ロミオとジュリエット

 初演の星組から雪組、月組と三つの組で上演され、昨年夏に星組の再演が上演された。この作品は宝塚歌劇団のオリジナルではなく、フランスで生まれたものを宝塚歌劇団の演出家小池修一郎先生によってアレンジを施された。

 フランス版では存在しなかった愛という登場人物が宝塚版では登場する。

 評判の良い作品には必ず法則があると私は考えている。それは始まりのシーンで観客を取り込んでしまう魅力を持っているということである。この作品の場合、長年対立しているモンタギュー家とキャユレット家の若者たちが登場し、モンタギューの若者は青い衣装、キャリュレットの若者は赤い衣装と、お互いの家が対立していることを視覚で訴えている。さらに、このシーンのすごいところは、登場人物とほかの人物との関係性など説明しなければならないところを、このシーンに凝縮しているということである。説明しなければならない部分を簡潔に、かつ、観客を飽きさせることなく進めていくというのは、相当作り手も意識したのではないだろうか。

 ストーリーだが、対立する両家の若者、モンタギューのロミオと、キャピュレットのジュリエットが恋に落ちるが、その環境が彼らの愛を成就させてくれず、様々な策を巡らすが、それが仇となり、二人とも絶命してしまう。そんな二人の姿に両家の人間は互いに憎むことで悲劇しか生まれないことを悟るという流れである。簡潔に述べると、あっさりとしたストーリーだが、シェイクスピアの天才的な人間観察力がスパイスとなり、非常に面白い内容になっている。もちろん、作曲家のジェラール・プレスギュルヴィック氏の音楽がそれをより、良いものとしている。

 この作品を見て、様々な感想が生まれたと思う。また、いろんな登場人物に感情移入した人もいただろう。私自身、キャピュレット家のティボルトに感情移入してしまった。彼はジュリエットを愛していたが、一家の決まりにより、いとこ同士の結婚が認められておらず、悶々としているところに、ジュリエットに求婚者が現れる。その男はパリス伯爵である。パリスはヴェローナの大金持ちで、キャピュレット卿は借金返済のために、ジュリエットにパリスと結婚するように促す…というか命令する。ティボルトからすれば、好きな人が自分以外の人間と結婚してしまうというのは相当心苦しかったはずだ。そこに追い打ちをかけるように、ジュリエットは対立するモンタギューの跡取りのロミオと恋に落ちてしまう。そして、二人はロレンス新婦のもとで結婚式を挙げてしまう。それを聞いたティボルトはその心苦しさを歌う(今日こそその日)。その曲の歌詞にあるように、彼は初めてジュリエットに出会ったときから、好きだという気持ちを持っていた。いわば、すごく純粋であるということではないだろうか。また、彼が最初のシーンで「俺の強い味方、それはこのナイフ」と歌う。その言葉の後ろには、純粋ゆえの弱さや不安を隠すためのものなのではないだろうかと私は考えている。そして、ティボルトはロミオを殺そうと決意する。そんなとき、出会ったのがロミオの友人マーキューシオ。ティボルトとマーキューシオの仲は最悪。ティボルトは子供のころから憎むべき対象だと教えられてきたモンタギュー家の跡取りであり、恋敵であるロミオに対し、苛立っているところに、マーキューシオに出会ってしまう。二人はけんかの末、マーキューシオを殺してしまう。それを見ていたロミオは逆上し、ティボルトを殺してしまう。このシーンは涙なしに見られないのだが、それ以上に悲しむべきは大人たちが作り上げた憎む対象に、判断力のない子供のころから植えつけられた憎しみによって、二人の若者が命を落としてしまうということである。

 ティボルトにしても、ロミオにしても、純粋であり、生まれた時代、国が異なっていたら、大親友だったかもしれない。それが憎しみというものによって、また、周りのエゴによって悲劇を生んでしまった。この憎しみというスパイスが、シェイクスピアのすごいところである。というのは、このロミオとジュリエットには原作がある。その原作には憎しみというものは、全くと言っていいほど出てこない。シェイクスピアが400年の時を超え、我々に伝えたかったのは、憎しみとは我々が考えている以上に恐ろしく、醜く、そして、悲劇を生むということなのかもしれない。