日本書紀(正文)の洲生みは、「淡路洲、大日本豊秋津洲、伊予二名洲、筑紫洲、
億岐洲、佐度洲、越洲、大洲、吉備子洲」と続く。「大八島国」と呼ぶ。古事記とは、
やや異なる部分が見られるのだが、「大日本豊秋津洲」が本州、「伊予二名島」が
四国、「筑紫洲」が九州、という点は変わらない。そのことを先ず確認しておきたい。
ところが、神武31年(BC296)に、天皇が、(おそらく赤子の神渟名川耳を連れて)
「腋上」の「嗛間丘」に登り、「国状」を廻望して、「あなにや、国獲つること」と言い、
そして、「内木綿の真迮国と雖も、猶し蜻蛉(アキツ)の臀呫せるが如もあるかも」、
と言った。これに由り、始めて、「秋津(アキツ)洲」の号が有る、と日本書紀は書く。
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即ち、時間に即して言えば、洲生みの段階では、それぞれの「洲」の呼号は無く、
「淡路洲に当たるA洲、大日本豊秋津洲に当たるB洲、伊予二名島に当たるC洲、
筑紫洲に当たるD洲」などを生んだのであり、当該のB洲について言えば、まさに、
神武31年(BC296)に、神武天皇が、「腋上嗛間丘」から「国」(=「郷」)を廻望して、(※直後に「郷」とあり)
「アキツ(蜻蛉)の臀呫せるが如もあるかも」と言ったことにより、「アキツ(秋津)洲」
という呼号を持つことになったのである。では、廻望した「国」(=「郷」)は、何処か。
神武天皇が廻望した所は、「腋上嗛間丘」から廻望できる所だが、この「腋上」は、
孝昭元年(BC141)の遷都地の「掖上」に同じ。古事記に「葛城掖上宮」とあるから、
「葛城」の範囲に、「掖上」は存在する。ところが、履中三年条に「掖上室山」とある。
孝安二年(BC57)の遷都地は「室」の地であり、この宮都の名は「秋津洲宮」と謂う。
古事記に「葛城室之秋津島宮」と載る。この場合、「腋上嗛間丘」から廻望したのは、
同じ葛城エリアに属す、後の「秋津洲宮」(室之秋津島宮)を中心とするあたりだろう。
#こんなことは、言ってみれば、だれが読んでも分かることであり、だからこそ、