アルバムを見返すタイミングはいつ?
何もかもすべて…
人間死んだら原子に還る……
すなわち…
〖 無 〗
と
なってしまうんだけどなァ??―――
さあて………
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2023年12月5日(火)
こんにちは雪月 剛(ゆづきごう)です。
今日も今朝アメーバさんより寄せられている
「 リブログ 」……
〈 原文に段落行間らの改定を施しています… 〉
どうか
よろしくお願いいたします~~~
2022年12月5日(月)。
時をかける少女……
ならぬ
「 雪月 剛のリブログ 」――――
今日は2021年12月5日(日)。
とても恐縮です
が、
きょうも、アメーバさんより届いた
昨年の2020年12月5日(土)付けリブログです。
ちょっとばかり長文となってしまいます
が
一昨日の3日(金)、
生命の宿命!
”「 正論が通らない 」国の末路”
それは―――
Yahoo!ニュース オリジナル 特集
(撮影:森健)
で
2021年12月2日(木) 17:20配信
「 俺の死に場所はここだ 」――覚悟を決めた真珠湾攻撃
103歳の元搭乗員の証言
1941年12月8日は日本の運命を大きく変えた日だ。
アメリカに戦争を仕掛けた真珠湾攻撃。
この奇襲に、
魚雷を積んだ雷撃機で参加した103歳の男性が東京にいる。
あれからちょうど80年、
「 俺の死に場所はここだ 」
と
覚悟を決めて臨んだ戦いを振り返ってもらった。
(ジャーナリスト・森健/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
1918(大正7)年、石川県に生まれ育った吉岡さん
は
18歳で横須賀海軍航空隊に入隊。
103歳、吉岡政光さん(撮影:森健)という方のお話し――――
一部より―――
1944年は千葉・木更津から「 燃料補給の飛び石状態の飛行で 」
パラオのペリリュー島まで爆撃機一機を届けた
が、
自身はセブ島経由で戻った。
もはや日本軍の劣勢は明らかだったと振り返る。
理由の一つはアメリカの航空機をはじめとする戦力の急激な上昇だった。
「 零戦がわかりやすいですが、
真珠湾までは日本の戦闘機が操縦性など世界
で
最もすぐれていると言われていました。
しかし、
半年したらアメリカはF6F
など、
もっと性能がいいのを作り出してきた。
爆撃機ではB-25を出して、早くも東京に爆撃をした(1942年4月のドーリットル爆撃)。
これらの動きを見たとき、
自分でも もう勝つのは無理だろうと思いました 」
日本劣勢のもう一つの理由が兵力の圧倒的な不足だ。
戦線が厳しくなり、前線で命を落とす兵士が増えていく。
航空隊では技術のある操縦士が少なくなり、訓練も十分でない若い兵士が出ていくことになった。
「 各地の現場を回っていく
と、
訓練を積んだ人がほとんどいなくなっていた。
だから、技量も未熟な若い兵士が飛んでいく。
それで敵に落とされてしまうわけです。
おまけに向こうの飛行機は性能もよくなっている
のに、
こちらはエンジンの故障など補修が必要な機体ばかり。
10機あっても6機は損傷して動かせない。
そんななか残った4機で出るとしたら、どうするか。
それで、
だったら爆弾もって敵艦に突っ込めという
特攻の発想になった。
本当にひどい話です 」
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1943年頃までにやめておくべきだった
1944年12月、吉岡さんは内地に戻る
と、
茨城にある百里原海軍航空隊に配属された。
飛行学生を講習する立場だった
が、
実際には何もしようがなかった。
教えるにも航空機がなく、仮にあっても燃料がなかった。
ある日は短剣を寄付しろという通達が
あった。
何に使うのかと聞けば、
本土防衛のための 槍 を作るという話だった。
言葉を失ったという。
「 槍って……。
そんなの負けるに決まっています。
正直言えば、途中からずっと思っていました。
なんで戦争をするんだろうと。
どうして国はやめてくれないのだろうと。
私たち下っ端だって
このアメリカとの戦争には勝てないのがわかる。
なのに、
軍は続けようとしている。
これは日本国民が一人もいなくなるまでやるんだ、
日本という国を潰すつもりなんだと思いましたね 」
終戦の玉音放送は、第一分隊員を集めて聞いた。
みんなの前で、日本は戦争に負けた、
と
一言話した。
その途端、涙がこみ上げて話ができなくなった。
そんな記憶が残っている。
戦後は大和運輸(現ヤマト運輸)でしばらく働いたのち、
海上自衛隊、
そして複写機メーカーなどに勤めた。
その後の日々
で、
太平洋戦争や真珠湾攻撃を振り返ることはたびたびあった。
奇襲攻撃という手法は別
として、
吉岡さんは兵士として歴史に残るあの戦争に参加したこと
そのものには誇りをもっている。
一方で、
あのような焦土となるまで戦争を続けたこと
は
間違いだったと考えている。
「 少なくとも1943年ごろまでに、
手を上げて降参しておくべきだったと思います。
