「室之秋津島」の故地を探る | ■朽ち果てた館■

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ARIONの預言解読──音楽に載せて

日本書紀(正文)の洲生みは、「淡路洲大日本豊秋津洲伊予二名洲筑紫洲

億岐洲佐度洲越洲大洲吉備子洲」と続く。「大八島国」と呼ぶ。古事記とは、

やや異なる部分が見られるのだが、「大日本豊秋津洲」が本州、「伊予二名島」が

四国、「筑紫洲」が九州、という点は変わらない。そのことを先ず確認しておきたい。

 

ところが、神武31年(BC296)に、天皇が、(おそらく赤子の神渟名川耳を連れて)

腋上」の「嗛間丘」に登り、「国状」を廻望して、「あなにや、国獲つること」と言い、

そして、「内木綿の真迮国と雖も、猶し蜻蛉アキツの臀呫せるが如もあるかも」、

と言った。これに由り、始めて、「秋津アキツ」の号が有る、と日本書紀は書く。

 

*   *   *

 

即ち、時間に即して言えば、洲生みの段階では、それぞれの「」の呼号は無く、

淡路洲に当たるA洲大日本豊秋津洲に当たるB洲伊予二名島に当たるC洲

筑紫洲に当たるD洲」などを生んだのであり、当該のB洲について言えば、まさに、

神武31年(BC296)に、神武天皇が、「腋上嗛間丘」から「」(=「」)を廻望して、(※直後に「」とあり)

アキツ蜻蛉の臀呫せるが如もあるかも」と言ったことにより、「アキツ秋津

という呼号を持つことになったのである。では、廻望した「」(=「」)は、何処か。

 

神武天皇が廻望した所は、「腋上嗛間丘」から廻望できる所だが、この「腋上」は、

孝昭元年(BC141)の遷都地の「掖上」に同じ。古事記に「葛城掖上宮」とあるから、

葛城」の範囲に、「掖上」は存在する。ところが、履中三年条に「掖上室山」とある。

孝安二年(BC57)の遷都地は「」の地であり、この宮都の名は「秋津洲宮」と謂う。

古事記に「葛城室之秋津島宮」と載る。この場合、「腋上嗛間丘」から廻望したのは、

同じ葛城エリアに属す、後の「秋津洲宮」(室之秋津島宮)を中心とするあたりだろう。

 

#こんなことは、言ってみれば、だれが読んでも分かることであり、だからこそ、

#神武31年(BC296)に出てくる「秋津洲」に関し、新編全集の頭注のなかでも、
#「それが国号になる以前は、奈良県御所市室(旧秋津村大字室)辺りの地名
(孝安天皇皇居の地)であった」と述べられる。これは、言わば確定的事項だ。
 
*   *   *
 
 
したがって…問題たる問題は、「秋津村大字室」の故地が、何処か?…である。
アレクサンダーが、神武29年(BC298)に設けた子(後のアルサケス1世)と共に、
廻望した「」(=「」)が、漢字で「室之秋津島」と書ける領域とすると、其処は、
阿牟川」(アムダリア)の流域だ。何故なら、「秋津」(アキツ)が表す「秋八月」は、
インドで言う「Bhādrapada」(室月)である…西アジアで言う【AB】(アブ5)である。
その暦法上の事実に基づき、【AB】(阿牟5)が、「」に表記されているのだから、
室之秋津島」は、ロクサネの故郷=オクシュアルテスの故郷である「バクトリア」だ。
一方、ザラフシャン川がアム川に合流する手前に「ブハラ」(安国)が立地する。実は、
神武天皇が廻望した国(郷)は、「浦安国」とも呼ばれる。且つ、「」に遷都したのは、
観松彦香殖稲」(孝安天皇)である。「孝昭孝安孝霊孝元」と続くので、「孝安」も、
浦安国」を示すと見てよい。この場合、「ブハラ」(安国)を指す可能性も無視できない。