羽生くんが競技に別れを告げてプロに転向して2年が経ちました。

7/19は日付が変わった瞬間からSNSに様々なお祝い投稿が溢れていましたが、羽生くんからもTwitterとInstagramとメンシプに3通りのメッセージが寄せられて更に盛り上がりましたねキラキラ

ご本人は記者会見がいつだったかあまり日付は意識していなかったようですが、ファンの盛り上がりに気付いて急いで動画を撮ってメッセージを発信してくれるのが嬉しいラブラブ(ファンが「TwitterとInstagramで動画違う?」とざわついた途端にメンシプでお返事くれるとかちょー親切w)

今年に入ってからじわじわと詰まってきたこの距離感、羽生くんが私達を信頼してくれるからこそのものだと思うので、この心地よい距離と関係を皆で守っていけたらなと感じた1日でもありました。

 

この2年の月日があまりにも濃密かつ激流に翻弄される日々だったので、振り返ってみて「もう2年」というより「まだ2年!?」という印象が私は強いのですが皆さんはどうでしょうか?

 

2年前の7月、羽生くんのプロ転向会見を見た後に私はこんなことをブログに書いていました。

「何はともあれ、羽生くんは大きな羽を得て新しいステージへと飛び立とうとしています。

その先にどんな世界が広がっているのか、彼がどんな世界を創り出そうとしているのか、それはまだ分からないけれど、私達も一緒にそのステージを訪れる為にはきっと今まで以上に応援の力が必要になると思うので、新しいジェットコースターから振り落とされないように気力と体力とを蓄えて(あと出来れば財力も…一番難しいけれどw)、彼が理想とするフィギュアスケートが見られるのを楽しみに応援を続けていきたいと思います」

この時は羽生くんが何をやろうとしているのか何を思い描いているのか全く予想が出来ていませんでした(まだ公式YouTubeもTwitterも開設前だった)

まさかのシェアプラからプロローグ→GIFT→notte stellata→SOI→FaOIと想像を超えるペースで次々と繰り出してくる羽生くんに翻弄される1年を過ごした後、去年にはこんな記事も書きました。

新たな素晴らしい演技の数々(たった1年の間に10近くの新プロ!)、技術の進化と音楽表現の進化、そして独創性あふれる単独公演。MIKIKO先生のインタビューからトレイシーさんの「ユヅルは天から与えられたギフト」という言葉を思い出し「ギフテッド」という存在に思いを馳せたりしながら、それでも私はまだ彼の本当のポテンシャルに気付けていなかったように思います。

 

あれからまた1年。

最初の1年で見せたのがプロフィギュアスケーターとしての進化(深化)とその可能性だとしたら、次の1年で見たのは「クリエイター」としての羽生くんの底知れぬ才能だったのではないかと。プロ活動の節目に振り返ってみてしみじみと実感しています。

GIFTの時にも当然羽生くんのクリエイターとしての才能を絶賛してはいたのですが、その時はあくまで「自分の内面を掘り下げて自分の言葉で物語としてシナリオを書ききった」部分についてが大きかったんですよね。ファンとしてお恥ずかしい限りなのですが、当時は「製作総指揮とはいっても、演出に関してはシナリオを書き上げた後はMIKIKO先生に大体お任せ」していると思っていたんです(勿論細かく要望や意見は伝えていたと思いましたが)

でもRE_PRAYツアー初日をたまアリで見て「あれ?」ってなって。年明けの舞台裏特集を見て「ああ、これは自分の考えが甘かった、羽生結弦という存在を自分はまだまだ理解出来ていなかったんだな」と。

佐賀、横浜、宮城とどんどんブラッシュアップされていく演出と、それに合わせるかのように研ぎ澄まされていく演技。

確かにMIKIKO先生や制作チームの皆さんを信頼してお任せしていた。でもそれはただお任せするんじゃなくて、自分の頭の中にあるイメージと胸の内にある想いを出来るだけクリアに相手に伝える為にあらゆる手段を尽くし(しかもその手法がとても効果的だったとプロのクリエイターから絶賛されるレベルで)、そして様々な分野のトップクリエイターの皆さんとがっぷり四つに組んで創り上げた作品が「RE_PRAY」だった。

 