そうすればあれほどの死者を出さず、
優秀な軍隊も残してやめられたのではないか。
この年まで生きてみて、そう思います。
難しかったのかもしれませんが、
負け方を考えていなかったのかもしれませんね 」
語り始めてみれば5時間が経っていた。
ときに力が入り、
ときに目に涙も浮かんだ。
こんなに話したのは初めてです
と
また照れたように言う
と、
ちょっともう疲れたので今日は早く休みますよ
と
吉岡さんは笑顔を見せた。
自らを下っ端だと呼称をされるお方のご証言です
が、
果たして
皆様のお耳にはどのように響くことでありましょうか――――
それではリブログです~~~
- テーマ:
- ブログ
『 日本って不思議な国? 日本人って不可思議な人種!?』
新パート60
「雪月 剛のブログ207」パート138
2020/11/25、 タイトル:
真実の探求------
のつづき------
では――――
吉野作造氏と佐々木惣一氏というお人
日本国民のためには非常に貴重な論説を遺しておられ、
現代社会となった今日(こんにち)と雖(いえど)
も、
吉野作造氏言説通りの日本国に違いはないと捉え、
あんな動乱の当時に、こんな お人もおられたんだ
と
不肖 私雪月も遅まきに知った、
非常に希有(けう)な日本人の裡のお一人!?
ですので、 甚だ勝手ながら、
ここ
「 雪月 剛のブログ 」にも引用記載をさせていただくものです!
2020年8月24日(月)、 JBpress
タイトル: 吉野作造が許せなかった
「 正論が通らない 」 国の末路
倉山 満(くらやま みつる)氏
(1973年〈昭和48年〉12月18日 ~ )、
日本の憲政史家、政治評論家、作家、皇室史学者。
東京大学の「赤門」
◎日本の未来を見据えていた12人
思想家・政治学者の「 吉野作造 」
(1878~1933年)
よりの繰り返しの引用掲載です。
混沌とする現代。
先が見通せない時代。
だからこそ、
我々は吉野作造を学ぶべきである。
激動の幕末維新、そして日清・日露戦争を乗り越え、大日本帝国は世界の誰も滅ぼせない強い国となった。
しかし、滅んだ。
本気の言論は、
命懸けである。
関東大震災では暗殺未遂事件に遭遇している。
官憲の一部はアナーキストの大杉栄を惨殺するような不祥事を起こしていた
が、
吉野{吉野作造(1878年~1933年)} も狙われていた。
日露戦争勝利からわずか20年弱。
憲法政治の本場のイギリスが数百年かけて実現した二大政党制
を、
驚くべき速さで実現した。
だが、実態は文明国として誇れる内容ではなく、
二大政党の腐敗は多くの人々の絶望をもたらした。
吉野は二大政党に代わる無産政党に協力し、
それが戦後の社会党勢力となる。
■ 正論が通らず滅んだ大日本帝国
晩年の吉野が力を入れていたのは、『 明治文化全集 』の編纂である。宮武骸骨や尾佐竹毅ら在野の知識人が集まった。
世間からはモノ好きの集まりと見られたが、
吉野は
日本人の政治意識を江戸にまでさかのぼって研究せねばと考え、
人生の集大成の論文に取り掛かろうとしていた。
だが、持病の結核で体は蝕まれていた。
そして晩年には満洲事変に遭遇する。
吉野は、政府の一部の人間が権力を振るい、
国家の運命を弄ぶ事態に怒っていた。
同時にそうした暴走を
民衆が熱狂的に支持する事態に絶望していた。
昭和8(1933)年、吉野は死去する。
満洲事変以後、正論が通らなくなる世の中で奮闘したのは、
佐々木惣一(1878年~1965年)である。
佐々木は左右の全体主義、すなわち
右の官僚主義と左の共産主義の双方と戦い続けた。
だが、
いかに正論を唱えよう
と、
蟷螂の斧(とうろうのおの)だった。
敗戦で時流は変わった。
戦前の佐々木は共産主義者であるかのように
政府や御用言論人に弾圧された
が、
左派勢力が主流となった戦後には右翼反動主義者と罵られた。
大日本帝国は決して滅びるはずがない国だった。
ところが正論が通らず、
愚かな選択を繰り返して滅んだ。
さて…今の日本は正論が通る国になっただろうか。
現在(いま)の日本に正論、
否、
それどころか、
人間の根源に最も必須な誠実とか正義の存在
が
果たしてこの国の何処かにあるのであろうかと甚だ懐疑的だ
と
私たち雪月は言いたい----------------
ドイツの政治学者・社会学者・経済学者
マックス・ヴェ―バ―(1864年~1920年)が解いた、
その哲学的論理学を私たち庶民に分かり易く導こうとした
社会学者、哲学者で高名な大塚久雄氏、小室直樹博士ら説くところ
の
正常な国の成り立ち 依法官僚制 (legal bureaucracy)ではない、
マックス・ヴェ―バー先生
が
『 そっちに行っては駄目だよ。
国が滅びてしまうよ! 』
と諭(さと)す、
人類社会に危惧危険の警鐘を強く鳴らしている
間違った方向--------
家産官僚制 (patrimonial bureaucracy) を採択してしまった、
その成れの果て、
腐朽官僚制(rotten bureaucracy)
に
陥っている日本国現代社会の実態(実体)、
その現実を見事見せ付けている
社会的警告事件!!
