奥羽越(東北、新潟)諸藩の軍事同盟「奥羽越列藩同盟」と、薩摩・長州を中心とする明治政府軍が戦った戊辰戦争から今年でちょうど140年。これを記念し、同盟結成の地・宮城県白石市で23日、関係自治体の歴史愛好家らが集うシンポジウムが開催される。“
《1867(慶応3)年、15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返還すると、薩長を中心とする明治政府が成立し、全国の諸藩のほとんどが新政府になびいた。しかし東北、新潟の諸藩は会津藩などを一方的に「朝敵」として討伐の対象にした新政府のやり方に反発。仙台、米沢、盛岡など各藩の代表者が白石城に集まり、列藩同盟を結成した》
なぜ同盟は新政府に対抗したのか。福島県郡山市在住の歴史作家、星亮一さん(73)はこう考える。「(幕末の動乱で)御所に発砲した長州が官軍となり、当時御所を警護していた会津が朝敵とされた。いくら薩長が明治帝を擁しているとはいえ、これではあまりにも理不尽だ。義に厚く、筋を通す東北人は薩長の横暴を見過ごせなかった」。
《結局、同盟は新政府軍に敗れる。新政府は同盟諸藩の石高を削り、特に会津に対する処分は厳しかった。会津側の戦死者は「賊徒」とされ埋葬することもかなわなかった、と伝えられる》
このあまりにも理不尽という東北人と薩長との考え方に隔たりがあったと推察される。
佐幕が多かった東北人のマイナス面は帝が孝明天皇の時代は良かったが,次に践祚した明治天皇は14歳で討幕派の岩倉具視と薩長らが結託して朝廷を牛耳る時の流れを読まなかったこと。
薩長はクーデター成功と見るやいなや今までの執政である幕府を倒さねば新政府になった時に実質的権力を握れない。
しかも,その前に下関戦争,薩英戦争が勃発し,仏 蘭 米と英との戦いで己を知り,近代兵装に姿を変えたことが逆に幸いとなっている。
近代兵装を盾に公家衆を取り込んだ薩長と比較して,寒い雪国で我慢強い実直な東北人とでは時の改革の流れも違っていた。
仮に列強の伊達藩と諸外国との戦争が1863年頃に起こっていたならばどうだろうと思ったこともある。(下関のような海峡利害という土地柄ではないから無理もあるが・・・・・)
独眼竜政宗の祖である伊達が近代兵装を整え,果たして倒幕へ傾くだろうか?
薩長と同じく外様であった仙台藩の米蔵はその中で最大規模を誇るものであった。仙台の米は、江戸の米相場を左右するほど影響力があり,雄藩として申し分のない地位だったろうと考える。
薩長よりも機先を制すれば田舎モノとバカにされてきた東北人にも新政府の実力者になれたかも知れない。
そして戊辰戦争すら起こらなかったかも知れないが・・・・・・起こり得るのは東軍(徳川,伊達,奥州その他連合軍)と西軍(薩長中心の西国連合軍)の対立となり,関ヶ原のような天下分け目の戦いを薩長としていたかも知れない。
そうすれば『錦の御旗』は東軍に上がったかも知れないと思う。 薩長が賊軍となり,朝敵となるような歴史になれば今の日本は手堅い北欧のような良い国になったかも知れない。
そんな自分は・・・・・・やはり薩長は嫌いなんだと自覚する。(苦笑)