PLAYER'S GUIDEの「The Plot of〔RE_PRAY〕by YUZURU HANYU」とMIKIKO先生と小原穣さんとの鼎談、ここにクリエイター羽生結弦の凄さが詰まってましたね。特にPlotが本当に想像を超える内容で。

ナレーションのベースが既に完成していること、明確に見せたいビジョンが言葉として描かれていること、そしてその語彙の豊かさ。

例えばOP-1(P006)、実際のオープニングとは順番は違っていますが、ここに書かれた情景がそのまま紗幕演出の映像に反映されています。伝えたいイメージが明確に言語化されている。

場末の素人物書きからするとですね、頭の中に展開した映像やイメージを「第三者に伝わるように文章化する」のってもの凄く難しい事なんですよね。思考を文章化するのですら大変なのに映像を文章化って、それもうプロの脚本家や監督の仕事じゃないですかあせる

S-3-2(P022)の冒頭、「審判の時だ」「これまでの業に その身を焼かれるといい」、この言葉でもうこのパートとそれに続くMEGALOVANIAのイメージが全て伝わるというね(ていうかここまでのプレイヤーの道程を「業」の一言で表現する言語センスが秀逸)……このプロット、プレイヤーがどんどん勝つ事だけにのめり込んでく様をくどくどと説明するのではなく、GAME OVER→Continue?→YESの流れがどんどん短縮されて最後にはキャラクターが死んだ瞬間にYESを押すような文章で表現しているんですよね。P025の説明だけでも十分通じるのだけれど、このプロットがある事でプレイヤーの狂気みたいなものがより明確に演出陣に伝わる。これが何かもう凄いセンスだなって(私の語彙がどうしようもなくて申し訳ないあせる)

M-6(P042)とかM-7(P048) とかM-8(P052)とか、プロットそのものが詩的で美しくてこれ一編でショートムービーつくれそう……羽生くん以前あまり本は読まないっていっていたから、彼の語彙と表現の豊かさって恐らく音楽だったりゲームの物語だったり、何より色々なものを見て様々な感情を巡らせる繊細な感性からくるんだろうけれど、元々文章を書いてきた訳ではない人(論文と物語では書き方が違うので…)がこれだけ濃密な物語を綴れるというのが本当に素晴らしいなと。

これはあくまでも自分が感じているだけの事なのですが。

羽生くんが平昌後すぐにプロに転向していたとしたら東京ドームでの公演を持ち掛ける人は恐らくいなかったんじゃないか、だとしたらこういった才能が果たして花開いていただろうかと。

彼はあの時点でもGOATという呼称に相応しいスケーターでしたが、じゃあ「東京ドーム単独公演」なんていう途方もないことをやらせたいと連想させる存在だったかといえばそこまでではなかった。彼のあの他の追随を許さないような圧倒的なカリスマ性が磨かれたのは、平昌後の逆風に抗いながらも理想のフィギュアスケートを追い求めた4年間の日々でだったんじゃないかなと、私はそう思うんです。

彼が十代に描いていた人生設計通りに23歳でプロに転向していたら恐らく今とは違う形のプロの道を歩いていたのではないか(多分従来のプロスケーターに近い形だったのでは?)、そして「ICE STORY」という舞台が彼のクリエイターとしての才能を掘り起こしたのだとしたら、その舞台を引き寄せたあの4年間の苦闘の日々も決してつらいだけのものではなかったのかもしれない。RE_PRAY全公演を振り返ってふとそんなことを考えました(勿論正しく評価される4年間でも彼の才能は花開いただろうし、その方が遥かに望ましかったのはいうまでもないけれど!)

 

そして羽生くんの更に凄いところは、自分の頭の中にある映像を伝えるのに文字情報だけに頼るのではなく、視覚(ビデオコンテ)+聴覚(プロットの読み上げ)で制作チームの解像度(情報の理解度)を上げようとしたことです。

さっき書いたように頭の中の映像を文章にするというのはとても難しい事なんだけど、あれだけのプロットを書き上げたことで満足せずにスタッフ間の共通認識を極限まで高めるために手間と手段を惜しまなかった事が成功につながったんだなと。

今回特にびっくりしたのが聴覚からのアプローチをとった事なんですよね。

言葉って文字で書かれただけだとその背景にある感情は何も見えてこない。例えば「馬鹿」という言葉だけではそこに込められた感情が侮蔑なのか叱責なのか親愛なのかは伝わらず、前後の文章で補填して初めて想像(解釈)することが出来るみたいに。

