>於是、阿遅志貴高日子根神、大怒曰、「我者、有愛友故、弔来耳。何吾比穢死人」云而、
>抜所御佩之十掬剣、切伏其喪屋、以足蹶離遣。此者、在美濃国藍見河之河上、喪山之者也。
>其、持所切大刀名、謂大量、亦名謂神度剣。 〔度字以音。〕
>故、阿治志貴高日子根神者、忿而飛去之時、其伊呂妹高比売命、思顕其御名、故、歌曰、
>「阿米那流夜 淤登多那婆多能 宇那賀世流 多麻能美須麻流 美須麻流迩 阿那陀麻波夜
>美多迩 布多和多良須 阿治志貴多迦比古泥能迦微曽也」。此歌者、夷振也。
(※古事記・上巻より)
やや丁寧に自動詞なのか他動詞(≒使役動詞)なのか確認してみよう。要所だけ確認する。
手元の漢和辞典に拠ると、「怒」の字義は、「いかる」も、「いからせる」も、載っている。しかし、
最初の「阿遅志貴高日子根神、大怒曰」において、「怒」は、文脈から明らかに自動詞である。
* * *
注意すべきは、「以足蹶離遣」という箇所である。「蹶」の字義は、①「つまづく, つまづかせる」、
②「倒れる, 倒す」、そのほかに、③「足で押しのける, 蹴遣る」、④「尽きる」、…そう載っている。
該当する③の意味(蹴遣る)は、実は②の「倒す」に近く、対象物に作用する意の他動詞である。
「離」の字義も、「離れる, 離す」(離る, 離つ)の両方が有るが、ここでは、対象に働き掛ける意だ。
また、「遣」については、「蹶」(蹴遣る)の意味を重ねて表現するものであり、これも他動詞である。
つまりは、「喪屋」を切り伏せたうえに、蹴っ飛ばし、遠くの方へ放った(追い遣った)、というわけだ。
#丁寧に読み直してみると、出来事の記述としては、「切伏其喪屋、以足蹶離遣」から、すぐ、
#「故、阿治志貴高日子根神者、忿而飛去之時、其伊呂妹高比売命、思顕其御名」へと続く。
#端的に言って、「忿而飛去」は、「大怒」を承けた「忿」、および、「蹶離遣」を承けた「飛去」だ。
#漢和辞典を確認すると、「飛」には、「飛ぶ, 飛ばす」の両方の意味が有る。加えて、「去」にも,
#自動詞の「立ち去る, 退く, 離れる, 遠ざかる, 逃げる, 消える, 失せる」等のほかに、他動詞の
#「除く, 取り除ける, 捨てる, 減らす, 遠ざける, 退ける, 離縁する」等の意味が有る。大いに怒る。
#そして、(喪屋を)蹴っ飛ばし、遠くへ放つ(追い遣る)。その行為が、「忿而飛去之時」…なのだ。
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何が言いたいかというと、一般に、また、私自身も、今まで、「忿而飛去」の「飛去」に就いて、
疑うことなく自動詞と思って、古事記の本文を読んできた。しかし、よく叙述の流れを見れば、
(喪屋を)「蹴っ飛ばした」こと。「遠くへ離ち遣った」こと。それを承け、「飛去」と書かれている。
そう読み直したほうが良いのではないか。この箇所の「飛去」は他動詞、と言いたいのである。
もし仮に他動詞なら…「阿治志貴多迦比古泥能迦微」と述べて御名を顕彰する際の「多迦」は,
紛れもなく、他動詞の意味を基本とするシュメール語の「taka」(to abandon)に重なるのである。
この「taka」(to abandon)については、『ePSD2』で簡単に見ることが出来る…詳しくは、そちらを。
此処で、「志貴」=「ski」(滅びる, 滅ぼす)にも注意。こちらも、ちゃんと他動詞の意味を持っている。
「阿治志貴」の意味は、「怒って飛び去る」と言うよりは、「怒って蹴っ飛ばす(遠くへ遣る)」。である。