事件の本質は、私たち雪月が遭遇をしている事件群
と
全く同質の内容であると捉えている所以
から、
繰り返しここに再度の引用掲載させていただこうと存じます。
私たち雪月は、日本国警察官僚
が
【 嘘を吐く、平気で虚偽をする 】
そんな不謹慎なこと、以前には想像すらもしていませんでした。
日本国国民を守るために設置をされている筈
の
国家機関警察が嘘を吐くなんてです。
後年に日本国の根幹を揺るがしている
日本国トップリーダーの醜聞、
森友、加計、桜を観る会 等々の事件。
新しく交代したトップリーダーが侵している同様な問題、
昨今の〖 学術会議問題 〗の騒動。
全てが、
むべなるかなの理不尽不条理極まるとしかいえない!
嘗て日本国にも、
臼井吉見氏(1905年~1987年)なるお人
が
《 日本国に道徳の成り立ちようがない 》
と
警告をなされているのです
が、
国民の誰も彼(か)もをも堕落させかねない
酷い事件!
下記は、
2020年9月12日(土)
現代ビジネスより ネット配信をされた記事の引用掲載です--------
タイトルは--------
「 これを出されたら私は死にます 」 故・赤木俊夫さんの妻が語った
こと
森友改ざん問題 「 遺書スクープ 」 の裏側
【 嘘つき 】が出世する世界。
という、
この日本国にとっては非常に重要な箇所
を
ここに繰り返しの記載をさせていただきます--------
記事途中から-------
~~~~~ その時に感じたのは、
敗戦の時、旧満州に国策で開拓民として送られていた
日本人たちが大勢犠牲になったこと。
集団自決に追い込まれた人たちもいれば、なんとか生き延びて帰ってきたけれど、
子供たちを現地の中国人家庭に預けざるをえなかった人たちもいた。
国策で送られたのに、結局戦争で負けた時になんの情報も与えられず、
捨てられた。
本来、彼らを守るべき満州の関東軍の幹部は、
日本が降伏すると いち早く察知して逃げています。
ソ連軍が攻めてきた時、残された彼らを守る人は誰もいなかった。
現場の普通の人は見捨てられて、
上の人間は生き延びて帰ってきた。
今回の事件はその形に非常に似ていると思います。
―立場がある人間たちのこうした振る舞いは、
いまに始まったことではないんですね。
いまだにそれが繰り返されているということが本当に情けない。
現場の弱い立場の人を見捨てて自分たちだけ偉くなるという社会は、言ってみれば
卑怯者と嘘つきの国。
そんな情けない国はないじゃないですか。
でも、いまこの財務省近畿財務局で起きたことは
そうとしか言いようがない。
正直者だった赤木俊夫さんは馬鹿を見て追い詰められて亡くなった。
それで、 嘘つきと卑怯者は
それをなかったことにして偉くなっていく。
『週刊現代』2020年8月22・29日合併号より
相澤 冬樹
今回は以上です。
「 雪月 剛のブログ208 」、パート139につづきます ----------
2020年12月5日(土)
雪月 剛(ゆづきごう)
――以上がリブログ…
昔もいまも…本質は何も変わっていないなぁ
と
分かってきます―――
この度も、
長文を
まことにありがとうございました。