しいもの教えて!
もう一度~
真実と人類の勇気!!
それ以外…他にはありません!
『 日本って不思議な国? 日本人って不可思議な人種!?』
新パート98
「 雪月 剛のブログ246 」パート176
今日は2021年12月3日(金)。
蟷螂の斧(とうろうのおの) と 欺瞞(ぎまん)
と
正論が通らず滅んだ大日本帝国
の続き――――
この度も、長文となります
が
なにとぞ
よろしくお願いいたします。
それでは~~~
嘗ての第二次世界大戦で日本国の決まりとして…
たったの
【 赤紙一枚 】
で
実際の戦場に駆り出されたという経験者(人々)
は
あと一ヶ月を切ってしまうという2022年度
には、
この世に殆ど在籍のないお人たちばかり
と
なっていて…
もうホンの僅かしか生き残っておられない社会を迎えています――――
日本国を支える役目の筈の政治家のお人たち
ですら、
現内閣閣僚(2021年5月現在)の平均年齢
は
統計で60,38歳とあります。
さすれば、
1960年(昭和35年)前後生まれが中心となる
閣僚の方々ばかりであり…
その意味とすること
は、
第二次世界大戦敗戦1945年8月15日前後の生誕どころ
か、
敗戦後の15年以上も経った生誕
の
方々主体の内閣となっているということであります。
そして…
私雪月が参考資料としてよく活用をさせていただいているところ
の
大先達ジャーナリスト松浦総三氏や社会哲学者小室直樹博士
が
悪い意味で日本国の持つ悪癖本質
を
喝破されている
明治維新以来の教育
よりも、
もっともっと酷い悪辣(あくらつ)な その上を行っている
劣悪な―――
敗戦日本国の教育を受けてきている方たちばかりだ
と
いうことを意味しているのです。
譬(たと)え
旧帝大以来の日本国があえてつくった最高峰――
東京大学出身だったとしてもです。
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今日現在は2021年12月3日(金)。
第二次世界大戦敗戦より76年が経過
し
敗戦間近の少年志願兵の最少年齢
が
14~16歳と聞いており敗戦当時に15歳だったとして
も
既に 今
は
91歳となるものであり…
当時に20歳ともなっていれば
現在(いま)96歳――――
戦場経験者〈 1945年以前の軍人 〉主力
の
方々などは生存していたとして
も
殆どが100歳以上!!
人間の寿命限界に拠って…
戦前戦中の軍隊経験者
が
現代社会よりドンドンといなくなってしまっている
のは
当然の自然現象。
ということは…
現在(いま)の政治家の方たちの殆ど
が
戦後生まれ世代で実際の戦争経験者
は
全くのゼロ――――
就任時64歳、
第71代~73代総理大臣を務めた中曽根康弘氏
( 群馬県、1918年~2019年、101歳没 )
でさえ、
第二次世界大戦敗戦時、青年将校( 海軍主計少佐 )
の
27歳。
大変な長寿だとはいわれていたそうです
が、
そんなお人ですらも最早現世にはおられないのです。
第99代現総理大臣となった菅義偉氏(1948年~)など
は
就任時72歳。
近々の2021年10月4日(月)
に、
菅義偉氏から交代――――
第100~101代総理大臣に就任をしたばかり
の
岸田文夫氏
(1957年(昭和32年)~)
が
64歳。
閣僚最高齢は前述した
第93代元総理大臣(就任時68歳)麻生太郎氏
(1940年、昭和15年~)
前副総理大臣、現自由民主党副総裁
の
81歳だそう………
因みに、
自由民主党、随一の実力者と称されている元幹事長二階俊博氏
は
1939年(昭和14年~)
82歳とあります。
そんな戦前生まれのお人たちですらあって
も、
第二次世界大戦敗戦時1945年(昭和20年)8月15日時点では、
まだホンの子ども…
5~6歳という幼少であったという現実話しとなって来るのです。
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1945年8月15日、
第二次世界大戦敗戦以降~2021年5月現在までの76年間、
実質、
戦勝国アメリカ権力下に置かれている日本国―――
現代社会とはまったく違って、
敗戦までの日本国は「 世界に冠たる 」と称されていた
そうな
【 暴力装置ともいう軍隊 】
を
持っていました。
昔から
【 死の商人( 武器を売買する人の意 ) 】
という
世界中に通じる言葉があります
が、
即、
その軍隊に繋がる存在。
そして
その軍隊を繰るのが時の権力者、支配層という構図でありました。
まったく愚かとは
いえ…
戦前戦中は命の遣り取りをしていた事実は事実でした――
しかるに、敗戦後
の
命の遣り取りも何もない…
平和というよりもノホホン社会だと指摘されるよう
な、
戦場経験も何もない…
生命の守られている現代社会に生きる権力者支配層たち
が
こぞって無責任体質に陥っている
のは
無理からぬ、敗戦国日本が齎(もた)す特殊性でありましょうか――――
私雪月自身は何の肩書も持つものではありません。
ですが
どうした分けか若い時分
より、
世の権力者支配層とか称される人たちの世界
を
垣間見させていただく機会を結構以っていたのです。
そうした下地があって
後年、
理不尽不条理極まる社会…
地獄のような世界に貶められる運命を辿って
初めて!
