私は普段、授業を全く見ていないので長男がどんな様子でやっているのか分からないのですが、Aくんママはいつも見ているそうで、「長男くん、授業をちゃんと理解してるよね。語彙も豊富で話してるのを聞くだけで賢いのが分かる。お母さんが家で勉強教えてるの?」と、長男にはもったいないほどの褒め言葉をかけてもらいました。それ、ホントにうちの子のことですか?と言いそうになりました。
最近は分からない問題は、専ら長男は週末にまとめて主人に聞くので、私が教えることはあまりなくなりました。私もまだ教えられる範囲ではあるのですが、理工学部だった主人の教え方の方が分かりやすいといって、さっさと見切りをつけられましたね
Aくんは、インターに通っていて塾の他にも算数を教えてくれるところに通っているそうで、やはり小さい頃から、教育を外注する形で勉強をさせて来たそうです。
ただ、インターだから、英語は心配ないものの、その代わり最近は算数問題において、読解力がネックになって解けないことが増えてきたらしく、苦戦していると話していました。
他にも、塾にBくんという賢い子がいますが、長男曰く、その子は2歳の頃から6歳上のお兄ちゃんに勉強を教わってきたそうで、授業は長男曰く、お兄ちゃんが見学しているとのこと。
そんな弟思いの、教育ママならぬ、教育お兄ちゃんがこの世に存在するなんて、、
何であれ、AくんBくん、そして長男も、2歳や3歳から勉強を始めて今がある。と考えると、すごい世界ですね。
元々の地頭なんて、それこそもっと高度なところまでいかなければ、実はそれほど違いがないんじゃないかと思えてしまいます。
とまあ、前置きが長くなりましたが、塾の会報で、塾長からのこんな言葉がありました。
「不可能」を証明するのは「可能」を証明するより難しい
一般的に、「できる(可能)ということを示すのはとても難しいこと」と考えられがちですが、実はそうではありません。「不可能であること」を証明する方が、理屈の上では、より難しいと言えます。なぜなら、「不可能であること」の証明には、何千万、何億通りもの、それこそ無限回のあらゆる試みを繰り返さなければなりません。これだけの試みをやり続ける努力は、実は「それは絶対無理だ」と諦めるのではなく、「必ず、実現の可能性がある」という信念を持って努力する方が、実現可能性を追求することに他ならないというわけです。
そして、こう締めくくられていました。
人生で一度きりの一瞬、一秒の積み重ねが、自分の一生を形作っている。(中略)自分の目の前に訪れる一秒一秒の時間を大切にしてほしい
これまで私、人生において、さまざまなことに対してできない言いわけを必死で考えて来たように思いますが、数学的に考えれば、できない可能性を考えるより、できる可能性を考えた方が遥かに簡単なんですね。
素晴らしい座布団一枚