潜在意識と繋がる練習をしているせいもあって

自分が知らなかった不用な思い込みに気づくことがよくあります。

昨日も大物が釣れました。


先月からツイテナイことが立て続けに起こっていて

これは一体どうしたことかなあと思っていました。

たまたま目にした「運が悪い人」という文字に

自分の中身が微かに反応したことに気がつきました。


この辺に何かあるなと思ったので、意識を掘り下げてみると

こないだのブログの記事で「しあわせだなあ」と書いている自分に

一瞬違和感を覚えた事を思い出しました。

幸せだと感じた事は間違いはないのですが、

幸せでいれる自分というものに、違和感を感じているようでした。

潜在意識にとっては、幸せでいれない自分のほうが

馴染みがあったのです。


レイキを始めてからこの数ヶ月間は、

今までにもなかなかないくらい穏やかな日々を送っていました。

でも「自分は運が悪くて幸薄い人」という思い込みがあった為に

こんな穏やかで幸せを感じている自分は自分でないと

一連のツイテナイ出来事を現実化したのではないかと思います。


ほんとにもう、私の潜在意識のバカー!と言いたくなりますが

思い込みっていうのはこういうものですね。

とんでもないものが出てきてびっくりします。


このような思い込みが出てきたら、

ケイティさんの「ワーク」 に習って自分に質問します。

「私はいつも運が悪くて幸薄い人である」

それは本当ですか?

絶対にそうだと言い切れますか?と。

(詳しくは、是非ケイティさんの本を読んでみてくださいね)

するとその思い込みを手放すことが出来ます。


他にも「私はきれいになってはいけない」という

女子としてあり得ない思い込みを釣り上げたときは

やれやれ、と思いましたが

こうやってひとつひとつ手放していきましょう。


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尊敬しているコーチのメルマガが

「自分の価値の見つけ方」という記事でした。


そのコーチは「私の価値を教えてください」という問いを立てていて、

「私の生かされている意味は、

その人の存在価値をそのまま生かすということだと気づいた」

と書いてありました。


この記事を読んで、

そういえば、私は最近そういうこと考えなくなったなあと思いました。

自分の価値や、生かされている意味

私も以前はそれを必死で探し求めていたのです。


そもそも人の存在価値や意味って何なんでしょうか?

この現実社会での価値とか意味でしょうか?

私は今もわかりません。


人が生きるということに「価値」という概念を持ち込めば

そこには、いばらの道しかないと思うのです。

価値が「ある」か「ない」かの二極論になるからです。


長い間、私は自分には生きる価値なんてないと思って生きていました。

「存在自体に価値があるんだよ」

「あなたはあなたのままでいいんだよ」

そんなこと言われても、何も心に響きませんでした。


なぜ存在自体に価値があるのでしょうか?

自分がいなくなれば誰かが悲しむからでしょうか?

それが存在価値や意味というものなのでしょうか?

やっぱり私にはわかりません。


たとえばコーチのように「なにか」が見つかったとしても

それは価値や意味というよりも、

給食係や生き物係のように

単にその人に与えられた役割というだけではないのでしょうか?


この前、川沿いをウォーキングしてたら

「わたしは歩いているなあ、しあわせだなあ」

「お腹がへるなあ、しあわせだなあ」と思いました。

そのしあわせ感の中に

自分の存在価値や意味などの概念が入る余地などありませんでした。

そんなもんなくったってしあわせでいることは可能なのです。


私は私でいる必要すらない

そう気づいたらとても安心しました。

そのままのあなたで価値があるなんて言われるよりもずっと。








サードアチューメントを受けて10日程経ちました。

この数週間は、脱力感があって、ぼーっとしていました。

忘れ物が多く、普段ならありえない失態を起こし、手帳も失くしました。


サードアチューメントを受けたら

さらにパワーアップするると思ってたのに、何か変・・・。


いつもならこの「何か変」が引き金になって

自分の中の「ネガティブ箪笥」から、

「どうせ」

「私なんて」

「所詮」

など数ある引き出しを開けて落ち込んでいくのですが、

レイキを始めてから

このネガティブ箪笥の引き出しがなかなか開かない。


今まで簡単に開いていたものが開かなくなって

どうしていいかわからなくなり

それで立ち往生してしまった結果、

上記のとおり「ぼーっ」としてしまったわけです。

慣れ親しんだやり方では通用しなくなったのです。


その慣れ親しんだやり方とは、

「自己否定のエネルギーを生きる原動力にする」ということでした。


自己否定のエネルギーは強力です。

それがいくらマイナスのエネルギーであっても

その強力なエネルギーが、今までは必要だったのだと思います。


通用しなくなったということは、もうそうする必要はないのでしょう。

もっと楽で、しあわせなやり方を採用する時がきたのだと思います。


やっと大きなもを自然に手放せそうな気がしています。

必要なときに必要なものがある。

無理やり箪笥を壊す必要はないのです。