百年後も読める鍵を、いま選ぶ
2026年7月21日、産業技術総合研究所と、東京大学発のベンチャーであるOptQC株式会社が、光量子コンピュータの1号機「MoQuren(モクレン)」の稼働開始を発表しました。設置場所は産総研の量子・AI融合技術ビジネス開発グローバル研究センター、通称G-QuAT。商用化を見据えた国産の光量子コンピュータが実際の研究開発環境に導入されたのは、世界で初めてだといいます。
この機械の特徴は、冷やさなくてよいことです。
量子コンピュータの主流であった超伝導方式は、絶対零度近くまで冷却し続けなければ動きません。そのための冷凍機が電力を食い、装置は大掛かりになり、置ける場所も限られてきました。光の粒を使う方式は、室温で動きます。冷却装置がいらない分、小さくできて、電力も抑えられる。
続く8月3日には、OptQCがNTTと資本業務提携を結んだと発表されました。2030年度までに、誤り耐性を備えた100万量子ビット級の実現を目指すとしています。研究室の外へ出てきた、ということなのだと思います。
多くの記事が書いていないこと
この報道を受けた記事の多くは、創薬、新素材、金融の最適化、AI開発といった応用分野に触れています。それはその通りなのでしょう。
ただ、私はもう一つの側面が気になりました。暗号です。
量子コンピュータが十分に育ったとき、いま世界中で使われている暗号のいくつかは、意味をなさなくなると言われています。米国国立標準技術研究所(NIST)が2024年に耐量子計算機暗号の標準化を完了させたのも、その備えです。
私はいま、ブロックチェーンを使った著作権の新しい仕組み(UCA=Universal Creative Attribution)を提案しています。作品にデジタルの指紋をつけて、使われた分だけ自動で対価が流れるようにできないか、という構想です。国の機関にも提言書を提出しました。
その私にとって、この報道は他人事ではありませんでした。
狙われるのは鍵であって、指紋ではない
ここは正確に書いておきたいところです。
私の構想の土台にあるのは、作品から計算される「ハッシュ値」というものです。これは作品ごとに固有の値で、一文字でも違えば全く別の値になります。指紋のようなものだと思ってください。
このハッシュ値は、量子コンピュータに対して比較的強いとされています。強度は落ちるけれども、破られるわけではない。
危ないのは、その隣にある「署名」のほうです。誰が登録したのかを証明する部分に使われている暗号は、量子コンピュータが最も得意とする種類の計算で解けてしまう可能性がある。つまり脅威は、指紋そのものではなく、指紋を押した人が本人だと証明する印鑑のほうに向かっています。
ですから「量子コンピュータが来たら著作権のブロックチェーンは全滅する」というのは、正確ではありません。土台は残り、その上に載る本人証明を取り替える必要が出てくる、というのが実際のところだと思います。
なお、2030年に100万量子ビットが実現したとしても、それで直ちに暗号が破られるわけでもありません。NTTの発表資料自身が、意味を持つ指標は「論理量子ビット」であり、公表している数字は「物理量子ビット」だと注記しています。誠実な書き方だと感じました。
保護期間七十年という、他の分野にない条件
そのうえで、私が申し上げたいことが一つあります。
金融の取引記録は、数年で意味を失います。契約書の多くも同じです。ところが著作権の保護期間は、著作者の死後70年です。
仮に、いま30歳の作曲家が今日ひとつの曲を登録したとします。その方が90歳まで生きられたとして、保護が切れるのは2150年代。百年以上先まで、その登録は有効でなければなりません。
2026年の暗号技術で作った権利の登録簿が、百年後も読めて、改ざんされていないと証明できるでしょうか。私はそうは思いません。
ブロックチェーンで著作権を守るという話は、世界中にあります。けれども「保護期間が異常に長いからこそ、知的財産こそ耐量子設計を最優先すべき分野なのだ」という指摘は、私の見る限りまだあまり語られていません。
いま作るなら、最初から「鍵を取り替えられる設計」にしておくしかない。完全な答えを今日出す必要はないけれども、取り替え可能であることだけは、最初の設計に埋め込んでおかなければならない。そう考えています。
攻める側と守る側が、同じ国内にある
もう一点、今回の報道で目に留まったことがあります。
私は提言書のなかに、技術仕様を詰める際には情報処理推進機構(IPA)と産業技術総合研究所との連携が適当ではないか、と書きました。書いた時点では、正直なところ一般論でした。
その産総研が、実機を持ちました。
暗号を破りうる側の計算機と、暗号の安全性を評価する側の機関が、同じ国内の、同じ研究所にある。この配置を持っている国は、それほど多くないはずです。自分たちの守りを、自分たちの機械で試せる。
これは日本にとって、少なくとも悪い条件ではないと思います。
私が書けなかったこと
最後に、自分の文章の弱いところについて書いておきます。
提言書の第7節で、私はこう書きました。「量子計算機の本格稼働が現実となる2030年代以降、この前提が揺らぐ可能性があります」。
2030年代以降。 曖昧な書き方でした。いつ、誰が、どこまでという中身がない。当時の私には、それ以上の解像度がなかったからです。
いま、日付の入った計画表が国内から出てきました。2027年度に設計完了、2028年度に1万量子ビット級での検証、2030年度に100万量子ビット級。この数字が計画どおりに進むかどうかは分かりません。しかし少なくとも、私が「2030年代以降」と濁して書いた場所に、具体的な目盛りが入りました。
実は私は、以前に別の提言で似た失敗をしています。人型AIについての提言のなかで、ある企業の量産価格の見通しを引いて論を組み立てたのですが、その前提が一年ほどで崩れました。数字を頼りに書くと、数字が動いたときに論ごと倒れます。
ですから今回は、控えめに書きます。量子コンピュータで日本が世界を獲るとは書きません。暗号が破られる日が近いとも書きません。書けるのは、次のことだけです。
それだけのことですが、それだけのことが、私にはありがたく思えます。