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先日のサピ前ごはんは、ミラノ風ドリアと、パイシートで焼いたアップルパイ。
サフランライスに初めてしましたが、炊飯器にサフラン入れるだけですごく簡単でした。
でも映えはするけど、味はバターライスで十分かも。
パイシートのアップルパイは子どもたち大好きなのでよく作ります。
買い物、調理、片付けがエンドレスで、そこを自分なりに楽しめたらいいのだろうけど、楽しもうとしてもどうにもこうにも、その規格に合わない自分を感じてしまいます
昨日、今年度PTAの顔見せがありました。
そこに、娘さんが不登校というママがいて、コップから溢れ出る感じで話されている苦しさを、ただ聞いていたのです。
その方は、娘は学校へ行けないけど、母である自分は、少しでも学校とつながっている姿を見せたくて、PTAの役をいくつもやってるのだそうです。
感受性が強く観察眼が鋭いという娘さんに対し、お日様みたいに底抜けに明るいママたちは、
「きっと、娘さんは天才ですよ。小説家とか脚本家とか漫画家とかの才能があるんですよ。やらせてみたらすごい人の深い部分まで描く作品ができるかもしれない。学校行くことが全てではないし、日本の教育が合わないだけですよ」と、元気よく励ましていました。
ふわっとえびせんのように軽い…
この明るいママたちは、我が子がいざそうなった時に、果たしてそんな風に思えるのでしょうか
結局、人の悩みなんて自分のフィルターを通してしか理解ができないわけで、そこにいいもわるいもなく、波長の合う人同士で引き合うだけなんだろうな、と思います。
昨年、次男と同じクラスだったというその娘さんは、
次男がいじめられていたのも見て、自分でないのにまるで自分が言われたり、されたかのように心を痛めてくれたようで、びっくりしました。
「次男くんはやさしくて、何も悪くないんだと娘はいつも言ってました」
と言われましたが、
「そう思ってくれるのはすごくうれしいし、次男も喜びます。でも、いじめられるのも次男なりの学びで、次男もそこで気づかないといけないことがあって、でもそれは次男の問題だから、そんなに悲しまないで大丈夫だよって伝えてくださいね」
と言いましたが、その年で、人の痛みや苦しみがそんなに入ってきたら、それはしんどいと思います。
次男に聞いたら、
「そんなに気にしてくれてうれしいけど、僕は一言もその子と話したことないし、もう過ぎたことだから、気にしてないし覚えてない」とあっけらかん
人が、人の痛みや気持ちを当事者のように理解する…
道徳の授業に繰り返し繰り返し出てくるそれって、もちろん理解の程度にもよりますが、そんなの無理なんでしょうね。真面目にやればやるほど、それは精神が破綻してしまうこととイコールなのかもしれません。