でも文章での補填にも限界は当然あるので(読み手の読解力に大きく左右される)、更に確実なのは「声で届けること」なんですよね。

GIFTのモノローグに「きっと叶うよ だって君は叶えたいんでしょ? だったら絶対叶うよ 君は出来ないことが嫌いだから」というのがあって。これって文章だけ見ると前向きな励ましの言葉なんだけど、GIFTの中ではむしろ呪詛めいた重いトーンで語られている。このニュアンスを文章だけで伝えるのはとても難しいけれど、読み上げればすぐに伝わりますよね(GIFTの時はそこまでしたのかは分かりませんが)

S-3-2(P025)での「お前、ここにくるまで、一度も死んでないよな?」「それとも、   何度死んできた?」に絶妙に入り混じった侮蔑のニュアンスとか。

S-4(P032)の一連の語りの、言葉の痛烈さとちいさいさんを彷彿とさせるような柔らかい声色のギャップから始まって、言葉や声のトーンが先鋭化していくかと思えば時折急に柔らかな声で語りだしたりしながら最後にプレイヤーに決断を迫っていく流れとか。

これらは文章だけでは彼の思い描いているイメージを伝える事はとても難しかったと思うので、声での情報を加えて伝えるという選択は(PLAYER'S GUIDEにも何度か書かれていましたが)本当に秀逸な方法だったんだと思います。

(それにしても読み上げる人に力量がなければ伝わるものも伝わらない訳で、誰がやっても上手くいくとは限らない。羽生くん本人は繰り返し俳優業を否定しているけれど、自分で自宅で録音した音声がそのまま公演に使えるレベルだったのならばそれなりの才能があると思うんですけどねw)

視覚的情報として、ビデオコンテというものを私はPLAYER'S GUIDEを読んで初めて知ったのですが(絵コンテなら知っていた)

確かにあのMEGALOVANIAを見ると、最初からああいう映像や照明演出が頭の中にあったとしてそれをUNDERTALEというゲームを知らない制作チームに伝えるのは言語だけでは不可能だと思われ、そうなるとデモテープ(パイロット版)的なものが必要不可欠ですよね。必要不可欠だけど誰もがつくれる訳ではないから、それが自分で出来たというのも思い描くイメージを高いレベルで実現させることが出来た大事な要因だったんだろうなと。

そうやってつくられた完成度の高いプロットを基に、一流のクリエイターとスタッフが惜しみなくアイディアを注ぎ込み(PLAYER'S GUIDEの中で語られるエピソードがどれも素晴らしい、特に鶏蛇さまの時に大型LEDパネルに陸上での振付映像を描写する事にした件とか。あれって本来練習に立ち会う必要のないだろう映像チームが参加していたからこそだよね)、その相乗効果であの素晴らしい完成度のICE STORYが生まれたんですね。

しかもこれだけ緻密に創り上げているにも関わらず、物語の解釈を個人の価値観に委ねるだけの懐の深さがあるんですよね。プロットにも「プレイヤー(観客=神様、傍観者、観測者、制作者、それぞれの価値観で決める)」とはっきり記載されていて、それを意図して制作されている。

伝えたいことを伝えつつ、でも見た人の人の数だけ想像の翼を広げられる余地のある物語、自由な解釈が出来るけれど時々そっと提示される「原作者」の意図、そこで答え合わせのような気分も体験出来る。まさに心躍る今まで体験したことのないエンターテインメントでした。

 

 

こうやってRE_PRAYを振り返ってみると、2年前のプロ転向の時の私の想像を遥かに超える可能性が彼には広がっているんだなと感じます。

1年前のインタビューで語っていた「アスリートでありアーティストであって、エンターテインメントでもある、そこの極致みたいなところにフィギュアスケートというものを使って到達する」というプロフィギュアスケーターとしての目標、そこを目指す道程の途中のひとつの答えがこのRE_PRAYなのでしょう。毛受さんが「自由を手に入れた羽生結弦はこれだけすごい」と語っていたけれど、これでもまだ「最終形」ではないと思わせる(皆信じて疑わない)のが羽生結弦の凄みなんだと思います。

先日のフィギュアスケートマガジンのインタビューで「逆算をしてやってしまうと打算的な表現しかできない」という話をしていますが、競技時代にも「出来ることを出し惜しみしていたらつまらない」って話してて本当にそういう根っこの部分は変わらないですよね。その変わらない部分がプロ活動の土台の部分にあるからこそ、30歳を前にして衰えるどころか磨き上げられていくフィジカルと、更に洗練されていく技術と、幅を広げ続ける身体表現(音楽表現)で誰も見たことのない世界を目指せる。

次の1年、羽生くんは一体何を創り上げていくのか?

