刑務所において受刑者を励ますものはなにか。
刑務所の中では、様々なかたちで治安管理・安全管理のために受刑者達に処遇が施されている。
それは類であったり、種であったり、作業等工であったり。
刑務所とは、なにも特別なことなどなく、時間だけが娑婆のそれに比べ長く感じる空間。
刑務所内に受刑者達を励ますものはそれほど存在しない。
やはり受刑者を励ますものは、待ち人からの手紙であったり面会。
面会は唯一心休まる時間であり、娑婆との接点を感じ、自分が忘れられた存在ではないと感じることが出来る。
手紙もそう、娑婆での出来事、待ち人の安否、少しの愚痴、泣き言を素直に書けたりもする。
手紙を書いている時間は、ムショ暮らしの辛さを忘れられたりもする。
私自身、母親の面会は辛いものでもあった。
年老いた母親が海を越え面会に来てくれたり、長い距離を運転し来てくれたり。
当時は過剰収容の時代で面会時間が15分なんてこともあった。
たった15分のために何時間もかけ来てくれる母の姿に泣きそうになった。
面会室を出ていく母親が、立ち合いの刑務官に頭を下げる姿に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
母親の去り行く背中が小さくかすんだ。
その姿を見るたびに、ムショ内での辛さなど大したことはないと自分を鼓舞した。
どんなことがあっても懲罰など受けず出所すると心に決めた。
どんなに笑われても、どんな理不尽なことをされても耐えてみせると。
送られてくる手紙に母親の泣き言、辛さ、苦しみなど一切書いてなかった。
それがまた私を鼓舞した。
何もないわけがないのにと。
私を気遣い元気なふりをしてくれているのだろうと。
こんな愚息でありながら見捨てずにいてくれた母親。
そこに気付けば、ムショの辛さなど本当に大したことではなかった。
待ち人の方々が思う以上に手紙、面会はありがたく受刑者達を励まし勇気づける。
ほんの一瞬だけでも辛いことが忘れられる。
その辛いと思っていたことが、待ち人を想えば大したことではないと気付く。
折れそうだった気持ち、キレそうだった心、懲罰なんて怖くねぇなど思っていた馬鹿な自分が恥ずかしくなる。
この人達のために死ぬ気で頑張らねばと思う。
この人が待っていてくれるのだからクソみてぇな人間関係など気にしまいと思う。
自分勝手な行動、言動で待ち人を悲しませるようなことはしまいと誓う。
一日でも早く娑婆に出て、この手紙を送ってくれた待ち人のためにと思う。
受刑者達を励ますもの。
それは待ち人からの手紙、面会といった目に見えるものだけでなく、その背景にある待ち人の苦しみ、悲しみ、切なさをくみとれるかどうかにもある。
大切なことは、心、気持ちが伝わるかどうか。
手紙が一行でも構わない。
面会が5分でも構わない。
大切なことは、互いに思いやり、気持ちが伝わるかどうか。
それが受刑者達を常に励ますことになる。
気持ちは必ず伝わる。
どんな受刑者にも。