その地獄の中より彼らの正体と申しましょう
か―――
真の相(すがた)
を
視る(識る)羽目、経緯となって行ったのです。
日本国の権力者支配層の無責任構図
は
何もいまに始まったことではありません。
以前のブログで示している通り
政変に拠って、江戸幕府より明治政府〈 幕府 〉
より
発出してきた代物だと断じても許されるものと存じます。
いまさら歴史を覆すなんて100パーセント不可能なのです
が、
国の成り立の全く異なった西洋諸国文明
の
模倣(もほう)を短兵急に取り入れるため
に
無理矢理講じた維新期の日本国自身が生じさせた
歪(ゆが)み…
それが
無責任構図を呼び込んでいる
すべての素(もと)―――
元凶でありましょう。
生命の宿命である~ 命の危険~ 脆(もろ)さを殆ど知らない人々
が……
増々続々
と
社会に蔓延(まんえん)して行っているからに他ありません。
と
単純稚拙な私雪月のような者で
すら
現在(いま) 解析ができてくるのです――――
終わりにあたって-----
参照:
今日12月3日(金)、こんなネット記事もありましたよ
と
ここにも掲載をして措きます――――
神立 尚紀氏
(カメラマン・ノンフィクション作家)というお方が著わしておられる
ネット記事です。
私雪月の今日投稿記事と重なり合うところ
の
記事でもあると思料をします
ので
ここに参考として
ホンの少しだけ引用掲載をさせていただこうと存じます。
では―――
80年前、太平洋戦争の口火を切った真珠湾攻撃
には
900人近い航空隊の搭乗員が参加していた。
彼らはその後、どんな運命をたどったのか。
一人一人の記録をたどる
と、
半数近くが開戦から1年以内に戦死
し、
生きて終戦を迎えたのは2割に満たなかった。
日本国が真珠湾攻撃後―――
「リメンバー・パールハーバー」のスローガンのもと、一丸となったアメリカ軍
は
その後、驚異的な立ち直りを見せて反撃に転じ…
3年9ヵ月におよんだ戦いの結果
は、
日本の主要都市焼尽、降伏という形で終わる。
大敗戦を喫した日本国はというと―――
「 半数近くが開戦から1年以内に戦死
し、
生きて終戦を迎えたのは2割に満たなかった 」
真珠湾攻撃に参加した日本側の飛行機搭乗員は765名(途中、故障で引き返した3機や機動部隊上空哨戒、
および予備員の人数はふくまず)。
真珠湾で戦死した55名を含め、
約8割にあたる617名がその後の激戦のなかで戦死、
あるいは殉職し――
生きて終戦の日を迎えたのは148名に過ぎない。
そのほとんどがいまや故人となった
が~~~
記事中のお二人目………
藤田怡與藏(ふじた いよぞう) 中尉
( 昭和17年後半、空母「 飛鷹 」分隊長の頃。当時大尉 )
故人。
第二次発進部隊制空隊 空母「 蒼龍 」戦闘機隊(零戦)
当時海軍中尉
大正6(1917)年、中国・天津生まれ。
昭和10(1935)年、海軍兵学校に66期生として入校。
戦後は日本航空に入社、
日本人初のボーイング747(ジャンボ)機長となり、
世界の空を飛び続けた。
森永隆義氏、平成18(2006)年歿。享年89。
真珠湾攻撃のときは飛行兵曹長(准士官)、
すでに歴戦の艦攻乗りだった
ミッドウェー海戦(昭和17年)などを経て、
昭和19(1944)年6月には空母「翔鶴」でマリアナ沖海戦に参加。
二度の母艦の沈没から生還する。
終戦時海軍中尉。
戦後はラジオ修理業、次いで海上自衛隊に入り、
退官後は東芝などに勤めた。
他にもう一つ。
それは………
Yahoo!ニュース オリジナル 特集
(撮影:森健)
で
2021年12月2日(木) 17:20配信
「 俺の死に場所はここだ 」――覚悟を決めた真珠湾攻撃
103歳の元搭乗員の証言
1941年12月8日は日本の運命を大きく変えた日だ。
アメリカに戦争を仕掛けた真珠湾攻撃。
この奇襲に…
魚雷を積んだ雷撃機で参加した103歳の男性が東京にいる。
あれからちょうど80年…
「 俺の死に場所はここだ 」と覚悟を決めて臨んだ戦いを振り返ってもらった。
(ジャーナリスト・森健/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