またICE STORYとして新しい物語を綴るのもいいし、全く違った形の単独公演を目指してもいいし(オールクラシックで間を清塚さんのトークで繋ぐ公演はどう?)、ちょっと公演一休みして公式YouTubeにいくつか作品上げてくれてもいいし(まぁそれは流石にないかw)、彼が持つ無限の可能性故にファンの妄想も広がりますねキラキラ

 

番記者の方々もそうやって羽生くんの次の挑戦を見守ってくださってる方が大半だと思う反面、ひとつだけイラっとしたのがフィギュアスケートマガジンので共同通信の吉田さんの「新たな指導者像」云々の部分なんですよ。羽生くんが後進の指導について言及したのはプロ転向より随分前の話だし、途中から全く口にしなくなったし、振付も恐らく「自分が自分の理想の音楽表現をどこまで出来るか」しか眼中にない。プロ転向してからは取材していないとはいえ、吉田さんは彼の何を見ていたんでしょうか?そもそも「羽生結弦のフィギュアスケート」と「現在の競技フィギュア」が乖離している状況で彼に何を教えろと?

プロアスリートとしてプロフィギュアスケーターとして、フルスロットルで活動出来る期間は本当に限られていると思います。その大事な時間を余計なことに使ってほしくない、彼自身の為に使ってほしい、後進の指導なんて40過ぎてからでも出来るし本当に学びたい選手は直接じゃなくても学ぼうとする筈。ファンの身勝手なエゴなのは分かっていますが心底そう思います。

そしてファンもまた彼の限られた時間を大事に共有していけたらなと思います。

彼が自分の全てを注ぎ込んで創り出している作品たち、それを出し惜しみなく全力で披露している場をもっと大切にしませんか?

キャーキャー騒いでプログラムの雰囲気をぶち壊している人達(大半が某国のファンと名指し()したらヘイトだと批判されましたが、今年のFaOIを見る限り間違ってはいないと思ってます)を見ると、彼が差し出しているものを受け取ろうとせずにただ彼という存在を消費して自分達が楽しみたいだけなんだなと、そこに彼と彼の作品への敬意も彼への理解もないんだなと。

何目線のファンであってもそれは個人の自由ですし、ある意味ファン層の広がりを証明しているのかもしれません。でもその反面、彼が命削って創り出しているもの(公演だけでなく写真や映像も含めて)を蔑ろにする行為は彼と彼が信頼するスタッフの皆さんに対して本当に失礼だと、そう思わせる事も多かった1年間でもありました。

 

 

『貴いことが尊くあるために』

プロ転向2周年の記事を書こうと思った時に真っ先に浮かんだのがこの言葉でした。

彼がフィギュアスケート界で稀有な存在であること、フィギュアスケートの新しい可能性を切り開く存在であることは、この2年のプロ活動で既に証明されています。そしてその評価がフィギュアスケート界隈に留まらないことも、この1年のダンスやゲーム界隈を始めとした様々な界隈からの反応で既に明らかです。

だからこそ彼が本当の意味で尊ばれる世界であってほしいし、そういうファンでありたい。それがプロ転向3年目を応援していくにあたっての私の願いであり誓いです。

「尊ばれる」なんて書くとまるで神格化でもしているかのように受けとられるかもしれませんがそんな御大層な話ではなくて、彼の実績と才能と人柄に相応しい扱いをしてほしい、ファンとして彼の創り出す世界を大事に受け取って守っていきたい、そんなシンプルな願いと誓いなんです。

 

こんな界隈の片隅からではありますが、これからも変わらずに鬱陶しいほどの羽生愛を叫んでいきたい(そして1年後もまた「振り落とされないので精一杯だったよ汗」とぼやきたい)と思っています……まぁ最近鬱陶しいほどの頻度では全く更新出来ていないんだけれどあせる

 

取りあえず目標は「月1回は更新すること!」←目標低っ