貴族社会と大衆社会の違い | Cの憂鬱

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先の無い高齢者のつぶやきです。Cは、お隣の怖い国、お金、職業などなどの頭文字?、かな。

貴族社会と大衆社会の違い 1920年から30年にかけて世界中に少しずつ、それまでの貴族社会から大衆社会へと変わっていきました。これは何を意味していたのかというと、貴族社会というのはまず貴族が全国民の5%くらいいます。その人たちは高度な教育を受け、小さいころから「おれたちは貴族だから覚悟を決めて、この国を指導するのだ」という意気込みがありプライドも高かったのです。 貴族たちは、一人ひとりが「独自性」というものを持っていました。英語ではよく「アイデンティティ」と表現するのですが、自分なりの考え、自分なりの生活態度、目分なりの人生の目標というのをそれぞれの貴族は持っていたわけです。 つまり、一人ひとりが独立した人間であった―――。それはどういうことかというと一人ひとりが自分で情報を得て、それに基づいて考えていたということです。ですから、むしろ貴族は「他の貴族と自分は違う」ということが誇りでした。みんなと同調しようという考えはなかったのです。 ところが、大衆というのはそれとまったく 逆だとよく言われます。大衆というのは基本的に同じ情報を得ています。そして、学問や判断力にはあまり自信がないので、まわりをキョロキョロとみて「最近みんなが半袖を着るようになったから自分も着よう」「ああいうものが流行っているみたいだから私もそれを食べよう」などとなる。その結果、みんなと一緒になるということが大衆の規範になってしまうのです。 「貴族は一人ひとりがよく考える。大衆は付和雷同する」……。 今回の新型コロナウイルスもそう。ウイルスが流行って新聞やテレビ が「怖い、怖い」というと自分も怖くなる。年を取った人がお亡くなりになるというと、年配の方はビクビクするというふうになるのです。 『フェイクニュースを見破る 武器としての理系思考』武田邦彦 (ビジネス社刊) R060724 P229