「気狂いピエロ」を再観する。
究極のドラマはノンフィクションではないか?ドキュメテンタリーに近づけば近づくほど、そのドラマに鑑賞者、客は、感情移入する。そして、涙し、笑い、感動する。この作品も、「なぜ物語の主役は不幸なのか?」という私の芸術における問いには、「Happy Ending」ではなく、
「Bad Ending」「Twist Ending」「False Ending」「Tragic Ending」であったが、破壊的、破戒的に向かう、ピエロ、フェルディナンは、「不幸」へと向かう姿は、「快感」さえ伴う。観るたびに「爽快」さを覚えるのは不謹慎だろうか?