1918(大正7)年、石川県に生まれ育った吉岡さん
は
18歳で横須賀海軍航空隊に入隊。
103歳、吉岡政光さん(撮影:森健)という方のお話し―――
一部………
1944年は千葉・木更津から「 燃料補給の飛び石状態の飛行で 」
パラオのペリリュー島まで爆撃機一機を届けた
が、
自身はセブ島経由で戻った。
もはや日本軍の劣勢は明らかだったと振り返る。
理由の一つはアメリカの航空機をはじめとする戦力の急激な上昇だった。
「 零戦がわかりやすいですが、
真珠湾までは日本の戦闘機が操縦性など世界
で
最もすぐれていると言われていました。
しかし、
半年したらアメリカはF6F
など、
もっと性能がいいのを作り出してきた。
爆撃機ではB-25を出して、早くも東京に爆撃をした(1942年4月のドーリットル爆撃)。
これらの動きを見たとき、
自分でも もう勝つのは無理だろうと思いました 」
日本劣勢のもう一つの理由が兵力の圧倒的な不足だ。
戦線が厳しくなり、前線で命を落とす兵士が増えていく。
航空隊では技術のある操縦士が少なくなり、
訓練も十分でない若い兵士が出ていくことになった。
「各地の現場を回っていく
と、
訓練を積んだ人がほとんどいなくなっていた。
だから、技量も未熟な若い兵士が飛んでいく。
それで敵に落とされてしまうわけです。
おまけに向こうの飛行機は性能もよくなっている
のに、
こちらはエンジンの故障など補修が必要な機体ばかり。
10機あっても6機は損傷して動かせない。
そんななか残った4機で出るとしたら、どうするか。
それで、
だったら爆弾もって敵艦に突っ込めという
特攻の発想になった。
本当にひどい話です 」
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1943年頃までにやめておくべきだった
1944年12月、吉岡さんは内地に戻る
と、
茨城にある百里原海軍航空隊に配属された。
飛行学生を講習する立場だった
が、
実際には何もしようがなかった。
教えるにも航空機がなく、仮にあっても燃料がなかった。
ある日は短剣を寄付しろという通達があった。
何に使うのかと聞けば、
本土防衛のための槍を作るという話だった。
言葉を失ったという。
「 槍って……。そんなの負けるに決まっています。
正直言えば、途中からずっと思っていました。
なんで戦争をするんだろうと。
どうして国はやめてくれないのだろうと。
私たち下っ端だってこのアメリカとの戦争には勝てないのがわかる。
なのに、軍は続けようとしている。
これは日本国民が一人もいなくなるまでやるんだ、
日本という国を潰すつもりなんだと思いましたね 」
終戦の玉音放送は、第一分隊員を集めて聞いた。
みんなの前で、日本は戦争に負けた、
と
一言話した。
その途端、涙がこみ上げて話ができなくなった。
そんな記憶が残っている。
戦後は大和運輸(現ヤマト運輸)でしばらく働いたのち、
海上自衛隊、
そして複写機メーカーなどに勤めた。
その後の日々
で、
太平洋戦争や真珠湾攻撃を振り返ることはたびたびあった。
奇襲攻撃という手法は別
として、
吉岡さんは兵士として歴史に残るあの戦争に参加したこと
そのものには誇りをもっている。
一方で、
あのような焦土となるまで戦争を続けたこと
は
間違いだったと考えている。
「 少なくとも1943年ごろまでに、
手を上げて降参しておくべきだったと思います。
そうすればあれほどの死者を出さず、
優秀な軍隊も残してやめられたのではないか。
この年まで生きてみて、そう思います。
難しかったのかもしれませんが、
負け方を考えていなかったのかもしれませんね 」
語り始めてみれば5時間が経っていた。
ときに力が入り、
ときに目に涙も浮かんだ。
こんなに話したのは初めてです
と
また照れたように言う
と、
ちょっともう疲れたので今日は早く休みますよ
と
吉岡さんは笑顔を見せた。
―以上です。
「 雪月 剛のブログ247 」パート177につづきます―――
2021年12月3日
雪月 剛
――以上がリブログ…
ありがとうございました。