十三 外見の道徳 | Cの憂鬱

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先の無い高齢者のつぶやきです。Cは、お隣の怖い国、お金、職業などなどの頭文字?、かな。

十三 外見の道徳 ルース・ベネディクトは「菊と刀」という有名な本の中で、日本人の道徳を「恥の道徳」と規定した。この規定自体にはいろいろ問題 があるが、武士道の道徳が外面を直んじたことは、戦闘者、戦士の道徳として当然のことである。なぜなら戦士にとっては、つねに敵が予想されているからである。戦士は敵の目から恥ずかしく思われないか、敵の目から卑しく思われないかというところに、自分の体面とモラルのすべてをかけるほかはない。自己の良心は敵の中にこそあるのである。このように自分の内面にひきこもった道徳でなくて、外面へあずけた逍徳が「葉隠」の重要な特色をなすものである。そして道徳史を考える楊合に、どちらの道徳が実際的に有効であったかはいちがいに言うことはできない。キリスト教でも、教会に自分の逍徳の権威をあずけたカゾリックは、むしろ人々を安息の境地に置いたが、すべてを自分の良心一個に背負ってしまったプロテスクントの道徳は、その負荷に耐えぬ弱者の群をおしつぷして、アメリカで見られるごとく無数のノイローゼ患者を設出するもととなった。 「葉隠」にいわく「人の難に遭うたる折、見舞に行きて一言が大事の物なり。その人の胸中が知るるものなり。兎角武士は、しほたれ草臥(くたび)れたるは疵なり。勇み進みて、物に勝ち浮ぶ心にてなければ、用に立たざるなり。人をも引立つる事これあるなり。」(聞書第一 一二八頁) 「武士はしほたれ、草臥れたるは疵なり。」というのは、同時にしおたれて見え、くたびれて見えるのはきずだということを暗示している。なによりもまず外見的に、武士はしおたれてはならず、くたびれてはならない。人間であるからたまにはしおたれることも、くたびれることも当然で、武士といえども例外ではない。しかし、モラルはできないことをできるように要求するのが本質である。そして武士道というものは、そのしおたれ、くたびれたものを、表へ出さぬようにと自制する心の政治学であった。健康であることよりも健康に見えることを重要と考え、勇敢であることよりも勇敢に見えることを大切に考える、このような道徳観は、男性特有の虚栄心に生理的基礎をおいている点で、もっとも男性的な道徳観といえるかもしれない。 『葉隠入門』三島由紀夫 (新潮文庫)   20240808  P53