アルコールでの肝機能障害に対して冷たい医師は多い。

ましてや、母は15年前に死にかけているにも関わらず飲酒を再開してこの有様だ。

自業自得と言わんばかりだった。


アルコールが怖い存在だと言うことを本人に分からせるために敢えてキツい言い方をするのかもしれない。


しかし、背中を丸めて先生の話を聞く母は何とも惨めに見えた。


どうしてもお酒に頼ることでしか弱さを隠しきれなかった母の背景などは他人には関係のない事だった。



診断は肝硬変から肝不全へ変わっていた。

母の肝臓はほとんど機能しておらず、その働きを補うために肝臓の周りに何個も迂回路を作る。それが静脈瘤だ。

母の体には食道から幾つもの静脈瘤が出来ていた。


肝不全になって一番恐れなくてはいけないことは、静脈瘤破裂による大量出血での死と、感染症らしい。


母は死ぬまでに何度静脈瘤の手術をしただろう。


肝臓だけではなく、ありとあらゆる場所に爆弾を抱えていた。


さらには、肝臓が毒素を分解しない為に体にアンモニアがたまる。それが脳へ回ると肝性脳症を引き起こすのだった。

その為、食事制限もかなり厳しいものになった。


母は自分の好きなお酒を飲み続けた挙句、大好きなお酒もタバコも、好きな食べ物さえも満足に食べられないようになった。



刺激物も良くないのに、母はうどんにめいっぱい一味をかけて、汁までも飲み干した。

塩分がダメだとか刺激物がダメだとか、母本人に食事制限の自覚が無かった為にとても一筋縄で改善は出来なかった。


規則正しい生活、そしてこまめに間食をとること、生の魚を食べない。動物性タンパク質は取りすぎない。


ありとあらゆる制限が母を窮屈にした。


好きな物も食べられないなら死んだ方がマシ。母は何度もそう言った。



私は心配から口うるさくしてしまった。

母はとても1人で食事管理など出来ない状態だったので我が家で同居してもらった。

朝昼晩と寝る前の夜食とご飯を作って母の部屋まで運ぶ。


母は最初こそ、「上げ膳据え膳で有難いわー」と喜んでいたが次第に決められた食事をとることが怠慢になっていった。


臭いとか硬いとか、これを食べたい気分じゃないとか言っては平気で残した。


私は基本貧乏性なので、平気でご飯を捨てる行為が許せなかった。

ましてやご飯を食べてくれないと、また体調が悪くなると懸念した。


自分で作って食べるわけじゃあるまいし、ちゃんと準備してるんだから食べたらいいのに!

ていうか、食べなくちゃいけないと思ってないからダメなんやん!


私の心配と母の気持ちは抵抗し合って空回りしていた。