本日より、武田邦彦先生の『かけがえのない国――誇り高き日本文明』を読み込みます | Cの憂鬱

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本日より、武田邦彦先生の『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より

まえがき1    欧米よりも日本が優れている理由

●「文明開化」という言葉に惑わされるな

一般的に「偉い」とされるようなこと、たとえば「頭がいい」「足が速い」「力が強い」「事業で成功した」「名のある賞を獲った」などといったことに筆者は素直に拍手を送ります。しかし、そうしたことが果たして「人として本当に素晴らしいこと」でしょうか。
社会のトップに立った政治家、あるいは社会に貢献した実業家など、そういった人々が偉いというわけでは決してない、と筆者は考えています。
能力や実力を含めた力の序列ではない、一人ひとりに備わった偉さというものがあるのです。これが本当の「平等」という考え方です。
もちろん日本社会の中にも序列がありますが、日本人は「お母さんがいちばん偉い」という伝統の中で生きてきました。これがいわゆる「西洋文明」と決定的に違うところです。
古来、日本の神様のトップは天照大神という女神です。令和の御世で126代を数える天皇の祖神です。そして、『古事記』や『日本書紀』に描かれた高天原(たかまのはら)という神々の暮らす世界に軍隊はありませんでした。
そもそもの日本が、力によるものではない序列を基本とし、かけがえがないということを大切にして皆で守ってきた“文明”であるということは、こうした事実一つをとっても証明できます。

一方、西洋文明は古来、軍事に長けていました。他者を倒して序列を整えていくことに関しては西洋文明に優れたものがあります。
『省諐録』という著書で知られる明治維新期の兵学者・佐久間象山も指摘していることですが、西洋は自分一人に利益がある状態を最善とします。その状態に持っていくための“嘘”をつく技術にも優れています。
これまで筆者は、明治維新期に使われた「文明開化」という言葉をずっと不思議に思ってきました。福沢諭吉が『西洋事情』という著書で初めて使ったとされているようですが、彼ほどの大人物がなぜ「開化」と表現したのか。

幕末、西洋列強が日本に押し寄せました。植民地となることを防ぐために、日本は西洋の技術を熱心に取り入れ、誤解を恐れずに言えば「残虐行為」を行えるようになりました。
もちろん、それによって日本は「日清戦争」「日露戦争」に勝利するのですが、これによって先にお話をした日本の伝統が破壊された、すなわち「日本文明の衰退」だったのではないか……。
当時の世界情勢でそうせざるをえなかった先人たちの努力には敬意を表しますが、西洋文化を取り入れ、日本人がより幸福になったかどうかはなはだ疑問です。
「文明開化」というのは、西洋文明を輸入することで、「日本がこれから開化する」という意味です。福沢諭吉など当時の教養人には確かにそう見えたのかもしれません。しかしこれは、西洋の「嘘をつく技術によって惑わされた」ということも考えられます。
西洋は哲学や法学、理学といったように体系化してしまうことが得意で、何事においても「西洋のほうが優れている」「西洋のほうが先である」と思い込ませることに長けています。
たとえば、17世紀フランスの哲学者ルネ・デカルトに「我思う、故に我あり」という有名な言葉があります。存在という概念の自明さを言ったものですが、これなどはすでに、イブン・スィーナーという人をはじめとして、11世紀のアラビアに、同じことを説いたイスラム哲学者が何人もいました。
また、18世紀イギリスの経済学者トマス・ロバート・マルサスは著書『人口論』で「人口は制限されなければ等比数列的に増加するが、生活資源は算術級数的にしか増加しない。よって生活資源は必ず不足する」と述べており、同書は人口論の古典と言われています。
これも、18世紀清朝の官僚洪亮吉(こうりょうきつ)のほうが先です。同様の人口論を主張した彼の著書『治平篇』はマルサスの『人口論』より5年ほど早く完成していました。
イブン・スィーナーも洪亮吉も、西洋人ではないから西洋の体系から外されているのです。

『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より
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