三十二 忍ぶ恋
「(略)恋の至極は忍恋と見立て候。逢ひてからは恋のたけが低し、一生忍んで思ひ死する事こそ恋の本意なれ。(略)」(聞書第二 一五七頁)
恋のたけとは徴妙な表現である。アメリカにおける日本文学の権威ドナルド・キーン氏が、かつて近松(門左衛門)の心中物の解説をして、恋人同士は心中の道行に出で立つときに、その道行のはなやかな文章とともに、急に背が高くなるということを書いたことがある。それまで市井の平凡な、家族や金にからまれたみじめな男女であった二人は、一途の恋に心中への道をたどるときに、たちまち悲劇のヒーローとヒロインとしての、巨人的な身の丈を獲得するのである。
いまの恋愛はピグミーの恋になってしまった。恋はみな背が低くなり、忍ぷことが少なければ少ないほど恋愛はイメージの広がりを失い、障害を乗り越える勇気を失い、社会の道徳を変革する革命的情熱を失い、その内包する象徴的意味を失い、また同時に獲得の喜びを失い、獲得できぬことの悲しみを失い、人間の感情の広い振幅を失い、対象の美化を失い、対象をも無限に低めてしまった。恋は相対的なものであるから、相手の背丈が低まれば、こちらの村丈も低まる。かくて東京の町の隅々には、ピグミーたちの恋愛が氾濫している。
『葉隠入門』三島由紀夫 (新潮文庫) 20240827 P71