戊辰戦争のうち会津戦争で新撰組3番組長斎藤一が,負けるとわかっていた会津において『今落城せんとするをみて志を捨て去、誠義にあらず』と言って,庄内に向う土方とともに行動せずに会津に残る覚悟を決めた文句である。


 斎藤一は会津で命を散らす覚悟だった。  会津城が降伏してもなお,戦い続け、会津藩士とともに城外で新政府軍への抵抗を続けた。容保が派遣した使者の説得を受け入れてやっと新政府軍に投降した。


 その後の斎藤一の人生が決まったのである。 降伏後は会津藩士とともに、越後高田で謹慎生活を送る。

その後,会津の人々ともに斗南藩(現下北半島)に移る。 


 旧藩士と家族1万7千人余りと移住したが、そこは火山灰土の風雪厳しい不毛の土地であった。


 斎藤は斗南藩大参事山川浩らの仲人で二度目の結婚をする。 この時も会津人に慕われその人々とともに生きる定めを背負っていたのか?

 新選組とともに斬り合いの人生を歩んだ斎藤にとって苦しく平穏な不毛の地での暮らしだったと思う。


 斗南藩を離れ東京へ移住。 斎藤にとって山川浩の影響を大きく受けている。


 斎藤自身,百姓にはなれなかったのであろう。 この時期,西郷隆盛を主とする西南戦争が勃発する。


 西南戦争は斎藤にとって会津戦争の仇を討つべく薩摩との戦いである。 斎藤一はこの頃旧会津藩主松平容保公から賜った『藤田五郎』姓を名乗っている。


 西南戦争では薩摩の旧氏族の白兵戦に苦しむ官軍に志願した斎藤は抜刀隊として活躍する。 新選組の3番組長だった斎藤は官軍となったことに皮肉を感じたであろう。

 西南戦争抜刀斬り込みの際、銃撃戦で負傷するがその天才的な剣技と指揮力で、薩摩兵を圧倒。大砲2門を奪取するなど、当時の新聞に報道されるほどの活躍した。


 その後,警察を退官し,生涯を閉じた墓は会津にある。 半生を会津に捧げ会津とともに生きた。


 負けるとわかっていても会津とともに戦う斎藤一 あっぱれ也。